映画「キミの色」感想
・覗き見る、ということ
さて、「隣の芝生は青い」と言いますが、隣の人は何色に見えるでしょうか。なんとなく私は、そういう話だと受け取りました。
映画にて最初に映るカットが確か教会(うろ覚え)立地も教会、聖書の教え、祈りなどが出てくることもあり恐らくキリスト教でしょうか?(詳しくないので宗派は分かりませんが)
そして、キリスト教と言えば「隣人」が最初に浮かびます。調べてみたら自分のように隣人を愛せとのこと。
そう、この作品は単なる「親愛なる隣人」の作品…だけでは多分ないです。それよりももっと内側。自分の話です。
つまりはある種逆に「隣人のように自分を愛せ」って事です。矛盾はしないので話としては突飛じゃないと思います。
ではこの映画における自分とは?観客自身でもあると感じます。
まずタイトルの「君の色」が出る前の、周囲に窓のある道をトツ子が歩くカット、トツ子とキミが古書で会うカットなど印象的なカットにおいて窓の格子を覗くような画が多用されています。キミがトツ子の事を知ろうとした時も窓を覗くような演技をしている事からも、覗くという行為秘密を暴く事であり、同時に作品内の「好きと秘密を共有する」ように秘密に対する罪の共謀者となる事として描かれているのです。
覗くことは視覚的に優位性があり、一方的に映画内の世界を覗く観客と覗くようなカメラの動きは同じような関係にあります。
水面に映る自分を覗くように、鏡に映る自分を覗くように、窓を覗くように隣人へ問い掛けるキミやトツ子の言葉のベクトルは第四の壁を突破して、観客たちを第四の共謀者として窓の中へ招待するのです。
ではここから、自分を愛する、或いは隣人を愛するということはどういう事か?という話に移っていきます。
宗教というか、キリスト教というか教会には「罪」と「罰」そして、「許し」がつきものです。
この作品における隣人愛、それは「許し」となることと思います。
それは作中日吉子先生の台詞からもわかる通りで、受け入れることが、許しとなりますが「罪」とはなんでしょうか。難しい言葉に隠れているように見えますが本作は糸を解くようにそう言った罪をわかりやすく抽出していると感じました。
キミの罪は、学校を辞めた事。それを隠している事。
ルイの罪は、音楽を好きでその道に進みたい。そしてその事を隠していること。
そして、トツ子の罪は、他者と違う事、それを隠している事。
そしてこの罪は誰に課せられたものでも無く、彼らに彼ら自身が与えている枷、後ろめたいが故の罪でしょう。日吉子先生も罪であり罪でないみたいなこと言ってますし。
なのでこの映画における敵、とはこの「肯定し難い後ろめたさ」になると思います。
余談というかなんというかここで出したいのがアダムとイヴの話。あんま関係ないので話八分の一くらいで聞いてほしい。
作中、リンゴが出てきます。昼飯にりんごだけ!?って思いましたが、それはキミの恋慕を見た直後。アダムとイヴを想起せざるを得ません。と言っても二人の性がどうこうとかじゃ無く。個人的にはトツ子の存在が蛇だとして、善悪の知識の木からなるらしき禁断の果実によって、いつか相対する、でも出来ない後ろめたさを、罪として許せるもの、受け入れられるものに昇華したみたいな感覚でした。
まあこの場面、二人の色が混ざり合った事からして生めよ増やせよ的な一般的な愛に対しての、違う形の提示みたいな話が本文だと思います。
少し脱線しましたが
これら受け入れ難い後ろめたさを受け入れる物語ということで、"隣人"という存在がキーになると思います。
映画開始時において3人は別々の道を進んでいます。認識することもあまりない他人同士の関係です。
ここから、作中を通して「秘密と好きを共有」した隣人(罪の共謀者)としての関係を築いていく訳ですね。
秘密と好き。それは後ろめたさに直結するもので、ここから歌という罰で罪からの解放される。綺麗で美しい流れだと思います。
