14年ぶりの友人との再会

 2019年8月のある日。兄の結婚式があったので、静岡の実家に帰省していた。かつて自室として使っていた2階にある子ども部屋には、リビングで使っていたけど不要になった黒色のソファとか、姉が実家で育児をしていた時期に使われてたであろう、ミッキー柄の小さな布団とか、兄が家を出ていく時に残していった大量の漫画、飼い猫に遊ばれなくなってしまった猫用のおもちゃなど、自分が実家に帰っていない間の出来事の痕跡が積み重ねられていた。20年くらい前から使われている水色のブラインドだけは、そのままの姿だった。
 「地元の友達」と呼べるような間柄を手に入れられなかった人生を過ごしてきたので、実家に帰ってからはずっとその部屋に籠もりながら、特に興味があるわけでもない、兄が置き残していった麻雀漫画を読んでいた。

 ブラインドの隙間から夕日が射しはじめた頃、下の階からインターフォンの音、それから、ドアの開く金属音が聞こえて、母親が誰かを歓迎する時の、いつもより高いキーの声が反響してきた。それからすぐに「翔太くんだよー」と、母親が2階にいる僕に、声をぶつけるように叫んだ。

 翔太くんは、小学校に入学してから6年生の頃まで、一番といっていいくらいに仲の良い友だちだった。僕の実家から、小学生の足でも徒歩2分くらいの距離のところに翔太くんの住んでいるマンションがあって、入学したての集団登校の時期にはもちろん、集団登校が終わってからも、登校中に遭遇すれば一緒に登下校をするような仲だった。はじめは、通学コースが一緒だとか、学校のクラスが一緒だとか、その程度の仲だったけれど、そういった偶然が小さな頃にはすぐに必然に形を変えるもので、小学生として初めての夏を迎えた頃には、翔太くん一人だけが他の子よりも背景から強く浮き出てみえるくらいに、特別な感情を抱くようになっていた。

 小学2年生になる前の春休み。翔太くんが隣町の小学校のグラウンドを拠点にしていた軟式野球チームに入団したという話を聞かせてくれた。

「一回だけ練習に来てみる?体験だったら、いつ来ても大丈夫だよ」

当時、僕はサッカー部に入るか野球部に入るかで迷っていた。せっかく翔太くんに誘われたから丁度いい機会だと思って、その野球チームの練習を体験してみることにした。練習用の白無地のユニフォームを着た知らない子たちの中にジャージ姿で混じって、桜が散り散りになったグラウンドの隅っこで、練習に参加させてもらった。その野球の練習が楽しかったのか楽しくなかったのかは全く覚えていないけれど、家に帰ってから「翔太くんも入ってるから」と母親にお願いをして、すぐに一緒の少年野球チームに入団させてもらった。それからは毎週、月曜と水曜の夜は学校が終わってからユニフォームに着替えて野球の練習に参加するようになり、土曜と日曜には他の地域のチームと練習試合をするようになった。

 少年野球とはどの地域でもそういうものであるように思うけれど、僕の所属していたチームには、試合の際に『配車』という係が設けられていた。みんなのお父さんやお母さんが順番制で、試合の会場となる他地域のグラウンドに子どもと道具を移動するための車を出す係のことだ。少年野球チームには、当たり前のように家族を参加させる文化があった。僕と翔太くんはいつも同じ車に乗るように約束をしていて、誰かの親の車に一緒に乗ることもあれば、翔太くんの親の車に僕が乗ることもあったし、僕の親の車に翔太くんが乗ることもあって、翔太くんとは互いの家族ぐるみで仲良くなっていった。配車係が回ってきたお父さんやお母さんは、休日の朝6時半とか7時から車を出して、グラウンドに着いたらウォーターサーバーに麦茶やアクエリアスの用意をして、2時間くらいかかる試合を、1日に2試合とか3試合応援していた。野球の試合の応援の場は同時に、父母たちの井戸端会議の場でもあって、子どもの目から見ても親同士の仲もだんだんと深いものになっていくのが感じられた。僕のお父さんはなぜか、配車係ではないときも試合を見に来るし、なんなら親が参加する必要がまったくない平日夜の練習にも『BAD BOY』というブランドの服を着用して見学にきていて、周りから名物おじさんのような扱いを受けて恥ずかしい思いをさせられたのを覚えている。

