ルーマン『リスクの社会学』メモまとめ


 序文~3章をレジュメ形式でコメントも添えて。+4章から終章までは読みながら適当に書いたメモ。自分用のメモとして残しておく。なお、文中ところどころに出てくる数字は「注」。

*****

 
序文
 全体社会[コミュニケーションの総体]は逸脱・事故・予期せぬ出来事[災い]をどのように説明し処理しているのか
 災いの概念に科学用語が登場してきている (:10)。ここでは「技術の機能作用」「合理性の可能性の条件」「未来の決定依存性」のなかにノーマルなものが見て取られている。では、このとき「合理性、決定、技術、未来、あるいは時間そのものについてのどんな理解が前提とされている」のか。リスクが普遍的な問題になるとき、全体社会[コミュニケーションの総体]は[リスクという概念を用いて]どのように把握されているのか (:11)。
 特に次のことは注目に値する。本来、個々人は頻度の高いものをノーマル化するはずだが、リスク意識の下では人々はカタストロフィの可能性に惹きつけられている。そして、それが「決定」によって引き起こされると観察されている点に今日の特徴がある。だからこそ決定に反対することも意味をもつ (:11-12)。(こうしたことは心理学の問題ではなくコミュニケーションの問題、すなわち社会学によって説明可能な問題である [:12])。これらのコミュニケーションは、未来が決定に依存しているということを前提にしている。
 そして、ここでは「合意の条件」や「コミュニケーションによる了解の条件」も (合理的な計算も手続きも方法も)、粉砕されてしまう。そうしたなかで現実は「リスクの合理的な計算」ではない方へ展開を始めている。リスク・コミュニケーションが反省的になっており、したがって普遍的になっている (:12-13)。例えば、リスクの想定の否定もリスク・コミュニケーションになってしまっている。そこで計算の拒絶 (を通じてリスクの想定を求めること) が行われる。カタストロフィの閾をどこに設定するかも合意できず、それゆえにこそ「将来世代」といった定型句でリスク・コミュニケーションが普遍化する [*「ここまでが安全と言われても信用できない。将来の世代に対して少しでもリスクがあるならやめるべきだ」(計算を拒絶して、リスクを想定しろと要求している[1]) etc…](:13)。
 こうした状況は<合理的/非合理的>といった形では記述できない。むしろそれは自然科学に裏付けられているものである [*にも関わらず合意にも合理性にも至ることができない]。だからこそ社会学的に興味深い (:14)。何がここで起こっているのかを精確に探求していこう (13-14)。
 そのためには「概念の精緻化」が必要であり、それがなぜ近年重要視されてきているのかを分析することが必要になる (:14)。この問いには次のテーゼで応えよう。
「全体社会の未来が [技術によって] ますます決定に依存するようになり、また、この未来表象がいよいよ支配的になった結果、起こりうる諸可能性を自然というかたちでおのずから限定する『本質形式』の考え方がことごとく放棄された」(:14)。
 こうした分析を進めるうえでは「決定」や「技術」についてのコミュニケーションが重要な役割を果たす。だからこそこれは社会学の問題なのだ (:15)。以降我々はシステム準拠で話を進める。なお、本書もまたコミュニケーションの対象であるし、[いくつかあるなかから] 特定のリスク概念を採用している。だから本書もリスクからは逃れられない(:16)。
 
1章 リスクの概念
(1) リスク概念の不明確さ

[序文のくりかえし (計算できない、カタストロフィの閾について合意できない、リスクの選択が問題になる…)]。そして今日では社会学もリスク概念を扱おうとしているが、それらは反省的に為されていない (:21)。なぜリスクを選択してしまうのかという問いを社会学自身に対して向けられていないのである。これについての理論を付け加える必要がある (:22)。
 学際的な研究が行き詰まっていることからもわかるように、「リスクの概念」は精緻化されていない。そしてリスクは諸システムの観察の結果として現れるものであるため、[*機能分化に目を向けなければ] 研究の視野は自分の車のバンパーまでしか届かなくなってしまう (:23)。リスク研究が扱う「リスク」とは何なのか、今一度考えてみよう。
 
(2) リスクの概念史
 概念史を紐解くと、リスクとはまず「決定」に関わるものであり、また「時間」の流れのなかでの一貫しない態度を問題とするものであったことがわかる (:26)。ここでは「合理性要求」が [計算ではなく] 「時間」と連動し、<未来は知り得ないが、時間を拘束している決定こそが重要だ>ということを指し示す。
 だが、歴史を紐解いても合理的伝統からリスクを理解することから逃れることはできない。それにも関わらずここには居心地の悪さがある (:29)。だからここで何が見えなくなってしまっているのかを考えるために、理論はセカンド・オーダーの水準に移行する必要がある。そのためにもまずはしかるべき概念を入念につくりあげよう (:30)。
 
(3) リスク/安全、リスク/危険
 概念とは区別の他方の側面において考慮されるものを限定している区別であり、ある概念が登場するためにはいろいろ区別を区別していく必要がある (:31-32)。近年「リスク」もこうした概念になった。それは概念である以上、区別の他方の側面を持つはずである。では、リスク概念はどのような他方の側面を持つのか。
 リスク概念は、<未来の不確かさ>と<未来の決定への依存>から偶発性の現象 [*現象の必然でなさ] を再構成するものであり、その点で多様な観察者に多様なパースペクティブ (社会的な偶発性) を提供する (:32-33)。偶発性図式は諸可能性を過剰に指示するので、なおパースペクティブは多様化し、形式の案出は困難になる (:34)。
 では、改めて、この概念はどのような他方の側面を持つのか。合理主義は〈計算方法として最適か / 最適でないか〉という形式を提供するが、リスクはそうではない (:35)。また、<安全/リスク>の区別は結局<リスクがない/リスクがある>という区別でしかない。だからこの図式はリスク意識を普遍化することに功績を上げているが、リスクとは何かを説明してくれるものではない (:36)。そしてまた<リスキーな選択肢ではなく安全な選択肢を選ぶことができる>とも言えない。全ての選択はリスクに満ちたものなのだから (:37)。
 本書はファースト・オーダーとセカンド・オーダーの観察水準を正当に評価するため、〈リスク/危険〉の区別に注目する。この区別は、未来の損害の不確かさを土台とし、そのうえでそれを「決定」に帰属するか、「外部」(環境)に帰属するかを区別している (:38)。また、この区別には選択肢のそれぞれが損害の可能性の点で区別されているという条件がある[*私はA社とB社の飛行機会社の内、A社を選択した。そして、A社の飛行機は墜落した。私は飛行機会社を選ぶ際には、どちらかの飛行機会社を選ぶことで私に与えられるかもしれない損害の差を知りようがなかった。損害の可能性の点からA社とB社を区別することができなかったのだ。だから、この決定を「リスクのある決定だった」という人はいない。せいぜい「不運だ」というくらいだろう](:39-40)。
 〈リスク / 危険〉の区別においては、リスクをマークすると危険が忘れられ、危険をマークするとリスキーな決定がもたらすかもしれない利益が忘れられる [*同時にマークすることはできない]。ここから、たとえば「決定者と非影響者が、一つの同じ区別の異なった側面をそれぞれマークしそのことによってコンフリクトに陥っている」というように今日の状況を特徴づけることもできる (:40-41)。[*ある決定を「危険だ!」と非難する被影響者に対して、決定者がその決定によって得られるかもしれない利益をいくら説明しても、あまり意味はない。]
 この区別を採用することにはさらに重要な利点もある。「帰属」の概念を使用できるのだ。これによって誰がどのように帰属しているかを観察できる (セカンド・オーダーの観察に移行できる) のである (:41)。ただし、観察者が任意に帰属できるわけではない。とくにエコロジーの問題などの場合、損害を個々の決定に帰属することは難しい [*いくら環境問題に直面したからいってエンジンの始動を「リスクに満ちた決定」として観察することは難しい。それは諸選択肢からの選択としてイメージしにくいから](:42)。
 すると、<リスク/危険>区別はそれを観察する観察者から独立したものとしては考え得ないということもわかる (:42-43)。そして、[あらゆる内容は誰かがリスクか危険として観察できてしまうので] この概念にとって内容 [テーマ] はあまり重要ではない。そうなると、重要なのは「時間的次元と社会的次元の関係」だということになる (3章)。
 最後に重要なことを再確認しておこう。「リスクから自由な行動などありえない」(:44)。どれほど研究を重ねても、リスクから自由になることなどできない。むしろそうした努力はリスク意識を育み、余計にリスクを観察しやすくしてしまう。つまり、リスクについての研究や知識が、リスク社会の基礎になっているとも言えるのである (:44-45)。
 
