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万引きで捕まりかけた話

 社会人1年目の、冬だった。

 クリスマスから年始に向けて長い休みが取れ、静岡にある実家に帰省していた。自意識的な事情により旧友とは全て連絡を絶ってしまっているから、実家に帰っても特別することはなく、むかし自室だった部屋に籠もって読書をしていた。
 東京から持ち込んだ2冊の本を読み終えると手持ち無沙汰になった。暇を共に過ごす本を見つけようと、実家から1kmほど離れた、海の近くにある古本屋へと自転車を走らせた。 

 古本屋に入ると、BUMP OF CHIKENの『車輪の唄』が流れていた。中学生や高校生の時によく聴き、友達と一緒にカラオケで歌った曲だった。
 子どもの頃の古本屋には、もっと大人が聞くような、自分になじみの薄い歌が流れていたと記憶している。大人になってみると、街の中にも自分と同じように年を取ってる部分があることに気づくことが増えてきた。

 この古本屋には、小学校高学年から中学生の頃まで、毎週のように通っていた。
 ドカベンも、こち亀も、名探偵コナンも、テニスの王子様も、この古本屋で最新刊まで全巻揃えた。
 小学6年生の時には、全身に汗が浮かぶくらいドキドキしながら、いちご100%を買った。ふたりエッチはもっと気軽に買えたのに。ふたりエッチの方が明らかにエロい漫画だからふたりエッチを買う時の方が緊張しそうなものだけど、いちご100%には、思春期の僕にとってエロいことよりもっと恥ずかしいことが描かれていたから、一層ドキドキしたのだ。そんなことは今から振り返ってみれば明らかなことだけど、そんなことにも気づかず、いちご100%は超エロい漫画だからドキドキしたのだと当時は真剣に必死だった。

 子どもの頃とは違って漫画の棚ではなく、人文科学や小説の棚を見て回るようになっていた。大学のゼミの教授が「お前、本を読んでるのか?本を読んでない奴の人生は終わってるぞ」と、毎週の飲み会で平然という人で、その教授と関わってから活字の本を読むようになったのだった。
 大学生の頃はその教授の言葉を真に受けて、必死に読書をしていた。一時期は、朝起きてから夜寝る直前までずっと本を読み、夢の中でも寝る直前に読んでいた本の活字が目の前に現れて、その活字を声に出して読む自分の声のうるささに起こされては「あっ、本を読まなきゃ」と寝ぼけたまま本を開くほどになった。辛いのか辛くないのかよくわからなかったが、自分には無かった習慣を強引にしていることだけは確かだった。
 大学卒業と同時に、自意識的な事情によりその教授とは連絡を絶つことになったけれど、本を読んで人生を形成する、という習慣だけは残ったままだった。

 古本屋でいろいろな本の背表紙を眺めながら、1つ面白そうな本を手に取って、それから1時間くらい色んな本を眺めた。
 本のタイトルや、著者の経歴、目次を眺めるだけで本屋というのは面白い。それだけで、いろいろな考えが頭の中に広がった。頭の中でなにか勝手に物語をつくったり、自分なりの考えを構築し始めたり、仮想敵に議論を仕掛けたり。そんな風に散々1人で楽しんで、そろそろ帰るかぁ、と思って外に出た時だった。

ピピピピピピピピッ!ピピピピピピピピッ!ピピピピピピピピッ!

突然、脳に直接入り込んでくるような、高くて大きい機械音が鳴り響いた。一瞬、なにが起きているのかわからなかった。振り返ると、出口に設置された防犯ゲートが光りながら音を響かせていた。慌てて自分の手を確認すると、本を1冊持っていた。しまった!と思った。考え事に夢中になりすぎて、自分が本を1冊手にしていたことを完全に忘れていた。すぐ店の中に戻ろうと振り返ると、お店の中から身長170cmくらいの黒縁メガネの男の店員が全力で走ってきて、僕の上腕を両手で強く掴んで店の中へと引っ張った。

