つむぎを取り巻く問題はどのように“解消”されたのか。 ー 『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』 (別バージョン考察)


 自分でも書いたことを忘れていたのだが、すでにブログで公開されているものとはまた違うバージョンの下書きを見つけた。最後の方以外ほぼ完成済みの記事なのに、どうやら納得いかず公開しなかったらしい。公開済みの方とは全く異なる内容になっているので、これはこれでと思い、とりあえず公開してみる。

 公開済みの記事が「他者」に焦点を当てているのに対して、この記事で焦点を当てているのは「概念と行為」である。どちらかといえば、こっちの書き方のほうが自分の十八番な気がする。

 ちなみに完全にネタバレをしているし、本編を見たことない人には意味不明な内容になっていると思う


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序:この記事ではなにを書くのか


 『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』について書いてみる。第一に、この映画が、冒頭からラストまでで何をどのように移動させたのかを明確にする。その作業のなかで、第二に、この映画が公開された当時にこの映画に対して提出された批判的な感想のいくつかに間接的に応えていく。

 第一の点を先に明確にしておこう。この映画が移動させたもの、それはつむぎを取り巻く問題の枠組みである。つむぎを取り巻く問題は、〈踊る / 踊れない〉から、〈他者と関係を結ぶ / 他者と関係を結べない (結ばない)〉へと移っていった。

 この移動に焦点をあてることで、この映画が描いたものを明確にすること、それがこの記事の目的である。(強調しておくが、この記事は何か新しいことを述べるものではない。映画を見た誰もが仄かにではあるかもしれないが理解したであろう事柄を、なるべく明確に描き出すことを目的とするものである。)


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1. 孤独を選び、居場所を守る:〈踊れる / 踊れない〉という問題系


 つむぎは映画の序盤から中盤まで、〈踊れる / 踊れない〉という問題に沿って行動をする。彼女にとっての第一の問題は〈踊れない〉ということであり、自身が〈踊れる〉場である「人形の国」は、彼女が何を犠牲にしても守りたいものであった。

 このように彼女は〈踊れる / 踊れない〉という軸に沿って、〈踊れる〉世界を選択する。ここでまず強調しておきたいのは、この選択は彼女をどこまでも孤独にしていくということである。〈踊る〉ことを選択するのであれば、彼女は「人形の国」に閉じこもらなければならないし、プリキュアと対立しなければならない。〈踊れる / 踊れない〉という軸に沿った場合、つむぎに残されるのは孤独な世界で人形とともに暮らすことだけである。

 もうひとつ確認しておきたいのは、〈踊れる / 踊れない〉という軸に沿った場合、つむぎの居場所は〈踊れる世界〉である「人形の国」だけになる。だから、つむぎにとって「人形の国」という孤独な世界を守ることは、自分の居場所を守るための闘争になってしまう。彼女にとって、プリキュアが差し出す手とは、居場所を奪う手でしかないのである。

 ここまででわかることは、〈踊れる / 踊れない〉という軸に沿った場合、つむぎとプリキュアの敵対関係は絶対に解消不可能になってしまうということだ。言い換えれば、問題を〈踊れる / 踊れない〉の軸のうえで捉え続ける限り、この映画は終わりを迎えることができない

 だから、次に問うべきなのはこのようなことであろう。「果たしてこの映画は、問題をどのように移動させ、どのようにつむぎとプリキュアとの対立に終わりを見出したのか」。


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2. 「友だち」がなぜ解決策になるのか:〈他者と関係性を結ぶこと / 他者と関係性を結ばない (結べない) こと〉という問題系


 冒頭で述べたとおりこの映画は、つむぎの抱える問題を、〈踊れる / 踊れない〉というところから、〈他者と関係性を結ぶこと / 他者と関係性を結ばないこと〉(長いので、以降〈関係性 / その喪失〉と表記する) へと転換していく。

 まず、つむぎは「人形の国」を守るために行動しながらも、そのためにプリキュアを騙すことに強く葛藤を覚えていた。このことに注目しておこう。この時点ですでに、つむぎの抱える問題は〈踊れない〉ことだけではないということが示唆されている。では、つむぎの抱える〈踊れない〉こと以外の問題とは一体何だったのか。それは、関係性の喪失とでも呼べるものであろう。

 その喪失は、第一に障害を通じてもたらされた。踊れなくなったつむぎは病院・自宅からの移動を制限されることで、バレエを通じた友人関係を失う。そのようにして彼女は孤独になったのである。そして第二に、つむぎは踊るためにプリキュアを倒そうとすることで、また他者との関わりを絶ってしまう。そのことに対して、彼女は葛藤し苦悩するのである。