(4) リスクの<予防>について
 〈リスク / 危険〉に対する予防にも触れておく。予防することは、リスクを取ろうとする構えに影響を与えてしまう。[*危険の場合、いくら予防していたからといって損害の発生に影響はない。災害時のために食糧を用意したからといって、それが地震を引き起こしてしまうことなどありえない。しかし、リスクの場合は違う]。たとえば「地震に対してある程度安全な建築方法がある場合には、地震の危険性のある場所であっても建物を建てようと決心するようになるだろう」[*家を建てるという決定が、地震による損害の発生に影響を与えているので、この例はリスクに関わるものである](:45-46)。リスクを削減することがリスクを増大させてしまうのだ。[健康維持のために森を駆け巡っていたら、頭上から飛行機が降ってきて死んでしまったりとか……ギャグかな?]。
 このようにして予防にもリスクがつきものなのだが、予防はリスクへの防護に役立っているという理由から、人は予防に伴うリスクを進んで受け入れてしまったりする。機械のリスクが判明すると、それを制御するために雇用された人間を進んで信用してしまうなど。
 そして、予防のリスクは政治的な側面も有する。あるリスクが受容可能・許容可能かどうかは、多くの場合予防のための装置の領域で交渉される。これによって政治はリスクの<過大評価/過小評価>だけでなく、<制御可能か/制御不可能か>についての多様なパースペクティブを与えられてしまうことになり、つかみどころのない領域へと入り込む (:47)。また、[政治は決定を行うものである以上] 危険からのほうが容易に距離を取ることができる。
 
2章 リスクとしての未来
(1) 時間の形式
 すべての時間表象にはパラドクス性がある。全てのものは同時に生起する (たとえばシステムと環境など) にもかかわらず (:51-52)、区別の作動には時間が必要 (=非同時的) なのだ (:53)。このパラドクスをいかに展開するかにおいて、さまざまな時間表象が存在している (:54)[2]。では、近代の時間表象とはどのようなものか?


(2) <現在>について
 近代においては、「過去と未来の差異」が時間ゼマンティクを全体社会構造の変化に適応させているのではないか (:55)。16世紀の終わり頃から、印刷が知の同時現存を可視化したことで、知の選択・整序が不可避になった。こうしてシステムはより強力な区別を見出さなければならなくなり [3]、システム分化は多様な時間地平を生み出し、同じ頃モード[流行]という概念が一般化された [*この概念は多くの意見や習慣が同時に現存している複雑な状態のなかで、あるものをある時間において個々人に強いる、という形で複雑性を整序している……という話?]。こうした変化のなかで、過去の状態と未来の状態との差異がイメージ・経験可能になる (:56-57)。
 同時に、18世紀以降、時間の観察は神が永遠において行うものではなく、人間がそれぞれの現在において行うものになった (:57)。また因果関係への注目は、〈過去/未来〉の相違を先鋭化させていく (:58)。では、このとき「現在」はどこに位置づくのか。それは観察位置として (=観察者にとっての盲点として)、把握されなければならない (:59)。
 リスク概念も、現在から〈過去/未来〉を観察するものである。そして、[*近代では人は現在の視点から観察をする。過去のことを考えるときも、未来のことを考えるときも、過去の現在、未来の現在から観察する。同様に、]リスクに対する評価も時間地平のなかに映し出される。[*損害が発生してしまったとする。そのときにはもう、過去の現在においてなぜリスキーな / ではない選択をしたのかはその決定を行ったときのままの形では理解されなくなるだろう。事後的に評価が変わってしまうのである。同様に、現在の決定を促すリスク状況は、未来の現在から見れば違った形で評価されることもあるだろう]。「リスク評価が時間とともに変化することが、リスクのリスクたるゆえんなのである」(:60)。
 
(3) 決定への依存性の増大
 だが、現在における制限が「所与性」ではなく「決定の不可避性」として把握されるのは一体なぜなのだろう。近代に移行するにつれて決定への依存性が増大してきたためである [*諸機能システムにおける例が列挙されている](:62)。強力な技術化と強力な個人化が進むなか、決定可能性が著しく細分化され、選択肢がより豊かになっていき、危険はリスクへと転換される [*病気が日常生活における決定に帰属されるように](:63)。
 こうした事態をセカンド・オーダーの観察者は「決定への帰属によって過去と未来との差異が可視化され」るなかで、「非連続性がかつてより増大していると見るように促されている」と見ている (:65)。
 (1) 未来を知ることができないという時間的次元の未規定性と (2) 新しい全体社会の構造を人々は記述できないという社会的次元の未規定性が共生し、未来を「蓋然性」というメディアにおいてのみ知覚可能なものとしている (:66)。こうした状況に対応しようと「進歩」「進化」などのゼマンティクや確率計算などが用いられたが、こうした努力は失敗に終わる。「社会的にどう評価されているかという点から見れば、個々の事例に関する計算は、時間的・空間的次元での可能性をすべて未規定なままにしておく」のだから (:67)。
 さて、「進歩」「進化」などの言葉に特徴づけられる19世紀、20世紀の世界の統一性は、先述のとおり時間的次元と社会的次元の同盟によって可能になっていた。この同盟は今日でもやっていけるのだろうか?(:67)
 
3章 時間拘束 内容的観点と社会的観点
(1) 意味の三つの次元
 有意味な観察と記述は、区別された三つの次元を有する (:68-69)。
 (a) 時間的次元:<事前/事後>
 (b) 内容的次元:区別による観察を可能にする [*そして、区別があるから、「指し示す」ことが可能になる]
 (c) 社会的次元:<自我/他我> [*私は「相手が私をどう見ているか」を見ながらコミュニケーションをしている]
 以上を確認したうえで、ここでは「時間拘束」[*構造の発生によって、本来持続性をもたないはずの「出来事」が時間的に拘束されたように見えること] という概念から出発する (:70-71)[4]。こうした時間拘束は、内容的な意味と社会的な意味を必要とするがゆえに、諸形式を変化させ社会的な配置にも影響を及ぼす (:71)。これを踏まえた上で、本章では法・経済・リスクというそれぞれ異なった時間拘束形式を比較していくことにしよう。
 
(2) 法における時間拘束

 規範は期待を安定化する機能を有する [*規範に反する行為が為されても、期待が間違っていたのだとは観察されない。その行為が逸脱・犯罪などとして観察されることになる][*科学システムなどにおいては、期待はずれが起きた場合は「それを学習すべし」との要請がなされる。しかし<同調/逸脱>の区別を有する政治システムはそのようには動かない (:72)[5]](:71)。この点で、規範は自明ではない期待を未来へと投射する時間拘束の形式である [6]。
 こうした時間拘束 (期待の一般化) には、内容的観点や社会的観点の固定化が必要となる [7]。
 他者の行動を制限することなしに規範 (<同調/逸脱>区別) を動員することはできない (:74-75)。それゆえに、法がリスク問題を解決するなどと考えることもできない。「リスクの場合に問題となっているのは、他者が未来の状況下でどのように行動すべきかを現在の時点ですでに確定させることの可能な未来、などではまったくないからである」(:76)。
 今日、決定の根拠づけは結果指向のなかで行われるようになり、それが法に影響を与えつつある。例えば現在合法であるが、将来損害がもたらされた場合には、合法であるにもかかわらず損害を補償する責任があるとする責任法などはその例であろう [8]。法は「今や、合法と不法とへの一般的な割り振りをとおしては規制できず損害が発生するかしないかという偶然に左右される合法的な利害同士の衝突と、かかわりあわねばならなくなる」(:78)。
 
(3) 希少性と時間拘束[9]
 経済システムの進歩とは、「過剰と稀少性の同時増大」であった (:80)。それゆえ、これは主に社会的次元に関わる [10]。法システムはこうした問題に対して「所有権」制度を発展させてきたが、それは処分可能性を核心とした [*「支払う」ことによって権利を譲渡できる点で] 貨幣経済に適合するものであり、経済的な合理性を成立させてきた (:80-81)[11][12]。
 こうしたなかで法は統治権とのみ深く関わるようになり、国家化される。それによって [*権力が国家・個人によって利用可能なメディアとなることで] 規制の可能性が拡大する。他方、所有権は経済システムと関わるなかで<支払う/支払わない>というコードの重要性を上昇させる。それによって投資の可能性が拡大し、合理的計算という領域がひらかれる (:81-82)[13]。
今日、リスクの問題にもこうした規制・投資によって対応が試みられている。しかし、リスクの場合は法・経済とまったく異なった時間拘束の形式が問題となっているということをおさえておかなければならない (:82-83)。
 
