意図しない法話

ー「僧侶である個の存在」として伝えるー

最近私の投稿コメントなどで「法話をありがとうございました」と言われることがあります。それまでもよく「勉強になりました」と言われることがありました。私としてはそんなつもりで書いているわけでないのでいつも狼狽してしまいますが、大変有り難く受け取っています。

私の投稿は、戒を授かっている僧侶ベースである禅やbosatsuマインドフルネス視点から書いています。しかしそれは「僧侶という職業として」書いているのではなく、「僧侶である個の存在として」書いています。内容は個人への眼差しや社会への想い・示唆を共有し、時に訴えたいことを、ただ情報をうのみにではなく、一度自らに問うてから表現するようにしています。

何かの記事シェアを投稿するにしても、できるだけシェアするものの内容を読み込み、自分の意見も書くよう心がけています。また、元々僧侶からの発信という意識がないので、僧侶として伝えたい場合は「僧侶の私としては」などとつけるようにしています。

最近法話だと言われるまで、私の投稿が法話だという意識はなかったのですが、受け取る方から見たらそうなのでしょうか。信条として投稿において「伝えたいことがきちんと伝わるように」とは考えますが「感動させるようなすごい話をしよう」とか「気を引くような話をしよう」と考えたことは一度もありません。

時々文章中に仏教知識が出ることもありますが、知識説明がメインと考えたことはありません。伝えたいことを説明するために、私のベースとなっている仏教・禅思想から引用させていただいていると認識しています。

一人の人間として伝えたい・訴えたい物事を伝えること。

今はSNSというツールにより、すぐにその機会を得ることができるので、想いが沸いたときにすぐに世間に発表できるのは大変有り難いことと認識しています。

でも、私は私の中で想いを吟味し問うてから発表しないと、中途半端な問いだったと後悔してしまいます。なので「私」がきちんと確立されていながら相手も匿名でなく「個」としてきちんと受け取っていただける可能性が高い。そして発表後も問いを深め修正することができ、コメントされた方と真摯なやりとりができるフェイスブックが性に合っているようです。

他のSNSであるツイッターも登録しており、何人かのフォローさせていただいていますが、頻繁に発信される方はすごいなと思い見ています。私がきっとツイッターで発信したらその内容に際し、発信後もしばらく「こんな伝え方でよかったのかな」と不安で過ごし続け生活崩壊してしまうのではないかと思います。

私の投稿を法話と思っていただいている方は、私を僧侶として見ていただいているのでしょうか。大変嬉しい限りです。私にとって僧侶とは、仏法の智慧をベースに生きる示唆を与えていただける崇高な存在。たたずまいから安心と幸せを与えてくれる存在。

例えば葬儀や法要を執行したり、仏教の学術的講義をすることは、僧侶の社会的な役割意義ではありますが、存在意義とは別軸であると考えています。

本来僧侶は安らぎと幸せ、生きる示唆を与えてくれる存在だと認識しています。だからこそ葬儀などというグリーフケアの重要な場面で必要とされる者なのではないのでしょうか。同様に法話とは、存在意義ベースより紡がれる、生き方に影響を与えられるほどの珠玉の言葉を伝えていただけるお話。決して学術講義ではないと認識しています。

私も資格的には僧侶の端くれで生業にしている者です。葬儀や法事、講義もいたします。それら社会的僧侶として必要とされる場面においてでも、存在意義からの僧侶であるという意識を高く持ち行っています。しかし生きる全てにおいて存在意義のある僧侶でありえているとはとうてい思えない凡夫だと認識しています。

私を僧侶と思っていただき、発した言葉を法話ととっていただけること大変有り難いです。これからも僧侶、そして法話という枠でなく、個人として伝え訴えたい想いをきちんと表現していきたいです。

いつも読んでいただきどうもありがとうございます。
ご縁のある全ての方へ感謝を込めて。

2020.3.31 藤井隆英 拝

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