「万引きっ!万引きっ!警察っ!警察っ!万引きっ!万引きっ!警察っ!警察っ!」

その店員はお店の中に向かって叫びながら、無抵抗な僕を強引に引っ張っていった。僕は別に意図的に悪いことをしようとしたわけではなかったから、「ごめんなさい。わざとじゃないんですけど」と弱々しい声を発したのだけど、そんな僕のことなんて全く視界に入れてはくれず、その店員は、魚屋で提供される死んだ生シラスのように焦点の合ってない三白眼で、

「万引きっ!万引きっ!警察っ!警察っ!万引きっ!万引きっ!警察っ!警察っ!」

と、ひたすらに店内に向かって叫び、僕の体を引っ張り続けた。
 自分が正義だと疑っていない男の人の力というのは非常に強くて猥雑で、腕がひどく痛かった。初対面の全く知らない他人に自分の体を杜撰に扱われるという状況に、脚が震えはじめた。
 そのままレジの方に引っ張られてゆくと、180cmくらいの、小太りで色の白い、銀色のメガネをかけた男が目の前に現れた。

「私が店長です。ちょっと、事務所まで来てもらえます?」

その男は低く冷静な声で言った。「はい」と返事をしてその男の後ろを大人しくついて行こうとしたが、生シラスのような目をした店員が息を荒げながら僕の上腕を掴んだままで、相変わらず体を引っ張られてゆくことになった。
 生シラスは店長の方ばかりを見ていて、僕のことなんて全く見ていなかった。体を引っ張る強さや向きが、そのことを物語っていた。

「そこに座ってもらえますか。今、警察呼びましたので」

10畳はありそうな広めの事務所に連れられると、店長にそう言われた。やっと生シラスから解放され、僕は指定されたパイプ椅子に座った。手にしていた本は、タイトルが見られないように裏向きにして机の上に置いた。
 椅子に座って辺りを見渡すと、5メートルくらい離れた席のところで、手作りのお弁当を食べている40歳ほどの女性と目が合った。僕と目が合うとその女性は、まだ食べかけのお弁当をそそくさと片付け始め、もう一度僕のことを見ると、鞄を持って事務所から出ていった。

 僕は、自分の身なりを気にし始めた。その女性の目が、鏡でもあったからだろう。

 黒色の、ニット帽を被っていた。大学受験の1ヶ月くらい前にストレスで気分が高揚し、急にスキンヘッドにした時に古着屋で購入したニット帽だった。左こめかみの部分にいくつか金色のリングがあり、そのニット帽を学ランに合わせるのを当時はすごく気に入っていた。
 強いピンク色の英字が印刷された、黒いパーカーを着ていた。頭のてっぺんまでピンク色のファスナーが閉まって頭が完全に隠れてしまうのが面白くて、高校の時に友達と『ファッションセンターしまむら』でお揃いで購入したパーカーだった。その服を買うとすぐに駐車場で着用して、近くのイオンまで自転車を走らせ、2人で頭を隠してプリクラを撮った。
 灰色でだぼだぼの、スウェットを履いていた。中学生の頃、後にマイルドヤンキーと名指されるタイプの先輩が灰色でだぼだぼのスウェットを履いて歩いているのを見て、カッコいいなと思った。部屋着のようなもので堂々と出歩くその姿は、自意識が外に漏れ出てゆくことを厭わないような、思春期的なカッコよさがあった。高校に入ってから、その先輩を真似て買ったものだった。
 青色の、クロックスを履いていた。25cmくらいのサイズのもので、母や姉が履くには少し大きいが、父や兄や僕が履くには少し小さい、家族の誰のサイズにも合っていないクロックスだった。誰のサイズにも合ってないからこそ、家族の誰でも履いていいクロックスだった。
 それから、まばらな無精ひげを生やしていた。実家にいて気が緩まっていて、誰かと会う予定もないから、生やしっぱなしになっていた。

