『バイオショック・インフィニット』感想・考察 : 選択の自由と、なお逃れられない罪。


 FPSのシューティングゲームについて何か書くというのも変な話なのだが、とりあえず何か書いてみる。


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 *『バイオショック』『バイオショック・インフィニット』に関するネタバレあり。なお、『バイオショック2』は未プレイ。*


 『バイオショック・インフィニット』で描かれるのは、自由意志と原罪の併存である。ブッカーは <洗礼を選択する自己 / 洗礼を選択しない自己>の両方として有り得るが、しかしいずれを選択した場合にも罪から逃れることができない。〈洗礼を選択しなかった自己=主人公ブッカー〉は最後まで自身の罪に気付くことはできず、例え全く本人がその罪に触れることがなくとも、罪から逃れることはできないのである。量子力学と平行世界という設定は、このような併存 (自由に選択することと、自己の内に普遍的に存在する罪の併存) を描き出すためのものであった。なお、このように、選択する自己の存在を許しながら、しかし人は罪を知り得ず、それゆえに救済を知り得ないとする構造は、プロテスタンティズムの人間観に通じるものである。

 そして、こうした宗教的人間観は、舞台となる社会 (=コロンビア) においても底流している。すなわち、白人至上主義の社会においても。『バイオショック・インフィニット』に対して「テーマが一貫していない」という批判がある。人種差別と宗教などをテーマにしながら、ラストはSFになり唐突に終わりを迎えていて一貫していないと。確かに回収が不充分な要素は多いから、こういった批判が出るのは理解できる。だが、大局的に見た場合、おそらくこの批判は妥当ではない。

 ブッカーは「ウンデット・ニーの虐殺」に深く後悔し、そこで洗礼の選択の前に立たされる。まず第一に指摘できるのは、「ウンデット・ニーの虐殺」を含むインディアン虐殺の歴史は、アメリカという国の原罪を象徴しているということであろう。彼らの排除と彼らへの不理解の上に成り立つのがアメリカという国であった。

 それを踏まえたうえで、では <洗礼を選択した者=カムストック> はそのような罪から逃れられたのだろうか。いや、彼が手にしたのは確かに「罪を認めること」ではあったが、改悛と救済ではなかった。むしろ彼は現世において理想の国家を実現するために、白人を至上とする世界観に基づく植民地主義へと陥っていく。それを象徴するのがカムストックとコロンビアの第一歩となる出来事、「義和団事件」であった。

 「ウンデット・ニーの虐殺」における後悔からの洗礼が、「義和団事件」における虐殺へとつながってしまうこと。この、逃れられない罪の形。これはアメリカという国が (その創設の理念を支えた宗教であるプロテスタントが)、その始まりから抱え込み続けた罪であった。もちろんその都度後悔をし選択をしていくことはできる。しかし、そのように選択をし直したところで新たな罪からは逃れられない。カムストックの楽園には、その「逃れられない罪」、カムストック自身にも認識できない罪が、極端な形で顕現しているのである。 

 宗教、人種差別、自己の罪といった一見バラバラな個々の要素は、このような形で共振しているのだ。


 これらを踏まえると、『バイオショック・インフィニット』はいかなる意味で『バイオショック』だったのかも理解できる。『バイオショック・インフィニット』は度々「『バイオショック』シリーズである必要はない」と批判されたが、その批判は妥当だったのだろうか。

 シリーズ第一作である『バイオショック』が自由に行動することの否定だったとすれば、『バイオショック・インフィニット』は自由に選択し救済へと向かうことの否定であった。それはどのような遊び方をしてもゴールは予め決定されているという一本道ゲームに対する皮肉であり、その皮肉性の点でまさにこれは『バイオショック』シリーズなのである。(『バイオショック』は、自由に行動しているつもりでルートが予め決定されているという一本道ゲームに対する皮肉であった)。

 ゲームのなかで、ブッカーとエリザベスは「ティア」を通じてあらゆる選択を行い、理想の展開を追い求める。しかし、そのように選択を繰り返したところで、ブッカーは罪から逃れることができない。それどころか、最後まで自分の罪を知ることもできない。最後に至るまで罪を十分に知ることができないのは、プレイヤーも同様である。プレイヤーは、最後の最後に、自身の社会と、そこに通底する宗教観が持つ罪を、唐突に突きつけられ呆然とすることになるのだ。もちろんこれは、プレイヤーが「アメリカに住む白人」であったらの話なのだが。




(*ラストシーンに釈然としなさを感じてしまう人が多いということは、そもそも我々が「自分には認識できない罪[と救済]がある」という倫理観を内面化していないということの表れかもしれない。直感的に理解することができないのである。)

(*似たようなゲームとしてライアーソフト『Forest』を挙げることができる。関連記事として、https://note.mu/siteki_meigen/n/nf0a4c4263807?magazine_key=md8bbc5d5bd02 https://note.mu/siteki_meigen/n/n1c4c132a3e95?magazine_key=md8bbc5d5bd02 など。)


 

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