 家も近くて、よく一緒に登下校をして、放課後には一緒に野球の練習に行って、家族ぐるみでも仲良くなって、いつの間にか翔太くんとは誰もが認める親友のような関係になっていた。学校の先生からも、他のクラスメートからも、周りの親からも、あの2人は特別に仲がいいよねって、共通認識が生まれるくらいの仲になった。

 それからすこし経った夏のとある土曜日。配車係として試合に同行していた翔太くんのお母さんがふいに「あんたら、そんなに仲良いんだったら、一緒に学校いけばええやん」と、ぶっきらぼうに言ってきた。翔太くんのお母さんは40代後半くらいで、周りのお母さんよりも一世代上の、関西弁のお節介な人だった。その次の月曜日、朝の7時ちょっと過ぎくらいに「今から家出るから、オレンジの鏡のところで待ち合わせしよう」って、翔太くんから電話がかかってきた。翔太くんのお母さんの一声で、本当に待ち合わせをして学校に登校するようになった。『オレンジの鏡』というのは、僕の家の前の道と、翔太くんの住むマンションの前の道が交わる交差点のところにある、オレンジ色のカーブミラーのことで、そのカーブミラーは、2人の家からちょうど徒歩1分くらいのところに位置していた。翔太くんから電話が来たあとに家を出ると、既に翔太くんが待っていることもあったし、向こうから走ってくる翔太くんを眺めながら待つこともあった。しばらく待っても来ないときはだいたい、「ごめん、途中で忘れ物に気づいて取り入ってた」と言いながら、翔太くんはダッシュでやってくるのだった。

 最初の数回は「今から行ける?」という翔太くんからの確認の電話を取っていたけど、一緒に登校するようになってからすぐ、毎朝いちいち電話の受話器を取るのは面倒くさいことに気がついて、「じゃあ今度から、電話を1回鳴らすだけにしよう」って2人でルールを決めて、朝の7時15分に翔太くんの家からワン切りの電話をかけてもらうことにした。初めてワン切りの電話が来たとき、母親が「あれっ、電話切れちゃったじゃん」と不思議そうにしていた。「面倒くさいから、翔太くんと一回で切るルールにしたんだよ」と理由を教えてあげて、それがなぜか誇らしいことのように思えた。毎朝7時15分にワン切りの電話がかかってくることを家族の誰かに咎められることもなかったし、むしろ、母親もきょうだいも、着信が来ると緑色のバックライトが灯る固定電話の画面を覗いては「翔太くんから電話が来たよー」と、教えてくれるくらいだった。そうやって、毎朝オレンジ色のカーブミラーの下に待ち合わせて一緒に登校する日々が、小学6年生の頃まで、約5年間つづいた。

 ポケットモンスターとか、遊戯王とか、ベイブレードとか、ドラゴンクエストとか、翔太くんとはいつもその時々の流行りのアニメやゲームを一緒に楽しんでいて、登校中に話題が尽きることはなかった。時には、テレビで流行っていたタレントのネタのマネをしながら、朝から大笑いで登校した。それは、パイレーツの「だっちゅーの」だったり、慎吾ママの「おっはー」だったり、テツandトモの「なんでだろ~」だったり、ダンディ坂野の「ゲッツ」だったり、波田陽区の「残念...っ!」だったり。まだ『一発屋芸人』というワードがテレビ視聴者の方にまで浸透してきていない時代で、そのネタが使い捨てられる運命にあることとか、そのタレントの将来を憂う気持ちを抱くこともなく、ただただ単純に芸を楽しんだ。波田陽区のモノマネをしながら、「でもあなた、〇〇ですから~!残念...っ!」って、お互いの悪いところを斬り合うノリになったことがあって、「でもあなた、鼻水の色がすごい青いですから~!残念...っ!」って、前々から思っていた翔太くんのおもしろいところを斬ってみたら、翔太くんが口を尖らせて怒ってきて、本気の喧嘩になったこともあった。僕より身長が3cmくらい高かった翔太くんの鼻からは、青色の鼻水がよく顔を覗かせていた。喧嘩になってその日1日は学校でも口を訊かなかったからといって、次の日の朝7時15分にワン切りの電話がかかってこないことはなかったし、僕もいつも通りオレンジ色のカーブミラーの下まで歩いていった。喧嘩した次の日はお互い気まずい顔で対面することが多かったけれど、学校につくまでの10分の間に仲直りするのが常だった。1kmほどしかない、徒歩で10分くらいの短い通学路は、いろんな可能性が可能なままの状態であった子どもの時にあっては、仲直りするには十分な距離だった。