 万引きしそうな身なりだな、と、女性の視点から自分を見て思った。

 事務所から女性が出ていくと、入れ替わるようにまたすぐにドアが開き、警察官が2人やってきた。30代くらいの肌の綺麗な男と、50代くらいのベテランそうな、顎のしゃくれた男だった。
 ドアから僕が座っているところまで10メートルくらい離れていたが、若い方の警察官がスライドするように大股で駆け寄ってきた。縦にも横にもブレることのない顔が機関車のように一直線に僕の方に向かって近づいてきて、1メートル手前のところで止まると、いきなり大きな声を出した。

「万引きしたのかっ!?」

こうして実際に警察官が目の前に来ると、これから自分は仕事をクビになり、地元では万引きで捕まったという噂が流れるだろうか、という未来について考えはじめる自分がいた。
 しかし、すぐにそうしたことはどうでもよいものに思えた。それよりも、自分がわざとやったわけではないということ、それだけを、目の前の人にわかってもらいたいと思った。わかってくれるだろう、とも思った。恋愛に自分の人生の救いを求めてる者の、自分勝手な恋心のような感情を目の前の警察官に抱いていた。
 監視カメラを見てもらえれば、自分が意図的にやったことではないことは推定してもらえると思った。

「すいません、先に監視カメ...」
「言い訳をするなぁっ!」

言い終わる前に大きな声で遮られ、驚いた反動で背筋がピンッと伸びた。それでも諦めてはいけないと思い、

「すいません、先に監」

とまで言ったところで、若い警察官は「だからぁ」と僕の声を遮り、また大きな声を出した。

「言い訳をするなよぉっ! やったんだろ? 万引き!」

生シラスにも警察官にも話を聞いてもらえず、体も心もぞんざいに扱われ、心が折れそうになった。折れはしなかったけれど、ポキリと心が折れる図像が脳裏をよぎった。

「結果的には、そうですね」

留保しながら認めると、若い警察官は少し落ち着いた声で「やったんだな」とだけ言い残して後ろを向き、肩で風を切るように事務所から出ていった。
 すると、若い警察官がいたところのスペースに、年長の警察官が横からニョロっと入り込んできた。

「お金は持ってるの? 財布、見せてよ」

肌に張りついてくるような甘ったい声で、少し痰が絡んでいた。ポケットから財布を取り出して広げると、中には1万円札が入っていた。

「お金がない、ってわけじゃないんだねぇ。身分証も、見せてくれる?」

財布の中から身分証を取り出し、提示した。

「自分でも怖いって思ってるのに、どうしてこんなことしちゃったの」

身分証を差し出す僕の手がぶるぶると震えているのを見て、年長の警察官は顎を撫でながらそう言った。

「したくてしたのではなくて、本を手に持っていることを忘れてしまったのです」
「ふつうは、そんなことにならないよね?」
「はい。僕は今まで何百回、何千回と買い物をしてきて、こんなことになったのは初めてです。普通じゃなくて、例外です」

なんて正しく、なんて情けない返事をしているのだろうと思った。年長の警察官はその僕の返事を無視するように机の上に視線を落とし、

「それで、なに盗ったの」

と言いながら、裏返しに置いてあった本に手を伸ばした。
 まずい!と思った。僕は、自分が手にしていた本のタイトルが、この状況で見られるのはふわさしくないと思っていた。いや、ふさわしくないというよりかは、あまりにも状況が状況だから、この本のタイトルを見た時に、人はどんなリアクションをするのか困ってしまうのではないかと、未来の他者に対する共感羞恥にも似た気持ちで本を裏返しにしていたのだった。
 年長の警察官は本を手にとってタイトルを眼差すと、左頬にだけエクボをつくって「ふうぅっ」と、限りなく笑いに近い息を漏らした。そのあとすぐに「まぁ、」と言いながら職業人の顔に戻り、「こんな本も、読むんだねぇ」と、手に取った本を机の上に戻した。僕はなんと返事をすればいいかわからず、ただ黙っていた。