(4) リスクと時間拘束
 18世紀以降、「他者に不利益をもたらすことなく自分自身の利益を追及できる」領域がかなりの程度存在しているという想定のもと、全体社会の合理性の重点は「個人の行為」と「契約」へと移行していった (:83-84)。しかし、こうした想定は今日でも可能なのか? この問題に関して、本書は次の点を重視する。「ある観察者を観察する者は、決定のリスクをその決定者自身とは違った形で評価するかもしれない」(:86)[14]。
 未来が決定に依存したものとして知覚されるようになるなかで、[*ある事柄を観察して決定する者を観察する人が増えていき、ある決定が「社会的な圧力や気遣いや利害」などのなかで行われているなといった具合で観察することが多くなっていくため] ファースト・オーダーの観察とセカンド・オーダーの観察はますます分離していくようになるだろう (:86)[15]。
こうしたなかで、時間的次元と社会的次元が新しい問題を提起しており [16]、リスクの時間拘束の形式はそうした状況に対応している (:87)。そして、そこでは確かに法・経済は不十分なものになりつつある。だが、法 (権力)・経済 (貨幣)を撤廃することによる革命に期待するよりも、法・経済の限界を見定め、今日の全体社会の新しい未来パースペクティブや新しい時間拘束の形式に注意を向けておいた方が良いだろう (:88)。とりあえず、今日も議論されている「規範的根拠づけ」や「功利主義的-経済的な根拠づけ」は、リスクによって指し示される不確かさのなかでは解体されてしまうことになる (:88-89)。
 
(5) リスクという時間拘束の特徴
 「平等」と「自由」の保護のなかで、全体社会は決定とリスクへの関与を容易にし、ノーマル化してきた (:89)。「平等が意味しているのは、不平等がなぜ発生するのかを説明し、それを決定のせいであると見なしたり、あるいは決定によってそれを阻止できるということである。自由が意味しているのは、まさにそのことが個人と全体社会が許容できる仕方でお互いうまくやっていくための前提条件と見なされているということである。それゆえにリベラルなイデオロギーは、全体社会をリスクのほうへと方向転換させていく隠されたプログラムを内包している」(:90)。だが、こうした伝統のなかで培われてきた合理性の手段は、今日では不十分なものとなっている。
 「リスク」という言葉は、<蓋然性/非蓋然性>というメディア [17]のなかで形式を形成することに資するものである (:91)。「リスクという時間拘束の形式によって人は、未来の未規定性をまさに利用し、それどころかいわば自分自身の知識の欠如すら利用して、現在という時点を、未来的現在によって将来確証されたり将来否認されたりしうる形式へと変えていく」(:90)。こうして未来は、<蓋然的/非蓋然的>という形式になる。そして決定の際には、自分や他者に<蓋然的である/蓋然的ではない>ということの確認について同意が求められるようになる (:90)。こうした未来形式は、社会的次元[18]により大きな重みを与えているという点で、経済・法とは異なるものである (:91)。
 


コメント
 

「エコロジカルな脅威とテクノロジーがもたらす危機との複合体に直面して、社会学は次第に警告することのほうへと傾いてゆきつつある。(…) この種の社会学は、例によって全体社会を批判することになる。そこでは技術の帰結に、またリスクと危険により大きな注意を払うように要求される。資源の用い方を変えることも求められる。しかし、かくも暗澹たる未来へのパースペクティブを取るとき、社会学は自己の伝統の最も重要な要素の一つを、しかも他ならぬ社会学を創設する動機となった要素を、忘却していることにならないだろうか。すなわち、『その背後には何があるのか』という問いをである。」(ルーマン「非知のエコロジー」『近代の観察』,1992:112)


 
◎ [予備知識] まず、ルーマンの理論全般について、おおまかに適当にざっくばらんにまとめておく
(A) ルーマンが扱う問いを一言でいうと? : こんなにもめまぐるしく変化しながらも、安定して絶大な処理能力をもつ「近代社会」をどのように捉えるか[19]
(B) ルーマンの読みにくさはどこにある? : おそらく、「システム」が主語になっているところにある。では、なぜシステムを主語にするのか? 社会が複雑になると、人々のやり取り連関の全体を見渡すことはまず不可能になってしまう(例えば私は私が払ったお金がそのあとどこへ行ってしまうのかよく知らないし)。それでも、特定のコミュニケーションは「有意味なまとまり」としてありうるし混沌には陥っていない。複雑な社会が持つはずの高度な複雑性は、どうにかして対処されている。これは日常生活を送っていれば経験的にわかることだ (わたしは私のお金がどこへ行くかは知らないが、それでもいちいち疑うことなくお金をコンビニで払うことができる。つまり、私がよくわかっているかいないかに関わりなく、コミュニケーションはけっこう上手くいっている)。この事態をふまえるならば、システムがコミュニケーションを自覚的に同定し、その内容を規定しているのだと、考えを転換することができる (私が経済や店員のことをなんとも思っていなくても、私は <支払うこと> ができるし、普通買い物をするたびに不安になったりはしない。私は <支払う> というコミュニケーションが成り立たないかもしれない不安を感じなくて済んでいるのだ。これを延長させて考えてみると、<支払う/支払わない>というコミュニケーションが円滑に行くか行かないかに、私 (人間) というものは大抵の場合あまり関係していない)。となると、「近代社会」の安定した処理能力について考えるためには、<私>ではなく、<システム>を主語にして考えたほうが良いということになる [20]。
(C) では、リスク・コミュニケーションについて見ていくときに、「人間」を主語にしないことにはどのような意義がある?[21]: 「人間」を主語にすると行為論にしばられることになってしまう。その結果、例えばテクノロジーの問題に対しては「行為の意図せざる結果」などが論じられ、「もっと注意を向けろ!」などの形で対策が練られてしまうことになる (『リスクの社会学』5章)[22][23]。これに対して、コミュニケーションを基本単位として想定するシステム論に依拠すると、もう少し深いところで問題を捉えることができる ((G)で詳述)。また、諸機能システムがそれぞれどのように「リスク」という概念で問題を観察し、対応しているのかを見ていくことで、近代社会の安定した処理能力はどのようにして可能になっているのかを考察できる。
(D) 諸機能システムについての想定はなぜ必要か : 「神」といった概念を徐々に捨て去るなかで、社会は偶発性と関わるようになっていった。その変化のなかで、それまで宗教がカバーしていた様々な領域が、分裂していくことになる (例えば政治システムは、王権神授という形で権力を説明することができなくなっていく。遅くとも19世紀以来、それは世論に定位するようになった。世論に定位することになると、政治は「何が問題になるのか確定できない」という形で偶発性と関わるようになる。その結果、ハイアラーキーの頂点も偶発的な形でしか専有できなくなる [24])[25]。このように各部分が分裂してしまった以上、「近代社会」を語るためには、諸機能システムについて語る必要がある。
(E) システム論の概念はどこから導き出されるの? : 以上のように分裂した部分からなる「近代社会」を、社会学はどのようにして捉えることができるのか。それも、偶発性と深く関わっている、つまり日々姿を変えているように見える、諸部分を。ルーマンの答えは、(大まかにいうなら)「近代社会の深層構造を明らかにする」というようなものであった。その深層構造にあたるものが、システム論の諸概念である。
(F) 深層構造が分かると何が楽しいの? : 諸システムが比較可能になる [26]。また、抽象的なレベルで議論を進めることは、歴史的制約・特殊な社会状態・システム特殊の事情から我々の目を解き放ってくれる [27]。
(G) 二値理論はなぜ必要か : もちろん諸機能システムが特定のコミュニケーションを自分のシステムに属するものとして同定するために必要なものなのだが、それ以外にも意義は多分ある。今日の社会は、「正義」「連帯」「理性」「合意」などの原理から全体像を見渡すことなどできない。その原理に反する者もまちがいなく全体社会の作動に貢献するのだから [28]。だから、コミュニケーションを社会の作動の根本にすえ、二値理論で記述していく。すると、<賛成する/反対する><合法/違法><正しい/誤っている>といったように、2つの値のいずれを取ってもそれを作動としてみなすことができる。これは「社会」の記述にとって重要なものであるだろう [29]。とくに、リスク問題にはコンフリクト場面がつきものである。だから、<リスク/危険>などの二値を形式として取り上げ、セカンド・オーダーの観察を行うことには、大きな意義がある。一方の側に立ち、他方の側を悪であると断じて警告を発してしまうような社会学を脱して、そもそもそうしたコンフリクトがなぜ生じ、なぜ解消できないのかといったことを考えることができるようになるのだから。
(H) そのうえで、『リスクの社会学』では何を書いているのか?
・近代社会 (の諸システム) は、「リスク」という概念を用いてどのように問題を観察し、処理しているのか。
・私たちは未だに、例えば「合理的な政治的決定」を積み重ねていくことで、問題が何か良い方向へと向かうように考えてしまう。そして、そのためにリスク計算の方法などを研究している。しかし、その想定は本当に正しいのか。そして、「決定」を求めてコミュニケートすることは、全体社会のどのような背景からもたらされており、全体社会に対してどのように寄与しているのか。これを考える。
・偶発性と関わる近代社会は、偶発的な未来と関わらなければならない (神や自然、進歩や進化に頼ることなどできない)[30]。それも、技術の発達や諸選択肢の増大は、ますますそうした未来を人間の決定との関係のなかで観察するように促している。そして、ここには「決定への評価が前後で矛盾してしまう」というパラドクスがある。このように先行きが不透明ななかで、全体社会はどのように作動しているのか。全体社会はどのように偶発性と折り合いをつけているのだろうか。これを考える。
・また、時間以外にも、決定の形式である<決定者/被影響者>という区別がパラドクスを生む。パースペクティブに応じて決定への評価が変わってしまうのである。これに対して「より多くのコミュニケーションを取れば良い」という声は多い [31]。しかし、本当にコミュニケーションを採れば決定者と被影響者の溝は埋まるのだろうか?むしろコミュニケーションという作動自体に溝を生み出す契機があるのではないか。
(I) 『リスクの社会学』はルーマンの論のどこに位置づくのか。: 近代社会における機能分化の帰結として。複雑に機能分化した社会において、コミュニケーションがどこに行き着きどのような帰結をもたらすのかを正確に把握することはできないし (決定者/被影響者の問題)、宗教や予言などの語彙を失っていく近代社会は不確実な未来と向き合わなければならない (未来の偶有性と決定への評価の変化の問題)。したがって、「リスクとのかかわり合い」は、近代社会の当然の帰結であるということになる。ここからわかるのは、ルーマンがリスクの問題を「局所的なもの」「一過性のもの」「突然現れたもの」としては捉えていないということであり、またリスクの問題を全体社会にとってかなり重要なものとして捉えているということである。本書を読むときに、例えば「原発」の話などばかりを念頭に置いていると、このスケールの大きさを捉えそこねてしまうことになるだろう。そうなると、本書の記述のほとんどが冗長なものにしか感じられなくなってしまう。
(J)『リスクの社会学』の応用可能性について : まず、ルーマンは、自身の理論が批判的社会学や実証的社会学の代替案になるとは考えていないし、ましてやそれらの成果を否定しようとしているわけではない。彼は、自身のシステム論はそれらの研究を「補完」するものであると述べている [32]。この点はおさえておいたほうが良い。さらにいえば、基本的にルーマンは、なにか新しい知見をもたらそうとか、なにか新しいことを言おうとか、そういうことは多分意識していない。彼が興味を抱くのは「(かつて社会学の古典が目指したような) 全体社会の理論 [33]」であって、それ以外のものではない。使われている概念にしても、実は「ノーマル/逸脱」「分化」といった古典的な概念を意識している。だから、なにか「新しい情報」を期待しているのであれば、基本的には無駄足になるだろう。
 では、「新しい情報」をもたらすかどうかではなく、「全体社会の理論」がどのような価値を持つかで考えてみた場合どうか。『リスクの社会学』に関しては、こちらのアプローチもかなり厳しい。「全体社会の理論」を応用可能性という観点から見た場合、その理論の真価は「同一の概念で諸システムを比較し、その諸システムに関わる諸研究を整序していくとともに、諸研究の位置づけを (他システムとの比較を通じて) 変化させていく」という部分にあるのだと思われる。すると、『リスクの社会学』のように概念が主題になっており、各システムについては薄い記述しかない書籍に意義を見出すことは難しいと言わざるをえない (ただし、繰り返しになるが近代社会の諸システムが未来をどのように処理しているのかといった論点は刺激的ではある)。
 このように断ったうえで『リスクの社会学』の一般的な意義を述べるならば次のようになるだろう。① まず、「補完」という観点から見るならば、ルーマンは本書においてそれなりの功績を収めているように思える。(そうは思えないかもしれないが) 数少ないシステム論の概念を用いて、諸研究を整序しながら現代社会の混乱状態を (わかりやすすぎて当たり前のことしか言ってないようなレベルで) わかりやすく描いているのだから。② また、リスクを意識や機械・技術の問題ではなく純粋にコミュニケーションと観察の問題として捉える (構成主義的な観点から分析する) という方向性を提示したことも大きい。これは上記(H) のような論点を提示し、我々に「別様に考える可能性」(あるいは新奇な仮説を生み出す可能性) を提供してくれている。例えばコミュニケーションの遮断が複雑性を縮減し、情報処理のポテンシャルを高めているといった指摘[34] などはそれなりに新奇な視点を提供してくれているといえよう (その他の例は、各章の報告を読み進めるなかで探してみて)。<リスク/危険><決定者/被影響者>といった区別、あるいは時間が関わることで発生する問題などについての整理も、具体的なコンフリクト状況を整理する際の有用な概念となりうる [35]。とくに、例えば原発に関する話などに直面するとき、我々はファースト・オーダーの観察に立ってしまいがちであるが、区別といった道具立ては我々をセカンド・オーダーの観察に誘い出してくれる (上記(G)を参照)。③ そしてもちろん、純粋に近代論として読み、比較するという試みも (それをどう意味づけ、どのような可能性を引き出すのかは実際に研究する人に任せるしかないのだが) ありうる。
 