 通学路には、僕と翔太くんの間で『近道』と呼んでいた道があった。そこを通ると学校までの距離が短縮できる、なんてことはなく、そこを通っても別に学校までの距離は変わらないのだけど、普通の人はわざわざ通らない狭い路地で、僕と翔太くんはその道のことを『近道』と呼んでいた。小学3年生の梅雨の時期。『近道』の途中にあったむき出しの排水路を流れゆく雨水に、道の傍らに咲いていた青紫色のあさがおの花びらを1枚引きちぎって落として、どちらの花びらが先に排水路を囲う岩の唯一白くなっているところまで運ばれるかを競うレースを始めたことがあった。あさがおの花びらを1枚流してしまえば、後はその花びらが運ばれるのを見守るだけのなんの変哲もない遊びだったけれど、あさがおの花びらが途中で水の流れをせき止めている大きな葉っぱにぶつかって動きが遅くなってしまったり、泥が盛り上がっているところに乗り上げてしまったり、捨てられたゴミ袋に引っかかって動けなくなってしまったり、自分たちで用意したわけではない自然発生的な出来事に巻き込まれてゆくのが面白くてしかたがなかった。それに、梅雨の時期にしかできないという希少性だったり、自分たちが発明した遊びをするという誇らしさだったり、そこがなかなか人がやってこない『近道』であることだったり、当時はそうと認識していたわけではないけれど、そうしたことも楽しさに拍車をかけていた。それから毎年、梅雨の時期になると「あさがおレースやろうよ」とどちらかが誘って、あさがおレースはシリーズ化するようになっていった。たまに学校で他の友達といるときに「明日雨だから、あさがおレースできそうだね」って翔太くんと喋っていたら、通学路が反対方向の友達も「なにそれ?俺もやりたい」って、わざわざ自分の家とは真逆の方角まで歩いて来てくれたことがあって、『近道』であさがおレースを教えてあげたことがあった。けど、そういう子が続けて何度もあさがおレースに参加することはなかった。あさがおレースはそのためにわざわざ労力を割いてやるほどには面白くなかったけど、下校中になんとなくやる分には、飽きないくらいに楽しかった。

「うちの家族さ、阪神淡路大震災で家がなくなって、親戚のいるこっちに引っ越してきたんだよね」

登校中、翔太くんが打ち明けてきたのは、社会の授業で『阪神淡路大震災』のことを習って、しばらくした頃だったと思う。

「えっ、あの社会の教科書に載ってるやつ?」
「うん」
「そうなんだ、翔太くんち、関西出身って言ってたもんね」
「うん」
「翔太くんの家族、みんな阪神ファンだしね」
「うん」

淡々とした会話で終わったことを覚えている。当時は『阪神淡路大震災』なんてものは教科書に載ってるくらい昔のこと、という程度にしか自分は認識できていなかった。あらゆる教科の中で歴史が一番苦手だったことも関係してるのだと思うけれど、弥生時代と阪神淡路大震災を『昔のこと』『教科書に載ってること』と、一括りにしてしまうくらいの想像力しか当時の自分にはなくて、そういう歴史的な事実と、目の前にいる翔太くんが結び付いているということに対して、ほとんど現実味を感じることができなかった。毎年1月17日には、神戸で阪神淡路大震災の追悼セレモニーが行われていることは、池上彰の『週刊こどもニュース』で聞いたことがあってなんとなく知っていたけれど、なんでそんな昔のことをずっと取り上げてるんだろう、とニュースを眺めながら思っている自分がいた。今になって考えてみれば、僕が小学3、4年生の時でもまだ阪神淡路大震災から6年とか7年くらいしか経っていなくて、東日本大震災から8年経過したのが2019年の今だということを考えると、自分が遥か昔の歴史だと思っていた出来事と、あの時の翔太くんの言葉が地続きであるということが、今更になって立体感とともに思い起こされる。