 そんな気まずい空気を打ち破るかのように、大きな音を立ててドアが開き、また若い警察官が機関車のように迫ってきて、僕の目の前で止まった。

「お店の人と監視カメラの映像を見てきた。わざとやったようには見えないから、お店の人が被害届けは出さないって、言ってくれたよ」

理解してもらえてよかった、と思った。少し安心して「はい」とだけ返事をしたが、おそらく「だから、最初から監視カメラ見ろって言ったじゃないか」というような表情を僕がしているように見えたのだろう、

「お店の人に、最後くらいはしっかり謝ってくれ」

と、若い警察官が乞うように言ってきた。
 警察官2人と一緒に事務所を出て、レジの方へ向かった。

「ご迷惑おかけして、すみませんでした」

店長に頭を下げ、レジで本の代金を支払った。生シラスは本のタイトルを見ても何も反応せず、レジを打つ機械的な音だけが沈黙の中に響いた。横からは「このあと、交番に連れていきますので」と、警察官が店長に説明している声が聞こえてきた。

 古本屋を出ると、2人の警察官に前と後ろを挟まれるように、国道沿いの歩道を交番の方角へ向かって歩いた。車道を大型トラックが行き交うと、地面と連動して体全体が小刻みに揺れた。空には寒雲が薄く広がっていて、海の方からは、塩けのある風が吹き荒んできた。
 実家に住んでいる時は、風に塩けが含まれていることなんて当たり前すぎて感じられたことがなかった。ひとたび地元を離れて戻ってくると、ここが港町であるということを鼻孔からも知らされた。

 交番に着くと、パイプ椅子に座るように指示された。「本を出しておいて」と言われ、机の上に裏返しに本を置いた。身元引受人が必要だから、誰か家族を呼んでくれと言われた。父も母も、仕事に出ていた。父に電話をしたが、繋がらなかった。母に電話をして事情を説明すると「はぁっ?」と呆れていたが、仕事を抜けて来てくれることになった。

 調書のようなものを記入しながら待っていると、母の車がやってきた。車を降りて来た母は、既に目を赤く染めていた。

「ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」

交番に入るや否や、母は深く頭を下げた。「まぁまぁ、座ってください」と警察官に案内され、母は僕の隣のパイプ椅子に座った。
 若い警察官が事の顛末を一通り説明する中で、「これなんですが」と、僕が裏返しにしておいた本を表向きにした。

「はうわぁぅっ」

本のタイトルを見ると、母は泣きながらおかしな声を出した。僕は母の顔を一瞥した後、黙って下を見ることしかできなかった。泣いている母の顔よりも、見ていられない顔だった。

「件の古本屋には、出入禁止ということになりましたので。今後は全国のチェーン店も含めて全て利用しないようにしてください。もし利用したら、不法侵入罪になりますので」

今後の注意を受けると、もうお帰り頂いて大丈夫です、とのことで、僕は交番から出た。母はまだ警察官と話したいことがあったようで、交番に残り、しばらく警察官と話していた。

 自転車で家に帰ると、母の車があった。母の方が先に到着したようだった。家に入ると、リビングの真ん中で膝から崩れ落ちている母と目が合った。

「バカみたい。私さ、本当にバカみたいだよ」

声を出すと、母はまた涙をこぼし、続けた。

「私の教育の何が悪かったの?」

お母さんの教育は関係ないよ、僕のただの不注意なんだから。と、思った通りのことを伝えると、「ふつう、そんなことあり得ないでしょ?」と、年長の警察官と同じ言葉を母は口にした。

「今まで何百回、何千回と買い物をしてきて、こんなことになったのは初めてだって。普通じゃなくて、例外だってば」

警察官にしたのと同じ返事をした。2度同じことを言っても、なんて正しく、なんて情けないことを言っているのだろう、という気持ちは変わらなかった。

「私、仕事に戻るから。話あるから、あんた家の中でじっとしてなさいよ」

そう言い残すと母はリビングのドアを叩きつけるように閉め、家から出ていった。
 外から母の車のエンジン音が鳴り響いた。その音がだんだんと遠のいてゆき、やがて聞こえなくなった。実家に住んでいる時に毎日のように聞いていた、一連の音の流れだった。

