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ゲームのなかで旅をする。写真が残る。 ー ゲームをしない人にこそ読んでほしい、ゲームと旅についての話。


 旅をして、写真を撮る。そういう気持ちでプレイできるゲームが増えてきているよ、という話。ぜひともゲームをしない人にこそ読んでほしいと思って、少し書いてみることにした。

 いろいろなゲームを取り上げながら、それぞれのゲームの写真撮影について説明していくので、気になったものがある人はぜひそのゲームを触ってみてね。


◎ 圧倒的な光の表現。無機物と有機物が混ざり合う世界。 ー『Horizon Zero Dawn

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 完成度の高いオープンワールドゲームでありながら、重厚なSFストーリーで名をあげた『ホライゾンゼロドーン』。このゲームのフォトモードを最も象徴しているのが、光の表現だ。一枚目のような逆光や、二枚目のような月光、そして森のなかに光る機械獣のライト。こういうドラマティックな表現が、いとも簡単にできてしまう。

 また、とにかく「動き」の表現が細かい。「オープンワールドのゲームは細部の再現度に目をつむって遊ぶもの」、そういう「お約束」のようなものがこれまでゲーマーのなかにはあったのだが、このゲームはその次元を軽々と越えてしまっている。例えば、ゲーム画面を一旦止めて適当にクリーンショットを撮るだけで、以下のような躍動的な場面を簡単に写し取ることができる。


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 機械の体で表現される動物的な動きには、常にある種の美しさがある。そして、『ホライゾン』はそうした無機質の織りなす動きの美しさを、大自然の有機的な景色と融合させることに成功した。その点でも唯一無二のゲームだ。寒々しいボディを持つはずの機械たちは、常に自然のなかにあり、自然と相互作用をしている。


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 一方人間たちは、この世界においてそれぞれの文化や宗教を育みながら生活を営んでおり、この世界に残された謎 (機械獣、各地の施設、廃墟となった建物・・・) もまた、ここで生きる人間たちの眼から再構成され、表現されることになる。例えば、研究施設は宗教上の遺跡として、崇拝の対象とされる。こうした人間たちの視点には常に、自身の力を超越した技術への、そして同様に自身の理解を越えた大いなる自然への、畏敬の念が込められている。以下のような施設に迷い込めば、プレイヤーもまたそうした畏れのような気持ちを抱かざるをえないだろう。


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 以上のように、機械 (無機物)・自然 (有機物) という異質のものが出会い、大いなるものへの畏敬の念さえ喚起させる美しい世界。プレイヤーはその世界のなかを自由に旅して、写真を撮ることができる。そういう稀有な体験を、このゲームは与えてくれる。



◎ 美しいものと、その影。 ー 『BioShock Infinite』

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 見たことのない世界を旅する喜びについて語るのであれば、『バイオショックインフィニット』を欠かすことはできない。とはいえ、実はこのゲームにはフォトモードのようなものが存在しない。だから、この節で使う画像はすべて、ゲームをしながらそのまま撮影したスクリーンショットだ。加工等一切なしで、プレイ画面がそのまま写し取られている。

 プレイ画面そのままでありながら、ここまで美しいとは一体どういうことなのだろう。まして、この作品はもともとPS3で発売されたのものだ (現在はPS4でコレクション版が売られている)。それにもかかわらず、『バイオショックインフィニット』で表現される街はこんなにも美しい。


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 ただし、この美しさは、醜さを描き出すための舞台装置でもある。『バイオショックインフィニット』は、美しい世界を描き出したうえで、その裏側をゲームの舞台とするのだ。では、白人たちが暮らす美しい天国の裏側とは? そう、酷使される黒人労働者たちの世界だ。美しい画面のなかには決して現れないのだが、そういう裏側の世界を踏みにじることで、この美しさは存在している。


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 例えば、美しいトイレの裏側には、黒人労働者専用のトイレが用意されている。このトイレの美しさは、 (ゲーム史のなかでもトップ3くらいに入るレベルで美しいと思うのだが) 裏側の悲惨さを際立たせるために用意されたものなのだ。一歩「美しい世界から排除される側」へと踏み込めば、以下のような世界が広がっている。


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 そして、こうした世界のなかを、主人公は謎の女性とともに旅をする。

 主人公が、幽閉された女性を塔のなかから救い出して、外の世界を見せてあげる。これがこのゲームの大まかな筋書きだ。このようにまとめると、いかにも女性蔑視に満ちた古臭いロマンティックストーリーのように聞こえるかもしれない。女性は幽閉され、救われる側。男に獲得されるためだけに存在している。そういう設定。