 でも、重い話を軽く扱ってしまうのは、想像力がないからだとか、他人事だからということでもないと思う出来事もあって、学校にいく準備をしていたら、お婆ちゃんが部屋の床に仰向けになって倒れているのを見つけたことがあった。小学4年生の、冬の朝だった。

「ちょっと、お母さん!どうしたのっ!」

母親の、今まで聞いたことのないような甲高くて焦燥に駆られた声を耳にして、自分の気持ちが不安定になった。それでも自分には手伝えることはなさそうだったし、ちょうどその時にワン切りの着信が入ったから、お婆ちゃんを起こしにいった母親を横目に、いつも通りオレンジ色のカーブミラーの下まで歩いていった。

「いま家を出ようとした時にさ、おばあちゃんの部屋覗き込んだら、ベッドから落ちて動けなくなってて」
「え?そうなの?」

翔太くんは寝ぼけた顔で言ってきたし、相変わらずメロンソーダ味のガムみたいな、つくりもののような青色の鼻水を垂らしていた。学校まであと半分のところまで歩いたところで、冬日の反射するアスファルトの向こう側からサイレンを鳴らした救急車が迫ってくるのが見えて、僕と翔太くんが歩く傍らを猛スピードで通り過ぎていった。

「あ。あれ、うちの家に行くのかなぁ」

その時は、近くにいる翔太くんが自分の状況を理解してくれないことへの苛立ちとか、そういった気持ちを抱くなんてことはなく、自分に起こっている出来事に対しても現実感があまり湧いていなかった。まだ携帯電話を持っていなかったから、学校から帰ったあと、おばあちゃんが入院したのを母親から知らされて、朝にすれ違った救急車がおそらく自宅に向かった救急車であったのだろう、ということを想像した。

 翔太くんとそんな真剣なことを話す場面なんてのは1年に1回あるかないかくらいで、やっぱり大半の話はアニメかゲームかバラエティかスポーツニュースの話、それから、友達についての話ばかりだった。小学5年生の時にドラゴンクエストに翔太くんと一緒にハマった時、やたらとドラゴンクエストの裏技に詳しかった〝トッキー〟ってあだ名のトキオという名前の子と仲良くなって、翔太くんと一緒に僕の家に誘ってみたことがあった。当日、インターフォンが鳴ってドアを開けると、トッキーが2個上の中学1年生のお兄ちゃんと並んで立っていた。その時は、年上であることを感じさせない無邪気なトッキーのお兄ちゃんと4人でテレビゲームやカードゲームをして楽しんだけど、次の日の登校中、前日に起こった出来事のおかしさについて、翔太くんと話さずにはいられなかった。

「ねぇ昨日さ、トッキーがお兄ちゃん連れてきたのビックリしなかった?」
「ビックリしたわぁ」
「やっぱ!そうだよね。普通さ、友達と遊ぶときに、勝手にお兄ちゃん連れてこないよね?」
「あんな奴、初めて見たわぁ」
「うちのお母さんもビックリしてたよ。『お兄ちゃんも来たの!?用意してないよ!』って」
「そりゃビックリするよ。お兄ちゃん連れて来るなんて、誰も想像しないもん」
「なんかトッキーがいろいろ裏技に詳しいのって、『ワザップ』ってサイト見てるからって言ってたね」
「そんなのあるんだ。うち、パソコンは親の部屋にあって使えないからなぁ」
「トッキー、遊戯王カードも強いのいっぱい持ってるじゃん?あれも、やふおくっていうので買ってるんだって」
「やふおく?」
「インターネット上のオークションらしいよ」
「オークションって、高いお金を出した人が買えるやつ?インターネットでオークションってできるの!?」
「うん」
「そんなのあるんだ」
「このまえカード屋行った時に3000円くらいするカードあったじゃん?あれ、やふおくで80円で買えたんだって」
「まじか、せこいなぁ」
「せこいよね。俺もお母さんにやふおくやりたいって言ったら、やふおくはやらせないよって言われたよ。トッキー、親のカード使えるんだって、ずるいよね」


