「家族を選ぶことができる」ということ。 ―『映画ハートキャッチプリキュア』を中心にして


***2013/3/31公開記事に大きく加筆***


-ネタバレなし感想-

 梅澤さんは親子で楽しめる作品を目指し、「勧善懲悪にはせずに、幸せや悪とは何か?というようなテーマを盛り込み、何か感じてもらえるようにしている」と語る。例えば「ハートキャッチプリキュア!」では、人が誰でも持つコンプレックスをテーマとしており、梅澤さんは同作について「話を難しくしているわけではありませんが、重くならないように、キャラクターの頭身を低くしました」と説明する。テーマ性は、大人の鑑賞に耐える内容につながり、親や大人の方が熱心なファンになることもあるという。 (『プリキュア : 人気の秘密は王道と革新性』http://mantan-web.jp/2012/05/26/20120525dog00m200060000c.html)


 ここで語られているように、『ハートキャッチ』はコンプレックスをストーリーの軸としている。

  「変われないダメな自分」「嫉妬」「自意識」「トラウマ」……。プリキュアたちは自らがもつコンプレックスを、受け入れて力に変えていく。排除するのではない。ダメな自分を「自分ではない」と攻撃し捨て去るのではなく、「ダメな自分」も自分なのだと受け入れていくのである。


 まずプリキュア映画に縁がない方のために一応説明しておくと、プリキュアの映画は春と秋の年二回公開されている。シリーズが始まる春に公開される映画が『プリキュアオールスターズ』で、ここでは旧シリーズの先輩たちから新シリーズの登場人物への新人研修 (?) が行われる。大人数で行われるド派手な戦闘シーンが魅力なんだけど、なんか毎年増え続けててすごいことになってる。

 これに対してテレビシリーズが後半~終盤に差し掛かる秋の映画が各シリーズのオリジナルタイトル。この秋映画では、様々なエピソードを経て春から成長したプリキュアたちの物語が描かれることになる。春映画と比べると戦闘などが大人しめになるかわりに、より深いテーマを扱うことが多い。


 では、秋映画にあたる『映画ハートキャッチプリキュア』で扱われるテーマとはどのようなものなのだろうか。まずシリーズとしてのテーマである「コンプレックス」が扱われていることは言うまでもない。ただし、先に述べたように秋映画で描かれるのは成長したプリキュアたちの物語であるため、主人公たちの「コンプレックス」が直接描かれることはない。むしろ、「コンプレックス」を受け入れて、それを「人を守るための力」に変えていくことができたプリキュアたちの姿が描かれることになる。

 では、この映画が中心として描くテーマは何か。それは「成長したプリキュアが人にどのような影響をあたえることができるのか」ということ、そして「親子の絆」だ。どちらも単純なテーマに聞こえるかもしれない。しかし、前者はコンプレックスをどのように受け入れて、それをどう前に進む力に変えるのか、そしてそれを他者にどう伝えるのかという形で展開されていく。後者は、世界から排除された人間が、その世界のなかで生きていくためにはどのようにすれば良いのかという形で展開されることになる (ちなみにこのテーマは『輪るピングドラム』で扱われた「生存戦略」についての話とよく似ている)。

 『映画ハートキャッチプリキュア』の完成度の高いところは、アニメ本編の「コンプレックス」というテーマを下敷きにしながらも、この両テーマをバランスよく、不和を起こすことなく配置しているところにあると私は思う。それぞれ複雑な3つのテーマが、わずか70分のなかで調和的に展開されていく。

 そして、このようにテーマを重層的に配置することで、この映画は「大人の鑑賞に耐える内容」にまで完成度されている。「子どもが楽しめる」と同時に「大人には大人の見方ができる」といってもいいだろうか。70分の作品だとは思えない重厚さなので、ぜひぜひおすすめしたい。



*****

ここからは視聴済みであることを前提とした感想。ネタバレありです。

 


~姿を変えれば、変わることができる。 / 姿が変わっても、変わらないものがある。~

 この映画を貫くテーマとして、「成長したプリキュアが人に与える影響」「親子の絆」の二つを先に挙げた。

 もう少し踏み込んで映画を見ると、この二つの他に、ある相互に対立したテーマが作品の根本にあることがわかる。それは「姿を変えれば (ファッションによって)、変わることができる」「姿が変わっても (狼男になっても)、変わらないものがある」というテーマだ。

 なぜこのテーマが一つの作品内で両立するのか。この両立を可能にしているのが「心の花」という小道具である。『ハートキャッチプリキュア』という作品は、一見すると性善説に則っているように見える。誰もが綺麗な「心の花」をそれぞれもっている。もちろんときには、その花が暗い部分をもっていたりしおれたりすることもあるだろう。それでもやはり誰もが綺麗な花を持っているのだ。

