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危機の時代に「修業」や「学び」に賭けるとはどういうことか? 内田樹『修業論』

貯金が底を尽きそうな時、自分自身の生を「修行」・「修業」や「学び」に賭けることは、これからの人生をより良く生き抜くための有効な手段のひとつであると近ごろ思う。

前回、「賭け」としての「贈与」について書いたのだが、その合間に再読した内田樹『修業論』(光文社新書)に、


 広義で言えば、「敵」とは「私の心身パフォーマンスを低下させる要素」である。その場合には、「無敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することを意味することになる。(p38)


という一節があった。


危機的状況による不安が長引いてしまうと、自分が「正義」であったり、誰かが作り出した情報を鵜呑みにしたりすることによって、「災厄」を作りだした「敵」を自ら生み出してしまう。

つまり、今の自分の不調や不遇は、外部の「敵」のせいであると決めつけてしまうのだ。


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しかしエマニュエル・レヴィナスの研究者であり、武道家でもある内田樹(敬称略)は、『修業論』において、以下のように述べる。


 私たちはもっぱら限定的な時間・空間で、限定的な条件のもとで身体能力を競い合う「対戦相手」のみを「敵」と名づけている。だが、これは短見と言わねばならない。もし、武術や兵法と呼ばれるものが、起源的には「どのような危機的状況をも生き延びるための技法」であるとするならば、武道家が「敵」という概念をできるだけ広義かつ網羅的にとらえ、それを効果的に統御する技術を習得しようとするのは当然のことである。どう考えても、敵を広義にとらえる人間の方が、敵を対戦相手のみに限定する人間よりは、生き延びる確率が高いからである。(p40)


 私たちの「最初のボタンをかけ違え」は、無傷の、完璧な状態にある私を、まずもって「標準的な私」と措定し、今ある私がそうではないこと(体調が不良であったり、臓器が不全であったり、気分が暗鬱であったりすること)を「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことにある。
 因果論的な思考が「敵」を作り出すのである。
 自分の不調を、何らかの原因の介在によって「あるべき、標準的な、理想的な私」から逸脱した状態として理解する構えそのものが敵を作り出すのである。(p41)


 「敵を作らない」とは、自分がどのような状態にあろうとも、それを「敵による否定的な干渉の結果」としてとらえないということである。自分の現状を因果の語法では語らないということである。
 たしかに加齢や老化や疾病や外傷は、私の心身のパフォーマンスを低下させる。だが、そのときに、病や痛みを、「私」の外部から到来して、「私」の機能を劣化させるものとはしない。それらを、久しく「私」とともに生きてきた「私の構成要素の一つ」と考えるのである。
 武道においても同様である。(p43)


これまで当たり前であった確かなものが瓦解していく不確定な時代においては、「修業」・「修行」や「学び」、「修養」といったことが、より重要性を増してくるのだと思う。

「修行」・「修業」や「学び」に関して、何を「師」とするかは、人それぞれ違っていいし、入学金や学費など、高い料金を支払わなくても、工夫次第で、普段は気づかないだけですでに与えられていることから学ぶこともできる。

つまり、「修行」や「学び」に必ず大金が必要になるわけではないのだ。


たとえば、「これも修行のうち」だと思って瞑想を始めてみたり、普段から体を動かす機会があまりなければ、凸凹の険しい山道を歩いてみたりしてもいい。

さらに<世界>という謎を「師」と捉えてみてもいい。

また行動を制限されている時は、書物を読むという行為である「読書」も有効な選択肢のうちのひとつだと私自身は考える。


ポイントは、何となく理解できるような気がするけれど、本当のところはよく分からないものにふれてみることだ。

すなわち、分かったつもりで実は理解できていない「先生」とは、「アキレスと亀」のごとく、追いついたつもりでも常に「私」の先を生きている存在だ。

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ちなみに私自身、十年以上前に、内田樹の著作を濫読していたが、そのきっかけになった『他者と死者』では、以下のように書かれている。


 偉大な書物が偉大であるのは、それが私たちに潤沢な学術情報を提供し、私たちを知的に富裕化してくれるからではない。そうではなくて、彼らの書物を読む経験はむしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかし、その自失や眩暈を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである。(内田樹 『他者と死者』 海鳥社 p5)


たとえいま困難な状態が続いていたとしても、数年後あるいは十数年後の未来において、現時点での自分自身では想定できない、特異な存在へと変化する可能性が高いものに自らの生を賭けてみるのだ。


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 自分の手持ちの世界観が揺らぎ、度量衡が適用できないような事態に遭遇したとき、人は無知によって武装する。それは狸があるレベルを超える危機に遭遇すると仮死状態に陥るのと似ている。(内田樹『修業論』 p88)


 学校教育がなすべき第一のことは、学生たちの頭にぎっしり詰まって、どろどろに絡みついて、ダイナミックな「学び」の運動を妨げているジャンクな情報を「抜く」ことなのである。(p89)


 生活するためには、自分で生計を立てるという日々の営みそのもののうちに、稽古が自然なかたちで組み込まれるように、生活のありかたを設計しなければならない。常住坐臥、日々の生活そのものが稽古であるような「生き方」を工夫しなければならない。(p114)



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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