練習

***1日目***

空き家だらけの町だった。立ち並ぶほどの家々があるにもかかわらず、ひそひそと冷たい空気で街路が満たされている。人の気配がないから自然と息をひそめるが、それでもなおほとんどの物音がない。数件先、タバコ屋のある曲がり角、さきほど手押し車に体重を預けた老婆が曲がっていったような気もするが、それも定かではないしそれ以外に人を見た覚えはない。少し湿った漆喰の壁はもうほとんど朽ちている。もとは白く眩しかったのだろうその面にはところどころヒビが走る。二つ十字路を越えれば、もうすでに長いこと廃墟になっている工場、むかしは鉄の加工を行っていたらしい。それなりの大きさをもつ堅固で威圧的な佇まいの建物は、まるで刑務所かなにかのようにも見える。その閉塞感を助長するブロック塀、街路に沿って長々と。屋根の形のせいだろうか一部ばかりが濡れるため、その部分のコンクリートがまるで腐ったかのようにくすんでボロボロになっている。削れているのか、あるいは苔のせいなのか。そこから先はもう霧のように白く暗くくすんでいて、見通すことができない。全てが、寂々としてしっとりとした、まるで気温が下がった初夏の明け方、肌寒さとともに目蓋の裏へと忍び込んでくる夢のような、不気味さと切なさが綯交ぜになったような、そしてすぐにも見たことを忘れてしまうような、そんな町だった。

***2日目***

ここから二軒先、蔦の這う壁の2階建て一軒家。かつては壁に埋められたはめ殺し窓を覆う格子が重たい印象を与えていたが、いまはそれも緑に隠れ、漂う葉の匂いが湿っぽい霧にまじりどこか清涼でありながら少し鼻につくようでもある。古風だが取り立てて特徴のあるわけでもないこの家に、いま住むものはない。木の枠に曇りガラスをはめ込んだやはり格子状の引き戸、鍵はすでに錆びついて朽ちかけており役目を果たしてはいない。気持ち程度のものなのか、内側から掛けられた板がつっかえ棒として鍵の代わりをしている。内側から。

玄関先の下駄箱の上には、かつてなにかがそこに居たのであろう、乾いた水槽。側面についた苔もすでに枯れ果て風化したのか、緑色の粉のようなものが付着しているばかりで、ガラスを透して中を見ることはできない。この水槽からなのだろうかそれとも他の場所からなのか、腐った魚のような香りが微かに漂っている。上から覗けば敷かれた砂利に大きめの石が数個並べられているのがわかるだろう。ここで生きていたはずのなにかの欠片が、干からびほとんど形を留めないまま、その石に張り付いている。すでになにが残されているのか定かではないその体からは、向こうが透けて見える。

そして正面に伸びる階段と、その階段に光を落とす薄い緑を含んだ透かしガラスの窓。冷たい町を郷愁的に彩る曇りを含んだ夕焼けの淡赤が、緑がかった光へと姿をかえ階段に伸びる。玄関先から階段が、その温かみと冷たさを含んだ色へと染め上げられる。その奥、階段下の便所の僅かに開いた扉からこちらを覗く薄暗がりから流れ出る不潔だがどこか落ち着いたねずみ色の気配が、この照らされた空間に混ざりこむ。こうしてこの家の玄関先は、まるでこの町と同様、一抹の切なさと不気味さを混ぜあわせた夢のような光景を、いない客人に向かって静かに投げかけている。


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