「ない」ことを指し示す。ー 私が好きなものについて。


 ずっと熱が下がらず、朦朧としながら考えていたこと。

 これまでも何度か書いてきたのだけど、谷山浩子さんの曲は「ない」ということの描き方が上手い。例えば、『意味なしアリス』の冒頭。

「キノコの上の芋虫は、淋しさを教える教授だった。それじゃあ始めるよと言い残して、芋虫はどこかにいってしまった。もう二度と帰らない。アリスだけ残った。」

 あるいは『ガラスの巨人』。これは心のなかの空っぽな空間、ただ一点を指し示す曲で、とても美しい。

 あるものが「ない」ということを描く場合、そこには特殊な仕掛けが必要となる。例えば、いま私がいる「私の部屋」を、「パンダがいない空間」として描くためには、「私の部屋にパンダがいる必然性」を描いたり、あるいは「パンダを何かの象徴として描く」といったワンクッションが必要になる。谷山浩子さんの『椅子』という曲を用いて、そうした仕掛けについて論じたのが以下の記事だ。



 そして、私はどうやら、この「ない」ことを描いたものが好きなようで、この他にもいくつかの記事を書いてきた。例えばゲームや短歌について。



* * * * *


 では、そうしたものが好きだった私が、社会学においてやりたかったものは何か。それは、「そこにあるべきものがないことについての社会学」であった。あるいは、「そう語られるべきであるものが語られないところの社会学」と言っても良い。

 確かにこのように語られても良いはずなのに、なぜかそのようには語られない。そのように語られないことで、何かが混乱してしまったり、失敗してしまったりしている。そうした、「語りえたもの」と「実際に語られたもの」との「すきま」を探すこと。それを目標にしてきた。

 そして、「語りえたもの」の領域を、独りよがりではない形で描き出すためには、やはり仕掛けが必要になる。(「ない」を描くためには、ただ資料を精査するだけでも調査の幅を広げるだけでも不充分である。それは「あるものを見ている」に過ぎない。もちろんそれらも必要なことなのだが、それ以上のものが求められる)。そのための仕掛けこそが、「概念」と「論理」なのだと思う。

 ある概念同士の (必然的ではない) 結びつきが、どのような論理を生み出してしまったのか。それが人々の行為にどのような影響を与えたのか。その結びつきを解いてみたときに何が見えるのか。面白いかどうかはともかく、そういうことをしてきた。少し関係がありそうなものとして、以下の記事がある。



 なかなか時間が取れないのだが、もう少ししたら、もっとちゃんとした形で自分が考えるところの社会学について論じてみたいと思っている。今日のところは、なんとなく趣味と学問の好きなところが似通っていて、相互に影響を与えあっているなぁ、という確認がしたかっただけ。

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?