「今度、うちに泊りにくればいいやん」

翔太くんのお母さんが誘ってくれたのは、野球の試合を終えた後の、帰りの車中だった。「きみたち、小学生最後のゴールデンウィークは、何するん?」翔太くんのお母さんが切り出した話題の中での言葉だった。その言葉通り、ゴールデンウィークに翔太くんの家に初めて泊まりにいった。周囲から期待される大阪のイメージを一心に背負う翔太くんのお母さんは、夕飯にたこやきパーティを開催してくれた。昼からゲームをして、夜ごはんはたこやきを大量に食べて、またゲームをして、翔太くんちの狭いお風呂に一緒に入ってパジャマに着替えて、リビングに布団を敷いて、寝る前にまたゲームをして、そのまま雑魚寝をした。目をつむってしばらくすると、翔太くんのお母さんがリビングの隅にあった仏壇の前で、正座をしながら低く唸るような声でなにか喋っていた。黒い墨で文字がいっぱい書かれた紙を両手で持っていて、念仏を唱えているということがわかった。それは、今まで見たことのない翔太くんのお母さんの姿で、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。けど、ちょっとビックリしたくらいで、寝たフリをしながらしばらくその声に耳を傾けて、気づかないうちに眠りに落ちた。それから、なんだか声が聴こえてくるので目を覚ますと、また翔太くんのお母さんが正座をしながら低くて唸るように念仏を唱えていた。朝の6時半だった。もう一度寝て8時ころに起きると、翔太くんのお母さんが近くのセブンイレブンでサンドウィッチとかヨーグルトを袋いっぱいに買ってきてくれていて、それを食べさせてもらった。その後またしばらく翔太くんとゲームをやって、お昼すぎころに家に帰った。

 「うちのお母さんさ、最近なんか変なのにハマッて、寝る前も起きた後もいつも念仏を唱えてるんだよね。このまえ泊まり来たとき、見たでしょ?」

ゴールデンウィークが終えた後の登校中、翔太くんが神妙な面持ちで話しはじめた。

「うん、そうだったね」
「あれ、やだわぁ」
「そう?」
「うん、だっておかしい人じゃん」
「おかしいかなぁ」
「おかしいだろ」
「うーん。うちさ、お婆ちゃんいるじゃん?」
「うん」
「うちのお婆ちゃんさ、認知症でどんどん変なこと言うようになってきてるんだよ。2年前の朝に救急車で運ばれた時あったじゃん?」
「うん」
「あの時の脳出血だかなんだかの後遺症で、認知症がどんどん進行しててさ。この前もお婆ちゃん、俺が屋根の上に登っていなくなっちゃったって幻想を見てさ、電話で警察と消防車まで呼んじゃって、俺が家に帰った時、家の周りに消防車とパトカーが止まっててさ、お母さん、情けない情けないって泣いてたわ」

自分のお母さんが変になってしまったと思っている翔太くんの話のお返しに、変になってしまった僕のお婆ちゃんの話をした。たぶん、変になってしまった人の話に対しては、変になってしまった人の話で返せばニュートラルになるはずだって、当時の僕には、そういう考えがあった。

「知ってるよ、その話。うちのお母さんが、お前のお母さんから聞いたって」
「知ってたのかよ」

翔太くんは僕のお婆ちゃんの奇行について知っていた。僕も、翔太くんのお母さんが念仏を唱えていたことを、泊りから帰ってきた日にお母さんに話していた。

「なんか、翔太くんのお母さん、夜と朝に念仏を唱えてたよ」
「あー、翔太くんのお母さん、なんか宗教にハマってるらしいよ」
「そーなんだ」
「お盆の時期になると、色んな人の家にいってさ、死んだ人の名前入りで、お経を配ってるんだよ。死んだ人の名前入りって、そんなの聞いたことある? なんの宗教だかわかんないけどさぁ、毎年お盆になると、うちのおじいちゃんの分も持ってくるよ。大体さ、なんで教えたことないのにうちのおじいちゃんの名前知ってんだかね。たぶん教えやがったの、保険屋のババァだな」

母方のおじいちゃんは、僕が物心つく前に亡くなっていて、家のリビングの片隅にぽつんと、おじいちゃんの遺影が飾られた、小さな仏壇が置いてあった。そこには毎年、筆でおじいちゃんのフルネームが書かれた白い封筒が置いてあった。それが、翔太くんのお母さんが持ってきていたものだということを、この時に初めて知った。僕のお母さんは、翔太くんのお母さんが死んだお爺ちゃんの名前を知っていることを、町内の一帯を仕切っている保険屋の営業のおばさんのせいにしていた。その保険屋のおばさんは、霊能者の宜保愛子に似た風貌で、毎月営業に来ては、玄関に入って30分も1時間も、聞いてもいないご近所さんの噂を嬉々として喋って帰ってゆくような人だった。