◎[疑問] ルーマンはリスク・コミュニケーションの普遍化を、いつ頃から起きた現象として捉えているのか。そして、それはどの程度のスパン続く現象だと考えているのか。
 本書を読んでいて度々疑問に思うのが、ルーマンはリスク・コミュニケーションの普遍化をいつ頃から起きた現象として捉えているのか、ということである。この疑問を検討する意義を確認しておこう。
 『リスクの社会学』の大半において、おそらく斬新なことはそれほど言われていない。決定者と被影響者で決定への評価が異なると言われたところで、「そりゃそうだ」という話だろう。しかし、ルーマンは「それが近代の合理性では十分に解決できない問題をもたらしている」(3章5節など) といった形で、そうした当たり前の事柄に意味付けを施していく。これを踏まえると、本書の意義は、リスク・コミュニケーション普遍化以前の状況と、リスク・コミュニケーションが普遍化した今日の状況を比較してみたときに、ようやく理解できるという側面を持つことになる。それを意識しなければ、本書は「当たり前のことが難しい言葉で書かれたいけ好かない本」程度にしか評価されないだろう。
 しかし他方で、リスク・コミュニケーションの普遍化がいつ頃起こった話なのか、そしてどれくらいのスパンで進行している (していく) ものなのかについては、本書のなかで曖昧にしか触れられていないのではないか。(この疑問は全員で検討した方が楽しいと思うので、ここであれこれ取り上げたりすることは避ける)。
 そして、もしそのように曖昧であるとするならば、それが本書の弱点の一つを生み出しているということになるだろう。(1) 主に前後の差異から本書の意義が理解できるようになっているにもかかわらず、(2) リスクが普遍化されたのがいつ頃なのかわからないということになるのだから。もちろん、これは致命的な弱点などではない (合理主義の伝統がいかにリスクを処理するのに不十分であるかを記述していくだけでも十分意味はあるし、リスクの普遍化がいつ頃から起こったのかを記述しなくても、法・経済システムと比較してリスク・コミュニケーションがどのような特徴を持つのかは記述できる [36]。そのようにして変化を描くことは変わった試みではない)。しかし、こうしたところが全体の記述のなんかふわふわした感じに繋がっていることは否めない。一度整理を試みたいと思う。
 
◎[論点] ルーマンがリスクを新しいものとして書きたかったのはなぜか。『リスクの社会学』で何に挑戦しているのか
 こうしたふわふわ感じを含みながらも、ルーマンが書きたかったものは何なのだろう? そのヒントが、3章であえて経済システム(貨幣)と法システム(権力)とリスクが比較されていることにあるのではないか。本書が出版されたのが1991年であることも忘れてはならない [37]。ルーマンは (「未来のことはわからない」という原則を保持しつつも) ルーマンなりに新しい時代を捉えようとし、そのために概念の整序や既存概念との比較に取り組んでいたのだろう。「進歩」が想定できなくなった社会はどのように未来の偶発性と折り合いをつけるのか、という問いの立て方も示唆的である。


◎ [整理] パースペクティブの多様化がもたらす問題 (なぜ「観察」について考えることが必要なのか)
 とりあえず、ルーマンが新しい時代を捉えようとしていた一例として、「観察」についてまとめておく。
 ルーマンが3章において指摘するのは例えば次のような事態である。諸選択肢の増大と管理可能性の増大のなかで[38]「決定」が重視されるようになる。そして、リスクが関わる蓋然的な未来はパースペクティブの多様化を生み出し、またエコロジカルな問題は被影響者をどこまでも増やしていく。すると、多くの被影響者が、決定者を観察する、という事態が頻繁に起こる (セカンド・オーダーの観察)。被影響者は、「あいつは自分の利益のために決定をしたんだ」といった形での観察を常に行うようになり、こうしたなかで敵対関係が形成され (:248-9)、コミュニケーションは解きほぐせないもつれあい (:258) へと突入していくことになる [39][40]。
 蓋然的な未来が関わり、そして決定者と被影響者の分離が起こるなかで、「合意」などを調達することが困難になっていく世界。これがルーマンの描くものであるといえよう。(⇨終章との関わり)[41]
 