 リビングに立ち尽くしてしばらく考え、このまま家には居たくないな、と思った。
 僕は、人の行動と意思は分けた上で話をしたいと思っていた。確かに、自分がしたことは外形的な行動としては万引きだが、だからといって、万引きをしようと意思して行ったと見做されるのは事実と異なるし、自分の人格を決めつけられているようで苦痛だった。でも、母の言葉を聞いて、そうした前提を共有して話すのは難しいと思った。
 東京から着てきた服に着替え、部屋を片付けて荷造りをして家を出て、東京行きの電車に乗った。
 仕事の邪魔してごめんね。お母さんの教育とかは関係ないよ。しようとしてしたわけではないけど、そう理解してもらうのは難しいと思うし、そんな状態で話をすることはできないから、東京に帰ります。と、電車の中から母にメールを送った。

 しばらく電車に揺られていると、父親から電話がかかってきた。「お前、万引きしたのか?」と、ちょっと嬉しそうな第一声がスマホの向こうから響いてきた。
 高校を卒業した時、父から「俺は、お前にはもっと不真面目に生きてほしかった。1度や2度くらい、警察に捕まるくらいでよかった」と言われていたことを思い出した。その言葉通り、確かに父は少しだけ嬉しそうだった。
 やろうと思ってやったんじゃなくて、ただ本を持ってるの忘れてお店出ちゃっただけだよ、と説明すると、そういう小賢しい話はどうでもよいと言わんばかりに「んあぁ、あぁぁ」と、獣の鳴き声のような声を出した後に父は、「お母さん、家に帰ってきてからずっと泣いてるぞ。別に俺のことはどうだっていいけど、お母さんに心配かけるなよ」と言ってきた。それから「また帰ってこいよ、次は、夏休みか?」と、次の帰省の話をして、電話を切った。 
 スマホの画面を見ると、10分ほどの短い間に母から3通のメールが届いていた。1通目は「勝手に帰るなんて思わなかった。非常に残念です」。2通目は「無視しないで、メール返して」。3通目は「あなたのことを信じることにしました。疑ってごめんなさい」という内容だった。
 帰ってごめんなさい、無視したんじゃなくてお父さんと電話してたんだよ、信じてくれてありがとう、とメールを返してスマホをポケットにしまい、背もたれに寄り掛かった。電車のガタンゴトンというリズムに体をあずけていると、固形のような涙がボロボロと目から落ちてきて、しばらく止まらなくなった。10分も、20分も、30分も、電車に揺られながら泣き続けた。

 自分の一つの過ちが発端となって、他人の、身内の、強い感情に長時間触れることになった。自分はひたすらに、疑われ続けるだけだった。初対面の人に、体も心もぞんざいに扱われた。家族とは、距離ができた。他人との距離が、まるごとひっくり返ってしまった世界に飛ばされたかのようだった。自分もずっと緊張で張り詰めていたが、そのことに自分でも気づいていなかった。悲しいでも、悔しいでも、憎いでもなかった。ただ何かが決壊し、そこから涙がこぼれ続けた。

 起きたことを振り返っていると涙が止まらなかったから、どうにか気をそらそうと、古本屋から一度はレジを通さずに持ち出してしまった本を鞄から取り出した。是枝裕和の『万引き家族』という本だった。
 文字を目でなぞっても内容が頭に入ってくることはなく、浮かんでくるのは、この本のタイトルを目にした時の、警察官の「ふうぅっ」という笑ったような吐息と、母の「はうわぁぅ」というおかしな声とその表情ばかりだった。そのことを思い出すと、笑おうとしているのか、肺がうずいて口元が途端にやわらかくなり、腫れあがった目だけを残して、引き潮のように涙がすべて遠くへいった。



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