歌うことで、彼らは自分を許すことが出来たと同時に、歌詞に込めた好きと秘密を聴衆と共有する共謀者、つまり隣人になる事が出来たという話ですね。
歌は詳しくないですが「水金地火木土天アーメン」は良い。良い。心に残りますこれを思いついてウキウキ歌っている際、日吉子先生がそれを覗き聞きトツ子と言葉を交わします。このシーンでトツ子のキミへ見る色が他者へと伝わる、つまり好きと秘密を最初に共有してんのトツ子と日吉子先生なんですよ、やばない。日吉子先生のバンド名の話もそうなんですが。共有された歌という好きと秘密に対する昔バンドやってたという好きと秘密の共有。最後にも秘密を共有してんのもやばいです。
さてここからは、主要3人でなく他にも話を広げていきたいところなのですが。まずこの作品は敵という敵がおらず、その役を人物の後ろめたさ、話せないという見えない壁に被せています。
敵がおらず優しい世界、とも思いますが同時に孤独も感じます。
作品開始時において、主要3人は誰とも秘密を共有していない孤独な3人として描かれているのです。
現実においても明確な敵などそうそう居ませんし、敵を作れば味方が出来るという訳ではありません。そして多くの人は敵を作る事を望まないのです。
特にキミはわかりやすく誰かを傷つけたくないという事に注視していたように感じます。
それは、ドッジボールの際の慌てようやあまり自分から話さない態度から見て取れます。
自らの罪を話せば、傷つけるかもしれない。
傷つければ、敵を作る。
という意識のもとで自身の言葉を制限し、誰の窓も覗こうとはしません。
トツ子もまた、そうでしょう。人の色が見えるなんて他人には話しません。…そう考えると、最序盤のナレーションで私達とトツ子は好きと秘密を共有していたんだなぁとしみじみ。
最初はクールだから青いと想っていたんですが、空みたいに澄んだ色だったんですよね。
他人を知りたいと、その中を覗こうとする事。それは時に傷つける事に繋がりますが、覗く事自体は悪ではない。他人を知りその秘密、心のうちを共有することで隣人へと昇華していく。この作品はそれを一貫して描いています。
そして、主要人物の中で、明確に後ろめたさを持つ人物がもう一人います。
黄色の日吉子先生ですね。赤青緑は色の三原色、赤青黄色が光の三原色となりますが、映画終盤の演出からして、裏の主要人物的な存在であるので作品を語るなら欠かせません。
彼女はある種観客的な視点を持ち、トツ子とキミの抱えるものが傍からみれば下らないものだと知っています。それは、観客の多くが作中の問題に関してすぐに話せば解決する事と知っていてそう思いながら見ていたかもしれません。それをわかっているのは大人であり客観者であるからです。
序盤からあらゆる場面で生徒を覗く日吉子先生は客観的な視点であり、そうした観客の目でもあるのです。
中盤、彼女はトツ子の部屋のキミを覗き込み、一方的に手助けする共謀者として舞台に上がります。キミに許す為の罪を与え、許す為の舞台を与え…そこまでするのは彼女もまた隣人も無く、主題となる問題を受け入れることの出来ないままに大人になってしまった最後の主人公だからだと思います。
日吉子先生は、トツ子、キミへの隣人愛を通して遂に、かつての自分を許し受け入れ救う事が出来たわけです。
受け入れることを受け入れること。その難しさも描いた本作において彼女は作品自体を象徴するモチーフでもあるのです。
もし2回目を見るときは是非日吉子先生に注視しても見てみたいところですね
色々結論とかバラグチャになってはいますが、取り敢えず何回でも見てほしいし、音楽もサブスクあるみたいなので百万回聞いてほしい。
では最後に、特に意味なく引用を
エピローグを見て想起した作品に全く関係はない歌ではありますが、この作品を表すもの聖歌である、とも思います
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