◎[論点] <リスク/安全>ではなく<リスク/危険>を採用するとき、変わっているのは本当に概念ペアだけなのか。
 「あとがき」でも触れられているように、ルーマンの用いるリスクという語は、日常で使うリスクという語とややズレているようにも思える。例えば「低線量被爆のリスク」などという場合、(決定者ではなく) 被影響者が (危険ではなく)「リスク」概念を用いていることになる。ここでは (ルーマンの区別に従えば)「リスク」と「危険」が混同されていることになる。そしてこのとき、「リスク」の対概念が「安全」であるとするならば、形式は次のように表現されることになるだろう。<リスク (危険性)/安全>と。
 ルーマンは本書において<リスク/安全>ではなく、<リスク/危険>の概念ペアを採用する方式を採ると説明している。しかし、上述のように<リスク/安全>区別が実際のところは<リスク (危険性)/安全>区別であるとするならば、ここで変化しているのは概念のペアだけではないということになる。「リスク」という概念の (こういって良ければ) 内実自体が変化しているのである [42]。
 もちろん、<リスク/危険>と区別することで様々な整序が可能になっているので、この概念ペアを採用する意義は大きい。しかし、意義が大きいからこそややこしい部分もある。ルーマンは (1)「諸機能システムは<リスク>という語をこのように用いて未来などを観察している」と言いながら記述を進めていくのだが、(2) それは我々が用いる「リスク」概念とはやや異なるものになっているし、(3) ルーマン自身も「別様に考えてみること」を奨励しているようなのである。こうなると、「現にこう観察されている」という話なのか、それとも「こう観察した方が良い」という話なのかがよくわからなくなる [43]。よくある社会学のコミュニケーション研究を、① コミュニケーションにおける実際の概念の用法を明らかにしたうえで、② その用法によってどのような混乱・葛藤が生み出されているのかを明らかにし、③ 別の用い方を提案するという試みであるとするならば、『リスクの社会学』では①と③があたかも同時に行われているようなのである。


**注**

[1] P.173~174あたりでわかりやすく語られている。
[2] パラドクスの「展開」について:システムは、「区別」やその一形態である「時間」を取り入れることで、パラドクスを巧妙に隠す。ただし、こうした脱パラドックス化の試みは、単にごまかしのためだけに行われているわけではない。むしろ、この試みによって、自己言及パラドックスは創造的に発展され、システムは自己の能力を拡張することができる。たとえば別の区別を読み込めば、システムの複合度は増大し、状況への対処能力は拡張される。また、時間を取り入れれば、システムは自己を変動させていく自由を得ることができる。こうした事態を指して、ルーマンはパラドクスの「展開」という言葉を使っている……はず。
[3] P.52に、システムは記憶をとおして時間区別 (過去/未来という地平) を自らに備え付け、混乱状態を整序するとある。この話を踏まえた記述。
[4] なぜここから出発するのか。ポイントはp.89にあるように、これらが「社会的なコストの甘受、不利な扱われ方の甘受、不平等の甘受」と関わるためである。例えば、法はだれかを不利に扱い拘束する。人々はその扱いを甘受している。経済は「私はこれを持たないが、他者はもっている」という不平等の状態 (稀少性の問題) をもたらす。人々はその不平等を甘受している。では、「リスク」概念における時間拘束の形式のもとでは、何がどのように甘受されているのだろうか。
[5] 科学システムにおいては期待が間違っていたとされ、規範図式では行為が間違っていたとされる。このようにシステム論は、普通比較の対象としないようなものを比較することを可能にし、当該システムの特徴をわかりやすく描き出すことに役立ったりする。
[6] ここで拘束されているのは「期待」である。期待が一般化され、特定の時間・場所から離れて想起されるようになること (=規範になること) を、構造化として捉えている。
[7] 法は規範という形式を有し、また<法/不法>コードは<自我/他我>の社会的な裂け目をつくる (裁判の場面のように)。逆に言えば、内容的側面と社会的側面が法システムの分出の前提になっている (:74)。
[8] リスクが問題化されるなかで未来を現在化して観察することが求められ、<合法/違法>コードが不明瞭になる。未来を<合法/違法>に割り振ることなど不可能なのだから。こうして、普遍的な妥当性を指向する法は、こうした状況に耐えうる形式を探し求めてあたふたしている。
[9] 経済システムにおける時間拘束とはどのような事態なのかが書かれていないが、おそらくは「所有」のことを指すのだろう。「所有」は、「支払う」という一瞬の出来事を、時間的に拘束する。
[10] 稀少性の問題は、「私はもっている。彼は持っていない」という形での社会的緊張を有する。
[11] 所有の問題は法システムの合理性 (<所有権を有する/所有権を有しない>) では十分に解決できないものになり、代わりに <支払う/支払わない> という決定が重要になる。所有権問題は稀少性のパラドクスのなかで、経済的合理性によっても解決されるべき問題となるのである。
[12] <所有権/統治権>という2つの軌道が存在し、近代初期の全体社会はこの軌道のなかで自らを法制度として理解していた [*これらの2つは、<所有し統治する家=貴族>という形で一点に結びついていた]。しかし、近代の分化が進むにつれ (私的所有の制度が社会の根本に組み込まれていくようになり)、所有権は経済システムと結びつくようになっていった……という話?(:81-82)
[13] 「私はいま何に投資しておいた方が良いのか」という問いが一般的になっていく。これによって、「リスク」を用いた観察を行うように促されていくことになる。
[14] 被影響者は、契約という決定を行える立場ではないにも関わらず、決定による影響を受ける。こうした可能性がエコロジカルな問題などを介して途方もなく大きくなりつつあるなかで、社会はどう変化するのか。とくに、一度「個人の責任」や「行為の結果」などを重視するように進化してしまった社会は、どのようにこうした問題に対応していくのか。リスク概念はそうしたなかでどのように用いられているのか。
[15] P.242-246では科学システムが未来の偶有性と関わるなかでセカンド・オーダーの観察の水準に移行していくこと (セカンド・オーダーの観察に耐え抜くことのできるものだけが科学とみなされるようになること) が説明されている。科学がどのような観察にさらされるのかを書いたこの部分の記述は、決定がどのような観察にさらされるのかをイメージするのに役立つかもしれない。
[16] 事前と事後で決定の評価は変わってしまうかもしれない (時間的次元の変容) し、決定者と非影響者が「契約」などで協働することもできない (社会的次元の変容)。リスク概念はこうした変容を指し示している。法・経済というかつての時間拘束形式は変動の小さい社会秩序に対応したものであり (:87,88注30)、十分な問題解決方法を提供してくれない。
[17] <起こりそうな / 起こらなそうな> (「非知のエコロジー」ではこのように表現されている)。
[18] <自我/他我>の観察パースペクティブの違いに。
[19] 『近代の観察』(1992=2003) あとがき、福井康太『法理論のルーマン』(2002)など。
[20] 以上、福井康太『法理論のルーマン』(2002) 1章など。括弧内は篠崎が勝手に補足。
[21] システム論を採用することの社会学的意義については『社会の社会』1章Ⅱで詳述されているので、気になる人はそちらを参照して。
[22] 近代社会は決定 (行為・原因) の結果として物事を観察しているということが本書で繰り返し指摘されている。そして、ルーマンは「近代」という歴史的制約に縛られない記述をしたいと思っている (多分)。それゆえ、本書は「決定の結果として物事を観察する」という視点は取らない。その代わりに、システム論を扱っている。
[23] また、行為論は未来を「目的」に置き換えることで、現在の「とるべき行為」を確定できるかのように想定している。「リスク」概念が関わる未来の偶発性やパースペクティブの多様化は、そうした想定を容易に破壊する (「非知のエコロジー」ⅴ節)。我々はいったいどのようにして、自己の行為の信憑性を他者に伝えることができるというのか。
[24] そして、このように偶発性と関わるなかで、<与党/野党>が継続的に相互に監視する形が重視されるようになる。こうして政治システムは (与党の決定を野党が観察するというような) セカンド・オーダーの観察を作動に組み込んでいく。
[25] 「近代社会の固有値としての偶発性」『近代の観察』などの記述を元にしている。
[26] 社会学における全体社会の理論には複雑性のポテンシャルを高めるための概念構成が欠けており、そのためには「より多くの異質な事態を同一の概念で解釈し、それによってきわめて異質な事態を比較する可能性を保証する」ことが必要であるとルーマンは説明する (『社会の社会』p.30-31)。
[27] また「国民国家」という枠組みに縛られない話ができるとルーマンは考えていた。
[28] 『社会の社会』(1997=2009) 序章
[29] 例えば、「法から逸脱する者」(これまで「例外」として記述されてきた者) や「あたかも社会の外側に立って社会を批判する社会学者」(主体-客体図式に束縛された社会学者) なども含んだ記述が、二値理論によって可能になる。
[30] 本書を読み進める際にポイントになるのが、ルーマンはリスクの普遍化を「突然現れたもの」や「一過性のもの」、あるいは「局所的なもの」として捉えてはいないという点である。彼は近代社会が機能分化していく延長線上で起こる、ある種必然的な事態としてこれを捉えている ((I)にて解説)。
[31] あるいは、道徳が持ち出されたりする。これについてルーマンは一貫して否定的だ。例えば、「非知のエコロジー」ⅵ節では次のように述べられる。「原発を止めるのは道徳的に自明だ」という人がいる。しかし、我々がわかるのは、この問いを投げかける者は了解の能力を持たないということである。「道徳はコミュニケーションにおいては誇張を強いざるをえない。そして誇張によって了解はたちどころに、見込みのないものと見なされてしまう。《あの人たちとは話にならない》、なぜなら《あの人たち》に物事の特定の見方を受け入れさせることはできないから、というようにである。それゆえに了解をめざすコミュニケーションはまずもって不確実性を増幅し、非知に関する共通の知を育まなければならない」(『近代の観察』:148)。要するに、我々は合意を目指して道徳を用いたコミュニケーションを行うよりも (そうしたコミュニケーションは結果的に相手を排除することにしかつながらないのだから)、「非知」についての知を共有すべきだとルーマンは述べるのである。だからこそ、行為論や道徳論ではなく、観察不可能性を視野に含んだシステム論から話を始めるべきだということになり、「未来の偶発性」や「パースペクティブの多様化」についての考察が徹底して進められることになる。そのように議論を進め、非知に関する共通知が生まれたとき、我々は <互いに非知であるからこそ、排除せずに了解しあう> ことが可能になるかもしれない。こうした可能性をもルーマンは提示している。
[32] 『社会の社会』p.30。
[33] それも、その理論自体が理論の内に含まれるような (循環的な関係を含んだ) 理論。あるいは、「社会を批判する者」や「社会から逸脱する者」もその記述に含んだ社会の理論。
[34] 本書12章3節。
[35] 例えば、食品に関する似非科学などがなぜ支持され続けるのかを、こうした道具立てで整理していくのもそれなりにおもしろいのではないだろうか。
[36] 本書第六章2節。そして、このような比較を成り立たせるのがシステム論の諸概念である。
[37] ただし、七章2,3,4節で描かれる事柄のスパンの長さも無視してはならない。
[38] ただし、これらもまた観察によって生み出されるものであることに注意。「決定」として観察されるからこそ、あらゆる事柄が「自然」ではなく「選択肢」として認識され、また実際には管理不可能性が増大しているにも関わらず事柄が「管理可能」なものとして観察されてしまう。
[39] 本書6章ではこの事態について更に詳しく述べられている。「不信が支配的で、上述したように関与者たちが互いに違った区別で観察しあっている場で、こうしたコミュニケーションは役立ちうるだろうか」(:137)。
[40] だが、これは新しい事態なのだろうか?
[41] しかし、ルーマンはこの「互いに未来について非知であるために合意が困難になる」という状況に了解のコミュニケーションの可能性を見出してもいる。本レジュメ注26を参照。
[42] これはそもそもルーマンの「概念」定義から不可避的に導き出される帰結である。ルーマンは概念を他の側面から区別されるものとして定義する (1章3節)。概念がそのようなものであるとするならば、ペアとなる概念を変えた時点で、当該概念は変化も被ることになるのは当然であろう。
[43] もちろん、これらは必ずしも二律背反の関係にあるわけではない。「(諸社会システムによって) 現にこのように観察されている」のだから「(我々は) このように観察した方が良い」ということはできるからだ。しかし、学術システムもまた社会の作動であり、学術システムにおける社会の記述を社会の自己記述とみなすルーマンのシステム論において、我々の日常の用法とは異なる形で概念を用いて社会を記述するというルーマンの試みはいったいどのように位置づけられるというのか (『社会の社会』を読まないとダメか…)。