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 しかし、繰り返しになるが、『バイオショックインフィニット』が描くのは「裏側」なのだ。そこで描かれるのは美しさの裏側でもあり、当然「救う」という安直なストーリーの裏側、そうしたストーリーが抱え込む「罪」でもある。

 そして、このゲームはそうした要素に「アメリカ建国」や「プロテスタンティズム」といったもの、あるいは「義和団事件」「ウンデッド・ニーの虐殺」といった史実などを幾重にも重ねていく。そうすることで、「アメリカ」という美しい国が、その裏側に持つ罪を描き出していくのである。

 このようにプレイヤーの視点を幾度も揺さぶる構成を採るからこそ、このゲームで描かれる景色は、その美しさも醜さも含めて、全て意図で満たされている。プレイヤーは、その景色の中から意図を読み取り、そうすることを通じてこの世界の一筋縄ではいかない「見えなさ」に心を奪われていくことになる。


◎ 旅を楽しみ、思い出をつくる。 ー 『ファイナルファンタジーXV』

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 ゲームをしながら写真を撮ることは楽しい。しかし、フォトモードで写真を撮るためには、プレイを一時中断する必要がある。ストーリーがあるなかで、画面を止めて写真を撮ると、どうしても没入感が削がれてしまう。だから、時折写真を撮ることが苦痛になってしまうこともある。

 実際、ストーリーを追うゲームでは、私はほとんどフォトモードを使うことがない。というか、できない。例えば、『ラストオブアス』や『アンチャーテッド 古代神の秘宝』で撮った写真は、たったの数枚しかない。


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 どちらも人間同士のかけあいの描写や小物の表現などにかなり優れているゲームなので、フォトモードを使えば面白い写真を撮ることができるはずだ。それは理解しているのだけど、どうにも手がでない。没入感を削いでまで写真を撮るのは、ゲームに失礼な気がしてしまうのだ。私にとってこれは長いこと悩みのタネであり続けた。

 ようやく近年、この悩みを解消してくれるゲームが現れた。『ファイナルファンタジーXV』である。このゲームには、なんとプレイヤー専属のカメラマンがつくのだ。


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 カメラマンであるプロンプトは、旅の様子を自分自身で撮影してくれる。プレイヤーは、一日の終わりにテントやホテルでプロンプトが撮影した写真を見て、保存するものを選ぶ。たったこれだけの仕組みではあるのだが、この写真撮影機能が、『ファイナルファンタジーXV』を間違いなく最高の旅ゲーへと昇華させている。


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 『ファイナルファンタジーXV』は、なんというかとても不思議な気持ちになるゲームだ。プレイヤーは世界を旅して、写真を取り、テントで寝る。そうすることで、知らず知らずのうちに「旅の思い出」を増やしていく。

 「旅の思い出」というのは不思議なもので、旅が終わるころになって初めてその尊さが実感できたりする。旅している最中はそこまで意識していなかったのに、旅が終わる頃になって振り返ってみると、一つひとつのことが思い出になっている。そして、旅が終わってしまうことが無性に寂しくなり、切なくなる。帰るのが辛くなり、最後の一時を噛みしめるように味わう。まるで夏休みの終わりのように。

 このゲームも同じだ。主人公は、何気ないサイクルを繰り返しながら、旅を続けていく。この時間はかけがえのないものなのだが、それがサイクルであるがゆえにプレイヤーはその尊さに気が付けない。やがて、この何気ない旅は、主人公が「宿命」を意識されられるようになるなかで、終わりを告げられる。主人公とプレイヤーはもう「何気ない旅」をすることなどできなくなってしまうのだ。あとは必然に向かってひた走るしかない。そうなってみて初めて、プレイヤーは、手元に残された「旅の思い出」の尊さを知ることが出来る。

 このゲームは、壮大な夏休みと、その終わりを描いたようなものだと私は思っている。そして、だからこそ私はこのゲームのことが大好きだし、このゲームで経験した旅のことを忘れることができない。色々と粗があったとしても、プレイする人間にとっては愛おしいものになりうるゲーム。そういう、どこか不思議なゲームなのだ。


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 最後に、このゲームの地味に好きなところを挙げておこう。このゲーム、一日の終わりに料理をするのだが、そのレシピ集めが旅好きにはたまらない。旅することの楽しさって、こういうところにあるよね。