 その日は突然にやってきた。登校中「これ、なつみちゃんから」って、翔太くんが、なつみちゃんのメールアドレスが書かれた紙を渡してきた。なつみちゃんは、頭が良くて、運動ができて、凄く美人で、男と他人の秘密がとにかく好きな女の子で、性格が悪いとは言われていたけど、その能力の高さからどこか一目置かれているような、そんな女の子だった。
 メールアドレスを渡されたのは、佐世保小6女児同級生殺害事件が起きた直後のことだった。この事件は、被害者も加害者も同い年の女の子たちで、その事件が報道された後、教室での先生の話の時間や、学校全体での朝会で、担任の先生も、校長先生も、こぞって事件の話題を口にした。道徳の授業なんかよりも、先生たちの表情は遥かに重々しかった。その事件は、インターネット上のチャットでのトラブルが発端だったと報道をされていたからか、それからしばらくして、パソコンや携帯電話を使用しているか、教室でアンケートを取られたことがあった。

「自分の携帯電話を持ってる人は、どのくらいいるの?」

僕は小学5年生の終わり頃から、習い事の帰りに迎えの車を呼ぶ用に、SoftBankの前身のVodafoneの携帯電話を持たされていたので、挙手をした。英語よりも先にパソコンの授業でアルファベットを勉強させられたからか、僕は「Vodafone」のことを「ゔぉだふぉね」と心の中で呼んでいた。挙手をしてから辺りを見渡すと、携帯電話を持っている人は、30人のクラスの中で僕の他に1人しかいなかった。他の教室でも同様のアンケートが行われて、「あいつ、携帯電話持ってるらしいぞ」と、携帯電話を持っている人の情報はすぐに学年中に広まった。翔太くんからなつみちゃんのメールアドレスが書かれた紙を渡されたのは、アンケートを取られた次の日のことだった。
 なつみちゃんは、あまり女の子と仲良くならない翔太くんが、珍しく仲良くなっていた女の子だった。というよりもなつみちゃんが、そういった女の子に不慣れな男の子と仲良くなるのが、上手な子だった。そのメールアドレスが書かれた紙を渡してきてから、翔太くんは急に目を合わせてくれなくなった。その紙を貰って僕があからさまに喜んだ表情をしたことが、癪に障ったのかもしれない。メールをする術がない人の方が圧倒的に多いなかで、メールアドレスを持っていてそれを交換するということは、2人の間でメールができるようになる、という文字通りの意味以上の意味があるように周囲からは思われていた。メールアドレスを持っている、交換する、それは、最先端で、私秘的で、破廉恥な関係を築いている、そういう扱いをされるものだった。だから、僕はメールアドレスの交換に凄く興奮していた。翔太くんは何の話をしても、生返事しか返してくれなくなった。隣り合って歩いているのに、避けられていた。次の日も朝の7時15分に電話が来たけど、会っても相変わらず目を合わせてくれなかった。

「わかった、お前なつみちゃんのことが好きなんでしょ」
「ねぇ、俺なんか嫌なことした?」
「言いたいことあったら、言ってくれればいいじゃん」
「おい!」

どんな言葉をかけても、よい方向に傾くことはなかった。あまりの感触のなさに、僕も途中から、話しかけるのを諦めた。無言のまま、ただただ横並びで学校まで歩いた。門をくぐって、下駄箱で靴を脱いだら、翔太くんが僕を待つ素振りもなく先に歩きはじめたから、こっちもわざと動きを遅くさせて、別々に廊下を歩き始めた。次の日、朝の7時15分になっても、ワン切りの電話はかかってこなかった。それから、朝の7時15分に電話の音が鳴ることは、一度もなかった。



 「翔太くんだよー」、下の階から叫ぶ母親の声を聞いて、階段を降りて玄関に立つと、そこには柔らかな表情の翔太くんがいた。見慣れた顔だった。

「うわっ、背伸びた?」

14年ぶりの翔太くんの、第一声だった。僕が知っている頃よりもだいぶ声が掠れていた。中学・高校と野球部に入ったと聞いていたので、そうした生活の中で声が変わっていったのかな、と思ったけれど、そもそも自分は翔太くんの声変わり前の声しか知らないことに気がついた。

