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POI申請を愉しむ⑨

先日、ちょっと自分の書いた記事を見直してたら、重大なことに気がつきました。明治期の石碑のことを書いた記事の末尾で軽い予告をしてたんです。

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あ、こんなの書いてたな、そして何の違和感もなく違う話を④でしてる…これ投げっぱなしだって思えてきまして、ちょこっと書いてみます。単発になると思うんですが、③の続きを書き起こします。

今日の舞台は呉市内にある集落です。場所はこちら。

野呂川という川の下流域にある集落です。字(あざ)で言うと2つの地区に分かれています。便宜上、脇山神社のある地区をA、山口神社のある地区をBとして説明します。それぞれに置かれる石碑を見比べてみます。


まずA地区に行きました。脇山神社はこぢんまりとしているものの、こぎれいな神社です。注連柱に「明治40年3月」とある点に注意してください。

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短い参道を上がると集会所があり、その脇に石碑がありました。日清・日露戦の戦死者を祀ったもののようです。横にある「内平」の標柱は、平成23~25年くらいに呉市内の各地域に建てられており、旧字名を解説しています。

その石碑を生やした時のPOI説明文です。戦役紀念碑はどうも明治45年に建てられたもののようです。

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この戦役紀念碑には四名の名前が刻まれていました。後で説明する内容にかかってきます。

次にこの北にあるB地区に向かいます。山口神社を目指して歩くと、神社の手前に薬師寺というお堂がありました。住職はおらず、無住のお寺のようです。

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右手にやはり戦役紀念碑がありました。

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大きさはA地区のそれとほぼ同じですが、背面に14名の戦死者が刻まれていました。戦場に赴ける若者が3倍以上いるので、集落規模としてBの方が大きかったとわかります。

このまま山口神社に向かうと、江戸時代末期の石灯篭がありました。文久年間のものです。「文久三年癸亥三月」とあります。1863年ですから、江戸時代もホントに最後ですね。

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個人的な趣味で言うと、石灯篭は江戸時代以前のものを中心に申請しています。当然絞られるのですが、石灯篭は割と普遍的なのでライン引きをどこかでしないといけない気がしてます。僕のメイン地域で江戸時代の石灯篭はそんなに見ないので、便宜上ライン引きしています。

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山口神社に入っていきます。注連柱は明治38年10月、鳥居は明治39年6月と見えます。連年で建てているんですね。明治38年は9月にポーツマス条約が結ばれており、日露戦が終わった時期にあたります。

こうして見ていくと、B地区周辺の方が江戸時代から石灯篭を建てたり、日露戦後に相次いで注連柱や鳥居を建て直すなどしています。石製のものは明治40年1月の戦役紀念碑をもって完成しています。

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逆にA地区を見ると、注連柱が明治40年3月に作られます。B地区に遅れること2ヶ月後に開始しています。戦役紀念碑はさらに数年後に建てられます。戦死者の数を比べても、集落規模が明らかに小さかったのでしょう。

しかしこれだけを見てA地区の方が後手だったということにはならないと思います。戦役紀念碑を見るとB地区のものと規模はほぼ同じなのに、戦死者の数は4名です。鳥居などを増やすことはできなかったけど、紀念碑だけでも良いものにしよう、という意識が読み取れます。

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時期が近いのは意識をしてる可能性が高く、そろそろウチの地区でもやろうや!となったように思えます。近代史は資料が多い分、人の顔が見えたり声が聞こえてくることがある。そこがとても面白い。

こうした歴史的オブジェクトの申請を限定された地域で探すことにより、それぞれのPOIが連動していることに気が付くことがあります。申請を愉しむ要素の一つだと思います。

以上です。

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