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◎ 世界が生きている、とはどういうことか。 ー『アサシンクリード:オリジンズ』

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 さて、最後に紹介するのが『アサシンクリードオリジンズ』。このゲームの魅力は、なんといっても動物写真。

 古代エジプトを舞台にしたこのゲームでは、それぞれの生き物や人間が、プレイヤーそっちのけで相互作用している。上の写真はその一例。カバとライオンが、プレイヤーに関係ない場所で、勝手に戦っているのである。そして、『アサシンクリードオリジンズ』でなによりも驚くのが、そうした相互作用の規模であろう。


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 上の写真は、「鷹の眼」モードと呼ばれる機能で空を飛んでいるときのもの。この飛行モードでは、世界のどこにどのような動物がいるのか、いま何をしているのかといった情報が表示される。しかも、飛行エリアに制限はない。要するに、「世界中で、プレイヤーにまったく関係のない場所で起こっている様々な出来事を、空から観察できる」のである。これほどまでに「世界が生きている」様子を描けたゲームが、これまであっただろうか。


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 以上の写真のいずれも、プレイヤーは場面に全く関与していない。ただただ勝手に、そこらへんの戦士と野生動物が戦っているのだ。プレイヤーはいうなればカメラマンとしての役割しか果たしていないのである。

 ゲームというメディアの特徴の一つに、画面のなかの出来事に対してプレイヤーが介入するということを挙げることができる。だが、このゲームではプレイヤーは必須の存在ではない。プレイヤーがカメラマンとしての役割しか果たさなかったとしても、世界は勝手に生きている。

 もちろん、この物語の主人公はプレイヤーだ。だから、世界で起きる出来事に介入しようと思えばできる。メインストーリーだってしっかりとしたものがあるから、そのストーリーだけを追うこともできる。でも、このゲームはそれで終わりではない。そうしたストーリーは、あくまでこの世界のなかで起こっている出来事の、わずかな一部に過ぎない。少し視点をずらせば、たった一人無名の兵士がいて、この世界を移動し、野生動物と戦っていたりする。そういうところに妙な面白みを感じる。

 もっとも、私があまり知らないだけで、似たようなゲームはいくらでもあるのだろう。だが、プトレマイオス朝エジプトという壮大な規模でこうした世界を作り上げたことにはやはり感動がある。例えば、以下のようにアレクサンドリアの街からピラミッドを望んだとしよう。このどこまでも続くエジプトの景色のなかで、今まさに生きものたちが生き、どこかでは互いにぶつかっていたりする。そうしたことに、私はただただ感動してしまう。


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 このようにして、「プレイヤーを中心として作られた世界」ではなく、「生きている世界」を作り上げたこと。そのなかで自由に動き回れること。ここにこのゲームの驚きがある。

 ちなみにこのゲーム、時代考証もかなりしっかりされていて、それを学ぶためのモードもある。歴史好きにはたまらない一作だ。


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◎ 最後に。

 ざっくばらんに色々と紹介してみたが、どうだっただろうか。この記事で私が書いてみたかったのは、「ゲームは、それぞれに固有の世界やシステムを作り出すことによって、それぞれに固有の経験を与えてくれるものであり、その点で旅のようなものである」ということであった。

 なぜゲームをするのか、と問われたときの答えの一つが、ここにあると私は思う。私達はゲームのなかで、他の人とは簡単に共有することのできないような、固有の旅をすることができる。そのような形で感情を豊かにすることができるし、歴史や文化についての見識を広げることもできる。これを笑って一蹴するのは簡単だが、それでも私のなかに残った「思い出」のような感情を消すことは難しい。

 あまりこういう話をする人を見かけないので、最後にもう一度強調しておこう。ゲームには、優越感とかそういうものを満たすという側面もある。しかし同時にそれは、私達の何かを豊かにしてくれる側面も確かに有している。表現された世界に向き合い、そこに浸かることで、私達は世界に対する眼を開くことが出来る。ゲームのなかだけの話ではない。ゲームで得た視点があるからこそ、自分自身が生きる世界を新たに捉えなおすことができる。そういう側面も確かにあるはずなのだ。

 だから、ゲームでも良い。とにかく旅をして、写真を撮ろう。そうして、思い出を増やしていく。それをたまに振り返り、懐かしむ。そのようにして心動かすことは、こんなにもおもしろい。




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