 ラブリーからの呼びかけは、つむぎにこの葛藤を強く意識させる。「踊れる」ことが重要なのか、「他者との関係性」が重要なのか。そして、つむぎはラブリーとの関わりやジークとの対話のなかで、次第に後者のほうに重きを置くようになる。

 繰り返しの強調になってしまうかもしれないが、〈踊れる〉ことと〈他者と関係性を結ぶこと〉は、つむぎの現実にとって相反するものである。どちらも同時に選びとる、といったことはできない。二つの問題系のなかで、肯定的な項の選択を、同時に行うことはできないのである。ここにこそつむぎの葛藤はある。逆に考えれば、ブラックファングの作戦の秀逸な点は、(つむぎをプリキュアたちと対立するように仕向けたこと以上に) このような葛藤状況を利用しつむぎを完全に絶望へと閉じ込めたところにあるといえるだろう。彼は「踊れないから孤独になった」少女に対して、「踊れるけれど孤独な世界」を与え、「仮に他者と関係を結べたとしても踊れない世界」への不安を煽り、かつ「踊れないということは他者と関係を結べないだ」と呪いをかけるなかでつむぎを閉じ込める循環をつくりあげたのである。ここではつむぎは、どのような答えも選ぶことができない。何を選んでも絶望に陥ってしまうのだから。

 さて、このような状況を踏まえると、ラブリーの「本当は幸せじゃない」という言葉が、価値観の押しつけ以上の強い意味を持つことになる。ラブリーは〈踊れる / 踊れない〉と〈関係性 / その喪失〉の軸が絡み合っているなかで、前者の問題を一旦、無理矢理にでも無視してしまう。「人形の国」が実は孤独な世界であるということをつむぎに強く意識させるのである。そのうえで、「自分は友だちである」という〈関係性〉を呈示し、つむぎを説得する。このような強引さをもってしか、この複雑な葛藤を解くことはできなかったのである。

(そして、この映画はおそらく意識的に〈踊れる / 踊れない〉という問題を消し去ってしまう。ブラックファングを倒せば〈踊れる〉ことにしてしまうのだ。では、このようにして葛藤状況をご都合主義的に解除してしまうことは、この映画の欠点なのだろうか。私はそうは思わない。この点については後に論じる。)

 こうしてラブリーは、つむぎを説得することにほぼ成功する。つむぎはようやく、一歩を踏み出しかける。しかし、このようなお節介は果たして許されるのだろうか?


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3. プリキュアであるということ:子どもの論理 と 大人の論理


このときに、介入の重要性。

介入を拒まれる=引いてしまう みんな幸せ=無理→ 大人の論理

助けたいという強引さ、あるいは突然友だちになるという強引さ → 子どもの論理

(そのうえでなお強引ではないことにも注意しておこう。ラブリーは直接に何かをするのではない。伝播させることしかできない。)

→ あらゆる事柄が絶望にしか結びつかない状態において、なお関係性の回復を実現する


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4. 「みんなハピネス」は可能か?:〈わたしのために踊りたい〉から、〈人のために踊りたい〉へ


〈関係性 / その喪失〉という問題枠組みの転換と、そのうえで〈関係性〉を選択したことを強く象徴するのがラスト。〈わたしのために〉ではなく、〈人のために〉踊りたい。

→ 〈踊る/踊れない〉の枠組みだけでこの映画を見てしまうと、〈踊れない〉という問題は「ブラックファングを倒せば問題は解決する」という設定によって安易に解決されたかのように見えてしまう。(実際そのような感想はあった)。しかし、問題の転換が起こっていることに注意しよう。〈踊れない〉から〈踊れる〉になったところに、すでにこの映画の焦点はない。〈わたしのために踊る〉から〈人のために踊る〉への転換にこそ、この映画の着地点がある。

〈踊る / 踊れない〉の枠のなかで、〈踊りたい〉という選択することで始まったストーリーが、〈関係性 / その喪失〉のなかへと移動し、〈関係性をつくること〉を選択することで、〈私のために踊る / 他者のために踊る〉という軸へと転換していく。そのなかでつむぎは、<他者のために踊る>という選択肢を、ラブリーの想像力に支えられて選び取る。ここにおいて、<踊る>ことは「友達との関係性」や「自分の世界」を守るためのものではなく、他者に向けて幸福を祈るようなものへと変化している。

 そして、強引な幸せはラブリーからつむぎへ、つむぎからその先へと伝播していく。(無理やり相手のために何かをするのではなく、伝播する) → そして最後に、そこから一度否定されたラブリーが再承認される。他者のためにという気持ちを伝えていくことで、いつの日か「みんな幸せ」を実現できるのではないか、と。

 ここでも転換が起こっている。最初の〈あなたを助ける〉は〈足を直せるか?〉という答えを誘い出した。最後の〈助ける〉は〈何も出来なくても、それでも寄り添うこと〉にあった。



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