 こうした「心の花」が体現する〈変わらない良い部分〉と、ファッションによって〈変わっていける部分〉はきっとどこかで連続している。ファッションによって花が豊かになることが当然ありうる。しかし重要なのは、いくら外見を変えた所で、花の種類・花自体が持つ魅力が変わることはないということだ (オリヴィエの花が「変わらぬ魅力」だったことも想起しておこう)。


 ところで、「心の花」がもし性善説を表しているのだとすれば、敵も「心の花」を持つのはなぜだろう。

 映画では、オリヴィエが憎しみという男爵の感情も人の心であると指摘している。アニメでも、たとえば幹部の一人クモジャキーはノコギリソウを「心の花」としてもっていた。つまり、彼らは憎しみとはいえ人の心を持ち、敵でありながらも心の花を持っているのである。このことについて考えていくと、『ハートキャッチ』が単純な勧善懲悪の物語ではないことが明らかになる。

 男爵の花は不明なのでここでは一度保留にし (*)、クモジャキーについて詳しくみていこう。クモジャキーの花、ノコギリソウの花言葉は「戦い」であると作中で説明されている。クモジャキーはその花にしたがって力を求め、そしてプリキュアと戦っていくことになる。ここで注目すべきことは、その力が「悪」である必然性はどこにもないということである。事実、浄化されたクモジャキーは道場に入門しそこで力をつけようとする。その道場はキュアサンシャイン=いつきの道場であり、いつきはその道場で身につけた力をプリキュアのために使っていたのだ。

(*クモジャキーはもともとオリジナルとなる人間がいたために心の花があったが、男爵にはオリジナルとなる人間がいないため心の花はないとも考えられる。)

 ここからわかるのは「戦う」ための力を求めることと、そのための行為・その行為の結果は独立していているということである。「心の花」によって生まれる動機はそれぞれ独自のものであり、その点では尊重されるべきものだが、その後にある行為が外部の基準に照らしあわせたときに「善」であるか「悪」であるかはまた違う問題なのだ。

 これを踏まえると、プリキュアに敵対する者たちもそれぞれ独自の行動基準をもっているということになる。彼らの問題とは、その動機によって選択された行為が社会にそぐわなかったというだけのものなのだ。くどいようだが、プリキュアの行為と彼らの行為は、動機の時点では善悪の差はなくまったく同等のものなのである。極端な物言いになってしまうが、「たまたまプリキュアの行為が社会的な善に即していた」というだけなのだ。


~世界に居場所のない「化け物」が、少しずつ親と子になっていく。~

 サラマンダー男爵とキュアアンジェの戦いは、上のような事実を象徴しているようにも見える。(*単純にみればキュアアンジェの方が明らかに性格が悪い。居場所を与えられなかったサラマンダーを、排除・監禁し、「ひどい嫌がらせ」のように男爵の力を世界中にばらまいた。) サラマンダーは砂漠の王によって (心があるゆえに!) 排除され、キュアアンジェによって (砂漠の使徒であるがゆえに!) 排除された。彼はやはり動機 (「知りたい」と思った) のレベルでは純粋であったはずにも関わらず、どこにも居場所を得ることができない。それも砂漠の王からは存在の根本にある欲求を否定され、キュアアンジェからは「砂漠の使徒」として生まれたがゆえに迫害されたという点で、彼はその存在の根本のレベルで世界から疎外されているのである。その気持ちが世界への憎しみへと転化されるのは、当然といえば当然のことであろう。

 しかし男爵は、同じく居場所を持たないオリヴィエと出会う。二人はお互いを、お互いの居場所として見出していく。映画ではオリヴィエが主張するだけだったが、サラマンダーも恥ずかしくて口にはしないものの、オリヴィエに自分の居場所を見出していたに違いない。仮にその関係に名前をつけるならば「親子」とよぶのが相応しい。親子とはこのようにして、少しずつなっていくものなのだろう。

 『映画ハートキャッチ』の掲げる「親子」についてのテーマは、かくも複雑である。「親子の絆がテーマ」というだけでは表しきれない深みを持っている。

(*監督である松本理恵は、細田守に影響を受けたと公言しているだけあって、家族もの (とくに擬似家族もの) をよく描いているように見える。『京騒戯画』などを思い出しておこう。)


~家族をえらぶ、ということ。~

 プリキュアでは、ときに恐ろしいほどピュアで素朴な家族像が描かれることもある。優しい父・母と幸せな家族のよくあるイメージ。だから、たまにそれが批判されたりもする。主人公はみなどう見ても裕福な家庭で、両親ともに揃っていて、みんな幸福そうだと。