「うん、178cmになったよ」
「あ、俺175cmだ。負けてるわぁ。なんか、顔が上にあるのすげー違和感あるわ」

まるで何事もなかったみたいに、声色も、笑顔も、言葉も、翔太くんはなにもかもが自然で、仲が良かったときの、そのままだった。自分に対して注がれるその翔太くんの笑顔を見ていたら、ザラザラとした、不協和な感情に包まれた。

「そうなんだ。高校で身長伸びなかったんだね」
「うん。あっ、結婚祝ってくれて、ありがとね。これ」

翔太くんから、結婚式の引き出物を手渡された。1ヶ月くらい前に母親から「翔太くん、結婚するって。あんたの名前でご祝儀出しておくよ」とLINEが来ていたことを思い出した。僕と翔太くんが関わらなくなってからも、母親同士は密に連絡を取っていて、たまにそんな風に、母親から翔太くんの近況を聞くことがあった。翔太くん、高校の頃から付き合っていた、背が小さくてかわいい彼女と結婚することになったんだよ、って。はっきりと伝えたことはないけれど、僕と翔太くんの仲が悪くなってしまったことも母親はよく知っているから、気を遣って僕の代わりにご祝儀を出してくれたのだ。そのお返しのために、わざわざ翔太くんが家まで来たのだと、ようやく状況が掴めてきた。

「うん、よかったね。結婚おめでとう」

仲が良かった時のままの翔太くんの顔を見ることができて、自分は『嬉しい』と感じているのではないか。一瞬、自分に対してそう疑ってみた。嬉しい、嬉しい、嬉しい。一度疑っただけで、その言葉が勝手に頭の中を巡りだした。『嬉しい』を考えるごとに、涙が込み上げてきた。たぶん、嬉しいのだと思った。翔太くんのことが、ずるいと思った。自分はこれまで、他人に期待しすぎないように、長期的な人間関係を築かないように、そうして生きてきたのに、今更になって、何事もなかったかのような顔でやってきた翔太くんのことが、いや、自分の視界に映っているその映像が、ずるいと思った。別に、翔太くんのせいでそうなったとは思っていない。翔太くんと仲が悪くなってから、学校でいじめられることがあったり、恋愛で嫌な目に合ったり、学校裏掲示板のスレ主の名前が僕のフルネームだったり、他人のことが嫌になるきっかけは、いくつもあった。それに、翔太くんに嫌われてしまったのも自分のせいかもしれない。もともと自分が、人間関係を築くのが向いていない性格なのかもしれない。それでも、他人に期待しない、長期的な人間関係を築かない、それでいい、その方がいい、そう考える時、いつだって翔太くんのことを思い出してきた。翔太くんが人生の中で一番気が合う人だったとか、性格がものすごく好きだったとか、そういうわけじゃない。たまたま近くの場所で生まれたこと、小さいころに長い時間を一緒に過ごしたこと、人生のうちに出会った順番が早かったこと、そういったことが、誰よりも翔太くんのことを思い出す大きな理由になって、翔太くんはくり返しくり返し、目の前に現れてきた。

「今なにしてんの?」

用事だけ済ませたら、早く帰ってくれればいいのに。

「池袋に住んでるよ。職場も」
「そうなんだ、すごいね。んじゃ、そろそろ帰るわ」

やっぱり、自分は地元に住むのが困難な人間なのだと思った。地元にいた頃の思い出に感情を依存させすぎていて、とても住めた場所ではないと、改めて思い知らされた。

「あとこれ、よかったら」

微笑みながら玄関を出ていこうとする翔太くんから、白い封筒を受け取った。それから、玄関のドアが閉まった。しばらくすると扉の向こう側で、車のエンジン音が聞こえはじめて、だんだんその音が遠のいていった。

「翔太くんからお供えものもらったから、置いとくよ」

リビングで猫と戯れる母親にそう伝えて、リビングの隅っこに置かれた小さな仏壇に、おじいちゃんの名前と、それから、おばあちゃんの名前が書かれた白い封筒を、2人の遺影の前に手向けた。



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