**4章以下についての適当なメモ**

4章 たぶんここからようやくリスクについての基礎的な考察がはじまる
(たぶん当初思っていたよりもこの章は大切。リスクの問題を「限定的」「局所的」なものではなく、機能分化していく社会がかならずぶつかるものとして捉えている。)
1 観察からリスクについての考察を始めるよ。観察は決定だからそこにもうリスクが関わるよ
2 二値コードは学習をする。だから、二値コードが過去・未来の差異を生み出すよ。(:98)
 二値コードによる開放性は、「どちらの値を取るか」でリスクを生むよ (:99)。ただ、逆にいえば2つの値に限定しているよ (:102)。要するに二値コードは機能システム内でリスクを引き受けるよう要求するよ(:103)。
 システムはリスクを合理的決定の形式で記述しようとするよ (:100)
 諸機能システムの分化により、一方のシステムが他方のシステムに予測できない帰結を与えてしまうよ

5章「リスク」概念がこんなに注目されているのはテクノロジーの発展のおかげだから、これについて考えるよ
1 <技術/自然>区別じゃ「自然を守ろう!」くらいしかいえないよ (:107)
 「技術」は因果関係で観察することで単純化を可能にする、と考えておく (:108)
 しかし、世の中は複雑よ。複雑なのに「技術」で物事を観察しつづけるとどうなるのか (:109)。ハイテクノロジーの問題を捉えられなくなるのよ (:110)。それはもう技術的な規制の限界を突き破っちゃってるの。カオス。
2 リスクを制御しようとすることがリスクを生むよ (:114)
 技術はそれ自体リスクだから、技術は[津波みたいな]自然のゆえに失敗するんじゃなくて、技術自体が一つの限界なのよ (:117)
3 エコロジー問題ななんでリスクという形式を取るようになったのか (:118)。
 エコロジー問題は行為の意図せざる結果として報告される。つまり、行為によって可視化されるものとして観察されている。すると、エコロジー問題は技術が機能していない問題ではなく、技術 (=行為) が機能しているがゆえに起きている問題だという当然のことを再確認できる (:118)。すると、結局上手くいっている行為だということになるので、諸システムはエコロジー問題を積極的に受け入れてくれなくなる (:119)。
 さて、意図せざる結果であるなら、(1)不意うちだし、(2)被影響者がどこまでなのかわからないことになる (:119)。
 話をシステム論にまとめていく。全体社会と技術的現実化はカップリングしている。技術的現実化はコミュニケーションの総体に影響を与えている (車が動くことを前提にコミュニケーションが組織されるといったように。このように、技術との接触は社会形式を生み、それは日常的に経験できる[反作用する])。(原発もそう。それは規定から逸脱しているかもしれないが、実効性が証明されている。そして人々の生活は、それによってもたらされる電気を前提にコミュニケーションを組織してしまう)[:120-121]。
 予期せぬ出来事が起こった場合、[「意図せざる結果」といった旧来の行為論的概念が用いられることで]「より多くの注意を!」などと言われるかも。でも、それは構造的カップリングを変更させるものではないので、同じことはたぶん何度も起こる。

6章 
1 リスクか危険かで連帯形式がかわる (:125)。リスクが合理的な自己規制を、危険は保護を。
 (ここで「自由」は一つのコンフリクトになる。危険から自由を規制する、ということになるので[受動喫煙の危険からタバコを規制するといったように](:125))
 互酬・相互援助・損害埋め合わせの規範が発達。だが、現在は事前配慮国家に対して要求を一方的につきつける形に (:126)。(相互から一方的に)
2 決定には<決定者/被影響者>(:128)。これが決定の形式
 すると決定者にとってのリスクが、被影響者にとっての危険になってしまう (:129)。これが社会的次元を重要視させることになる。(第三章にかかわる)(パラドクス展開についてp.130)
 これは形式に付随するパラドクスなのだが、人は新たな区別を導入することで、これを政治の問題にして不可視可する。(:131) 改めて、社会はこのパラドクスにどう付き合っているのか
3 決定者と受益者と被影響者が分離する (:132)
 また被影響者が誰になるのか予想できないので、社会的介入は被影響者ではなく決定に対してしか行えない。(:133) かつ、カタストロフィは実際に経験できないからこそ、懸念が過熱する(:134)。
 こうして溝は広がっていくのでは?
4 <決定者/被影響者>のパースペクティブの相違は信頼を失わせていく (:137)。不信がコミュニケーションを支配する。コミュニケーションの複雑性を軽減していた「権威」もその力を失う(:139)。
 被影響者の組織は「~の下で」という形で組織されない。だから、参加への動機が語られたり。すると、組織は動機をリスク状況から語ることが難しくなる。(すでに世の中に「環境問題反対!」という人はたくさんいる。それにも関わらず、「被影響者のために」と称して組織を作ったりする。その「あえて組織を作る」という動機を語るときに、なんか個人的な理由が語られる。その組織の外にいる人は、「どうせ利益のためでしょ」「どうせ自分探しでしょ」と思っちゃって、組織を信頼できなくなる。)
5 近代社会は物事を決定(原因)の結果として見すぎ。(:143)
 でもエコロジーの問題は規模がでかすぎてそう観察できなかったりする (:144)。
 だからこの点でもパラドクス。リスクは危険であり、危険はリスクであったりする (:144)。
6 かつて、「信頼すること」のリスクは被影響者にあった (:146)。
 だが、他者の決定によって影響を被るという今日の問題はこうしたものの外部に存在している。「信頼」していなくても勝手に決定されちゃうからね。だから、「信頼」が重要なのではない。「もっと人を信頼しろよ!」とか「信頼するときは慎重に!」とか言ってる場合じゃない。