 いくつかのシリーズを見ている人には、その認識は誤りだとすぐにわかる。『ハートキャッチプリキュア』では壮絶な環境で育った月影ゆりがいるし、主人公レベルのキャラにはマンション住まいで母が病気であり、父親が単身赴任でほとんど登場しない『ハピネスチャージプリキュア』のめぐみがいる。

 さらにいえば、プリキュアは幸せな家族を描くのと同じ程度に、「幸せな家族とはなにか」というテーマを繰り返し扱ってきた。もっとも顕著なものが『フレッシュプリキュア』だろうか。敵幹部の一人であるイース (東せつな) は、父である存在に寿命まで管理され、ついには殺されることになる。家族と呼んでよい存在の命令に従い続け、ボロボロに傷つき、最後には棄てられるのである。そこから、せつなの「家族になる」旅が始まる。彼女は主人公ラブの家に受け入れられ、時間をかけてほんとうの家族になっていく。

 あるいは『プリンセスプリキュア』の敵幹部であるトワイライト (紅城トワ) は、母ではない人のことを母であると思い込まされて育てられた。トワがその事実を知った直後も、その「母ではない人」は「もうお母様とは呼んでくれないのかい?」とトワに呼びかけ追い詰める。そしてそのときすでに、トワのほんとうの家族は全員姿を消していた。しかしトワはそこから立ち上がり、自分自身の足で歩き始める。

 もう一人の敵幹部であるシャットは、自身の「美しさ」を認めてもらおうと化粧した顔を母に見せ、「お前は失敗作だ」と言われる。彼はそのアイデンティティとなる価値観を、そしてその存在自体を、母から徹底的に否定されるのである。これと対照するかのようにこのエピソードのラストでは、プリキュアであるみなみが自身の価値観を家族から受け入れられる様子が描かれる。なお、トワと同様にシャットも、最後には母である存在からの自立をある程度果たすことになる。

 ほかにも例えば毒親を取り上げた『オールスターズニューステージ3』や父による娘への虐待を描いた『ドキドキプリキュア』などさまざまな例を挙げることができるが、こうしたエピソードを通じてプリキュアが伝えているのは、「家族は家族であるという理由だけで必ずしも良いものではない」ということ、そして「家族を選ぶことはできる」ということである。

 今一度『映画ハートキャッチプリキュア』に戻ろう。この映画もまた、家族を選ぶことができるというメッセージを伝えるものであった。


~ 2つの生存戦略 ~

 少しだけ話が変わるが、『輪るピングドラム』というアニメもまた家族の選択性を扱った作品であった。他者からのまなざしによって「何者にもなれない」世界から疎外された存在が、〈自分を排除する世界を破壊すること / 世界のなかで家族を選び、家族になること〉という2つの生存戦略のなかで揺れ動き葛藤し、最終的には後者を肯定する。

 『映画ハートキャッチプリキュア』もまた、この2つの生存戦略のせめぎあいを描くものである。世界に受け入れられなかったサラマンダーは、世界を壊すことによって復讐を遂げ、自分の存在を肯定しようとする。それに対立するのが、家族になるという方法で世界に居場所をつくろうとするオリヴィエだ。

 居場所がないなら、居場所をつくることが、できるときがある。生まれた場所に受け入れられなかった「何者にもなれなかった」人々が、集まって家族になることが、できるときがある。2つの作品はどちらもこのことを描くのであり、この点で価値がある。それはもちろん簡単な選択肢ではない。『ピングドラム』で描かれるのは共に過ごす時間のなかで血を流し、その血を混ぜ合うことで家族でない者たちが家族になっていくというものであった。その描写は美しいが痛々しい。だから、その選択肢を楽観視することはできない。

 それでも、これらの作品は、「その選択もできる」ということ、家族という一見必然的なものに対して「そうではない可能性」もあるということを真摯につきつけるのである。

 そしてとくに、子ども向けのアニメでありながらその可能性を伝える『映画ハートキャッチプリキュア』の価値は計り知れない。家族のなかで痛みを感じる子どもたちに、家族の一員でありながら「何者にもなれない」「透明な存在」でしかない子どもたちに、その家族ではない家族の可能性について想いを巡らせることを可能にしてくれるのだから。


~ まとめにかえて:3つのテーマ ~

 私たちはコンプレックスを受け容れることができる。

 そうしたコンプレックスをもっているからこそ、他者を理解し、ふれあうことが少しだけでもできる。

 家族を選びながら生きていくことができるし、そのようにして自己や他者の存在を肯定することができる。


 繰り返しになってしまうが、『映画ハートキャッチプリキュア』はわずか70分のなかにこれらのメッセージを含ませた驚異的な作品であった。



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