「社会を語ること」の難しさについて:「社会学」は何が難しいのか。①


「社会を語ること」というのは、なぜ難しいのだろうか。この記事では、山本泰「社会がわかるとはどういうことか?社会学がわかるとはどういうことか?」(国際社会科学 64 1-15 2016年3月) という文章を元にしながら、そのことについて考えていく。


1. 社会について語ることの難しさ :「社会について語ること (社会学)」の難しさを考える。

 私の専門は、(たぶん)「社会学」だ。専門といっても、何かそれっぽいことをやっているわけではないのだが、それでもある程度「社会学」というものを勉強して、物事について考えるときの道具として使っている。

 しかし、そのように日々「社会学」っぽいものを使いながら、なお「専門はたぶん社会学だ」くらいにしか言えない自分がいる。なぜか、そのような感覚を持っている。どうしてそうした曖昧な自己紹介しかできないのだろうか。理由は簡単だ。「社会学とは何か」がわからないからである。もっといえば、「何をしたら社会学をしたことになるのか (社会学はどのように遂行可能なのか)」がわからないのだ。

 例えば、「社会学」とは「社会を語ることだ」と考えてみる。すると、すぐにいくつも疑問が生まれる。「社会とは何か」「どのように語るのか」「『社会が語れている』かどうかを誰がどう判断するのか」「なぜそれを語る必要があるのか」…。普段我々は簡単に「今の社会は~」と語ることができてしまうのだが、なぜそれが可能なのか。そのときに無視されている「難しさ」とはどのようなものなのか。

 この記事では、改めて「社会学はなぜ、どう難しいのか」という疑問に対して、私自身が関心を持つ 「概念と行為」 という視点から挑みたいと思っている。これはとても大きすぎる関心なので、話はかなりボンヤリとしたものになるだろう。しかし、その代わりに 「社会学」 全般に通じる話になる (と思う)。そうした大きい話から、ある程度分野を横断しても通じるような「社会学」の「難しさ」を描き出すこと、それをもとに改めて 「『社会学』がどのように遂行可能なのか」 を論じること。それが本論の目的である。


2. 社会学の根本的な困難。―  山本泰 「社会がわかるとはどういうことか? 社会学がわかるとはどういうことか?」

 初めに、山本泰の文章をまとめながら、「社会学の難しさ」について考えてみよう。

 そもそも社会学とはどのような学問なのだろうか。山本はまず、「観察可能な『こと』を、観察不可能な仮説で説明する試み」 としてこれをまとめてみせる (p.4)。このレベルの話であれば、社会学は他の科学とあまり変わりはないだろう。例えば物理学が 「物体の動き」 を 「重力」 という仮説で説明してみせるようなもので、ここにはあまり不思議はない 。

 そのうえで、社会学の少し奇妙なところは、「人々は『社会学』以前に『社会』を知っている」というところにある。人々は社会学以前に社会を知っている。人々が日常会話のなかで「今の社会は~」と語れたり、あるいは自身が参加する相互行為のなかで感じる困難を語れたりすることからも、それは自明だ。

 ただし、これも社会学に特有の困難というわけではない。経済学のことを知らない人が、お金に長けていることは当然ある。これは、社会学とは、ある特定の仕方で社会を記述する試みである (p.8) ということを指しているに過ぎない。

 そのように「特定の仕方で社会を記述すること」にも意味がある。例えば、「社会学 (の概念)」が自分の知る「社会」を上手く説明してくれることがある。そういうことを体験すると、「社会学がわかった」 という気持ちになるだろう (山本はこのプロセスを「社会学がわかること」の初級から中級として捉えている)。この内容を本論の表現に照らし合わせて書き換えるならば、次のようになる。「社会学がわかる」 ことの第一歩とは、ある特定の概念によって、ある特定の仕方で「(自身の知る) 社会」を記述すること、その方法を学ぶことである。まず、これをおさえておこう。


 さて、ここまでは別に良い。ただ、ここから先をよく考えようとすると、途端に厄介なことになる。「人々は社会学以前に社会を知っている」ということを含めて物事を考えてみると、途端に社会学がわからなくなるところへとたどり着いてしまうのだ。この困難を簡潔に表現するならば、「社会学者も、『人々が知っているところの社会』 というものからは逃れられない」 ということになるだろうか。山本はデュルケームの『自殺論』についての議論を中心に、このことをまとめている。以下、言葉を補完しつつ、少し詳しくまとめておこう。

(a)デュルケームは極めて個人的な事態であると考えられている自殺が、「(自殺したいと考える) 個人の意思」 には位置づかない (個人の意思をいくら集めてもたどり着くことのできない) 社会的要因に左右されていることを明らかにしようとした。そうすることで、人々の行為に影響を与える 「社会的事実」 を抽出し、それによって 「社会学」 を遂行しようとしたのである 。
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(b)これに対して実証主義者は統計の厳密な使用を求め、現象学派らは自殺の参与者が自殺に付与する意図や意味に注目することを求めてきた。
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(c)
 だが、アトキンソンという研究者は、これらとは異なる場面に注目する。アトキンソンは、ある死が 「犯罪によるものか、自殺か、事故か、病死か、自然死か、不明かのいずれかの判断」 を行う検死官が、どのようにその判断を行っているかを明らかにしようとするのである。

 検死官らは、その判断を 「自殺についての常識的な理解」 に基づいて行っていた (p.11)。これはデュルケームやその批判者らの主張を根本から揺るがすものである。なぜなら、デュルケームや実証主義者の試みは、自殺統計を使っている以上、人々の常識的判断をそのまま抽出してなぞっているだけのものだったということになってしまうからだ [注1]。

 (ⅰ) デュルケームは「社会的統合が強い / 弱い」「規制が強い / 弱い」からこそ「自殺が起きる / 起きない」と説明した。
 (ⅱ) 検死官は「自殺である / ない」 を 「社会的統合が強い / 弱い」「規制が強い / 弱い」 と同等の常識的な見解から判断する (孤独な老人が死んでいる場合は自殺、強く強く生きていた人が死んだ場合も自殺…というように)。
 (ⅲ) すると、自殺統計を見たときに 「社会的統合」 や 「規制」 という変数が抽出されるのは当然のこととなってしまう。


 以上のことは、何を含意するのであろうか。社会学者も、人々の常識的判断 (すなわち、人々が理解するところの「社会」) からは逃れられないということであろう。たとえ統計調査を用いて 「社会的事実」 を明らかにしようとするような試みですらも、そうなのだ。この事態をボンヤリと言い表すなら、「社会学者も社会のなかにいる」 ということになる。あるいは、「観察者 (社会学者) と観察対象 (社会) のなかに循環関係が生じてしまっている」。いずれの場合でも、社会学者は、「社会」の外から 「社会」 を記述することはできない

 では、一体どのようにすれば 「社会を記述した」 などと言えるのだろうか。以上の地点に立つと、何をすれば社会学をしたことになるのかが、よくわからなくなる。


[注1] 現象学派の場合はどうだろうか。明記されてはいないが、アトキンソンの図に則れば、そもそも自殺者や周囲の人が自殺に付与する「意図」や「意味」に注目してみたところで、それらは「自殺についての常識的判断」に影響を受けていることになる。だから、少なくとも堂々めぐりになることは避けられないだろう。




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