7章 今日の抗議は何に対して抗議していて、どういう意義を持つのか
1 抗議は他者に責任をとるよう促すコミュニケーション (:149)
 抗議運動はオートポイエティック
 だからテーマに固執する (:151)。じゃないと抗議を自身の運動に属するものとして同定できないし。
2 規範に指向した抗議運動
 時間拘束は不平等を生み出すので、抗議の源泉になる。(:153) ただこれじゃ一般的すぎるのでもう少し見ていく。
 伝統社会では規範がコンフリクトを焚き付けた (<合法?/不法?>)。上層階級でも、抵抗権 (法に従わなくても良いという法) が、コンフリクトを焚き付ける (<合憲?/違憲?>という形で)。
3 社会主義運動では財の不平等な分配がコンフリクトをたきつける。不平等は違法に達成されたものではない(:156-157)。
 規範から稀少性へ抗議が移った18世紀から19世紀にかけて、全体社会の概念も変化。欲求充足に意味を付与する経済秩序となる。ただし、これは<全体社会/国家>の区別に置き換えて理解される (:157)。社会主義運動はこうして国家に欲求充足の冷遇改善をアピールできる。
 福祉国家の発展などでこれらはもう中心的な位置づけを失っている。
4 今日の抗議運動を特徴づけるのは、「他者のリスクに満ちた行動の犠牲となりうるような状況の拒否」(:158)
 今日では「内的な不平等」(差異=全体社会内の差異)よりも「エコロジーの不均衡」(全体社会の分出=<システム/環境>)が重視されている (:160)。
 リスクが抗議の焦点になっている。リスクはすでに述べたように時間的な偶発性と関わり、社会的な偶発性を引き起こす (蓋然的/非蓋然的な未来に対して、さまざまな評価が可能になるという自我/他我のパースペクティブの違い)。
 テーマは全体社会の記述。すると抗議は全体社会が、自身の記述をそれ自体への抗議という形で実現しているのだということになる (:164)。抗議運動は運動を持続させるためにテーマに注目(:162)。そのことで抗議運動が可能になる全体社会構造上の条件 (=自分が全体社会の自己記述でしかありえないこと?) を反省しなくなる。抗議運動は、全体社会内部にありながら、まるで自分が外部に立っているかのように動かなくてはならないので、パラドクス。そのパラドクスを、「自分たち以外の誰かが事態を改善すべきだ」とすることで (つまり<自我/他我>区別を用いることで)覆い隠している (:164)。
 抗議はマスメディアを介するコミュニケーションと強い親和性 (:164)。抗議は世論を鏡とし、自分が観察されていることを観察する (:165)。ただ、メディアは運動のテーマをすばやく消費してしまう(:165-166)。だから、運動は要求を急進化することになる。
 (今日の) 抗議による反省は結局どのような意義を持つのか。諸機能システムが自らのテーマとして把握しないようなテーマを取り上げている (:167)。諸機能システムによる反省ではカバーできないところを 補っているのだ。

8章 政治はなんで語ってばっかりで、リスクをうまく引き受けられないのか
1 福祉国家=テーマの政治化が簡単におこる(:170)
 今日の政治は隠さない。公開性を重視して、語りまくる (:171)。
 今日では、技術に関わるリスクも政治が観察 (:172)。「(<決定者/非決定者>の)コンフリクトについては政治的な解決策以外の解決策は提供されていない」ということが関係。被影響者から政治システムにたくさんの要求 (:172-3)。
 カタストロフィの前では計算も無意味 (:173)。計算できないのだから、政治システムは決定の影響や決定が受容される可能性を手がかりにしていくしかなくなる (:174)。
2 [補論]
3 じゃあ、決定の前に被影響者を「参加」させればよいか?参加は要求を拒否しにくくすちゃうけど(;177)。
 重要なのは、「参加」重視=手続き重視ってこと (:178)。で、これでなにが達成される?<決定者/被影響者>の差異は再生産される (誰が被影響者になるかわからない) のに (:178)。
 ただし、政治システムにとって重要なのは組織化されたコミュニケーション(:179)。このコミュニケーションでは参加によって抗議を法律の条項にしうるので、そこは意味をもつ (:179)。
 情報公開のコミュニケーションは、むしろ疑いを生み出してしまいがち (:180)。
 政治は自分の決定をリスクに満ちたものなのだと記述することはできない(不信を生み出すから)。だから、やっぱり「語り」に専念することになる。「決定する気力」なんてないし、そもそも「合理的」な決定なんてできない (:181-2)。いったいこんな状態でどんなコミュニケーションができるのか。相手に自己拘束だけを期待するコミュニケーションを(:183)。
4 政治は時間化されたコミュニケーション (:190)。会期などといった固有の時間をもつ。
5 時間化されている以上、政治はいつまでも同じテーマを扱っていられない。じゃあリスク問題はどうなるのか。大体の場合、政治システム⇨法システム(禁止/許容)⇨経済システムへと渡される (:191)。
 じゃあ、政治・法のカップリングのなかで、リスクはどのように引き渡されるのか。(ここのところもう一度読み直したほうがよいのだが) 法自体の行動の法的な帰結の予見可能性を、規範プログラムへ組み入れるのを断念するようになっている(:197)。
6 政治システムは決めるのは<介入するか/しないか>。つまり全体社会の制御システムとして自己呈示している。すると、政治は自分の外に属するリスクを、<介入する/しない>の決定に属するリスクへと変換するチャンスしか有していないということになる (:199)。
 
9章 将来の支払いを目指す経済システムは、リスクを引き受けつつ増大しがち 
1 経済システムがリスクの最終的な到達点
 経済が関わるのは投資リスクと信用リスク(:201)。
 投資の場合、予期されていた支払いが実現されない (リターンが来ない) というリスク(:202)。
 貨幣がリスク引受を可能にする。それは記憶なしに作動するがゆえに、リスクと関わっていたことを忘却させる。だから、払った人だけにリスクは関わる (新しく貨幣を手に入れた人は無関係)(:202-203)。
 支払いというコミュニケーション作動は「支払い能力がそれ以降作り出されないリスク」と関わっている。そして、支払えない人が増えたらデフレ、受け取る人が減ったらインフレという形でシステムは免疫反応する (:204)。これはリスクを自己危害に変換しているということでもある (:204)。
 市場についての観察 (セカンド・オーダーの観察) が、市場喪失の危機を生み出す。リスクを避けるなら、その市場から撤退する以外に方法がないからね(:205)。すると大抵の場合、他の人がリスクへ歩んでいこうとしているなら、自分も歩みださないといけなくなってしまう (乗り遅れることもリスクになってしまうし)。これをシステム論から見ると、経済システムにおける「リスク引き受け準備の強化」と見ることができる(:206)。
2 銀行は経済システムの中心で、経済システムの機能を濃縮したもの (:207)。それはお金を貸すことで経済に支払い能力を供給する。
 銀行はリスク変換を行うために支払わせる (:209)。「将来返します」という約束でお金を預けてもらい (支払い約束)、そのお金を貸して支払い能力を与えて「(融資先から) 将来返します」という約束を得る。すると、銀行は支払い約束を取り引きしているのだということになる。
 こうしたリスクの扱いには2つの前提。偶然と関わっている&法は<合法だけど支払いできない>ということに対して無力 (つまり経済システムでリスクを引き受けないといけない)。
 銀行は経済への関与者の行動をリスクという観点でのみ観察をする (:211)。これが大きな特徴である。
3 よくわからん

10章 どうして組織は決定したことを撤回しないで説明しまくろうとするのか。あの不合理とも思われる態度はどこから生まれてくるのか
1 メンバーと非メンバーを区別する公式的組織を扱うよ (:215)。誰をメンバーにするのか、という点で「決定」が関わるよ。すると、組織の要素となる作動は「決定」だよ (:216)。
 組織は自分の行動に含まれるかどうかを「決定」によって判断するので、「何もしなかった」ことも決定として観察してしまったりする (:216)。そして、(事後的にリスクが見出されるところには決定が見出されてしまうので?)組織におけるコミュニケーション行動は、決定とリスクが重なり合っているところに特徴がある。すると、組織は「決定」を監督するという形でセカンド・オーダーの観察に重点を置くようになる(:217)。
 こうなると、「わずかな予期せぬことも許さない」という規則まで生まれるようになる。
 組織はリスク回避のために様々な戦略を採るようになる。決定の分解もそれ。逆にそうすることで確定事項を不可逆化してしまう (ここまで決まったんだからくつがえせない) ことになるのだが (:219)。
 規則・書式を変に重視するのも、決定の分解のいち手段なのだろう (:220)。
2 組織は決定に関わるので、事後的にガッカリする可能性を強めている。ガッカリすると、原因探求への刺激になり、その探求がさらに条件をかえるので二重のガッカリになってしまったりする (:222)。
 官僚性は確固たる係留点を必要としているので、事後的にリスク評価が変化してしまうことに耐えられない (:223)(だって、いちいちすべての「決定」が揺らいでしまうことを考慮していたら何も決定できないし。決定に踏み出すための係留点が必要)。もちろん組織はまた過去に遡って判断を修正することに抗えないのだが、それでもなお組織はすでに下した決定にとどまろうとする (過去の決定を正統化しようと努力する)(:223)。
 だから組織は、とりあえず生贄を出して責任者を辞めさせたりする。こうすることで、「ありえなさそうなこと」から学習をして、今後全ての決定プログラムを変更するということを、しないで済んでいる (判断した人を消すことで、その人の学習は組織に活かされないままになる)。
 ただ、そうできるときもある。長期的に見ると、用心がプログラム化されたりする。手続きが変に細分化されたり、チェックの回数が多くなったりね。
3 経営上部層は決定のリスク引き受けを期待されている (:226)。
 リーダーはチャンスとリスクをつきあわせて吟味する。リーダーの仕事は、予見され受容されるリスクを発見しまくることである (:228)。あと、従業員の選抜というリスクにも関わる。
 
11章 科学はなぜ危険な研究をするのか / 未来の偶有性と関わっていると、「真理なんてなさそう」な気がしてくる。では、そうなったときに「科学」とはいったい何を指すものになるのか
1 特定の科学分野のリスクは真理の産出がうまくいかないかもしれないということである。科学にとっての危険は、逆に、これがうまくいくということである (:232)。真理はどのような使われ方をするかわからないのだから、真理の産出の時点でそれは (被影響者のパースペクティブから) 危険なのだ。
 エコロジーや技術とかかわることで、科学は外部からの問いと関わることになる。
 真理の産出が上手くいかないことはリスクだし、真理が産出されれば危険なので、科学は<真偽>のいずれにせよリスク危険から逃れられない (:234)。
2 科学批判について。
 科学批判は「科学システムの盲点」を観察しようとするセカンド・オーダー (:235)。
 科学研究は自分自身をも研究の対象とするはずなのに、してこなかった。自己言及を禁止していたのである。が、科学の進歩はそうした禁止を骨抜きにしつつある (:237)(言語研究など)(ここらへん、「非知のエコロジー」のラスト)。
3 科学をよく見ていくと、「誰も確かなどとはいえない」という科学の権威の喪失に行き着く (:242)。人々の主張は、未来を知り得ない以上すべて「意見」へと格下げされる(:242)。科学的知見の裏の利害関係に目が向けられたりする (:244)。このようなセカンド・オーダーの観察に耐えられるものだけが科学的とみなされる(:244)。これは未来の不確実性を反射している状況であるといえよう(:245)。(ここらへんは二章の話も思い出したほうがよい。)
 このように、(リスクを冒しながらやっていくほかない)全体社会は、セカンド・オーダーの観察へとどんどん移行しつつある。

12章
1 未来と関わりあうなかで、全体社会がセカンド・オーダーの観察に移行。
 リスクがある。そして、そのリスクに関わりあうべきかどうかを考えると二次観察 (:248)。区別の両側面を意識して行動することになる (どっちを採るのが得だろう?)。
 リスクを他のものから区別する試み自体が二次観察。影響者・被影響者も、互いに観察しながら行動するので二次観察。諸機能システムも二値コードのどちらの値でコミュニケーションが行われたのかを観察するから二次観察 (4章かな)。政治の場でも、人は政治家を観察するし、政治家はそれを意識しながら決定をする。
2 二次観察っていうのは、ある観察者がどのような区別を用いて観察しているのかを観察すること。
 言い換えれば、観察する作動を実行するシステムを観察するということ (:254)。二次観察にいたるのは、観察を向けているシステムを、観察しているシステムとして把握するときだけ。
3 リスクの場合は?
 一次観察は、互いを観察の客体とし、パートナーや敵対者の特徴を推論 (:256)。そこで上手く生き・争い・折り合ったりする (:256)
 二次観察は、相手がどのような区別を用いて観察しているのかを問う。リスクの場合、そうした思考形式が支配的になる。例えば、相手 (観察者) にとって、<リスク迎合/リスク回避>の閾はどこにあるのかを考えたりする(:256)。
 こうした二次観察が生み出すコミュニケーション問題は? まずヒエラルヒーの形成が不可能になること。だからシステムはヘテラルキーの複雑性を縮減する必要 (:257)。なので、諸機能システムはコミュニケーションを遮断する方向へ。科学だったら、互いを観察するのではなく、業績(印刷物)を観察する。経済は競争によって互いに手を取り合ってコミュニケーションすることをできなくする。政治は (直接コミュニケーションするのではなく) 世論を鏡にして作動している。ただし家族だけは例外なのだが (:257-8)。
 近代社会はすべてのコミュニケーションにおいて二次観察を前提にしている。たとえば個人は自己を観察するから個人なのだ。だが、上で見たように、全体社会はこうしたコミュニケーションの過剰負担に対抗するための免疫化の諸形式も発達させてきたのである (:258)。
 この形式を「了解」。セカンド・オーダーをファースト・オーダーに復帰させて、コミュニケーションの解きほぐせないもつれあいから逃れる (:259)。言葉と指し示されるものとの区別は、「上辺だけの言葉」であるということ、真剣に受け止めなくても良いということを生み出す。こうして、「誠実さ・正直さ・契約遵守という伝統的な要請もろとも、いわゆる合意を引き裂く」(:259)。それでいいのだ。
 二次観察を一次観察にするために、(上辺だけの) 書き言葉の世界を回り道しよう。「説明を洗練させ、改善し、より多くの複雑性とより細部にわたる了解の可能性をそこに付加していくことは、たしかに可能である。だが、それにより共通世界の中に複雑性と不透明性がため込まれていくことはあっても、決して、システム状態の一致という意味での合意にまで行き着くわけではない」(:260)。


● 最終章に関する追加メモ ●

了解って?:暫定的な休戦のことだと思う。合意の場合は、相手に「心からの納得」のようなものを期待する。でも、もう現在未来が偶然的であり、パースペクティブの多様化が解決できない以上、私の行為の信憑性を相手に伝えることなどできない。だから、了解で満足する。「了解は、慎み深い社会的スタイルを含意している。すなわち、了解しあわなければならない者をその信念から引き離したり改心させたり、あるいはどんな形であれ変えようと試みたりはしないのである」(:146)。対立が生じているなら、必要なのは休戦と、それについての了解である。他人を強制的に同意させられる知など用いられないのだから。相手は本当は何を考えているのか、という言葉の裏の取り合いゲームから逃げ出す。相手がどう考えていようがもう言葉の上で了解できたからいいや。

了解できる?:科学もどんどん二次観察してるよ。って話の流れから最終章に入るので、了解の話 (他者を納得させることなどもうできないのだからコミュニケーションのもつれあいを避けるためなるべく一次観察に留まるべきだという話) もそうずれたものじゃないのかもと思えてしまう。ここであえて流れを無視して、「じゃあ、原発に関して『了解』することはできるのか?」を考えてみる。まず、「参加」についての話であったように、被影響者圏は不明なので、了解できるかできないか以前に、そもそも誰と了解すれば良いのかがわからない。そして、仮に二次観察をやめたとして、それでも我々が原発を介して関わるのは「スイッチを入れるか、入れないか」(しかも、一度スイッチを入れてしまったら切ることはできない装置のスイッチを入れるか、カタストロフィを引き起こす可能性を持つもののスイッチを入れるか) という決定。①この決定に関して生まれるコンフリクトのなかで、我々は了解をどのように調達できるのか、②あるいは、そもそもここでいう了解とはどのような状態なのか。③また「スイッチを入れる」と「スイッチを入れない」の中間がない以上、それが「合意」だろうと「了解」だろうとあまり変わりはないのでは?

(余談。「現在を決定の結果として観察してしまう」という話はさておき、原発に関しては「スイッチを入れることは決定以外の何物でもなく(勝手に稼働したりはしない)」、そして「その決定が未来を変えてしまう(例えば供給される電力が存在することを前提にコミュニケーションが組織される)」。)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?