リモートは万能か

現在、新型コロナウイルスの影響にて自由な外出がままならない中、
リモートワークや子供の動画授業などを推奨しているような風潮があります。
流行に逆敏感な私は
「あれ、皆そんなにリモートワークや動画コンテンツを進めたかったのでしたっけ?」と感じています。

確かに現代は動画コンテンツが流行です。
ユーチューブを筆頭に、学習動画、リアルタイムの対話型動画、Abemaなど既存のテレビ局のように独自番組を持つ動画など、有料・無料問わず様々な動画コンテンツがあります。
そこでは例えば一介の素人が急に全国区の有名人になり儲かる可能性もあるような、夢のある場のようにも見えます。
また旧来のDVD制作販売などでの動画コンテンツも現存しております。*zafuでも「安楽坐禅法」動画DVDを販売しております。

僧侶・寺院関係者でも、ユーチューブチャンネルを持つ方が増えています。仏法を広範囲で伝えるという観点に於いてそれ自体は素晴らしいことと思いますが、いくつか注意していただきたいなと感じることがあります。

実は私の進めている身心堂@zafu「禅セラピー」〔禅の本質をレクチャーとセルフケアワークで伝えているもの〕は、動画コンテンツと相性がよいようで、動画講座を構築して有料販売しませんか?という声掛けを様々なところからいただきます。それは2度3度ではありません。

毎回考慮はしてみるのですが、現在のところは進められておりません。それは損得的なメリットによるものでなく「動画コンテンツ」として宿命的な不足のものを補うだけのコンテンツが提供できないという判断からです。

講座系の動画は、レクチャーであってもワークであっても基本的には「プッシュ型(向こうから来る)」のコンテンツです。プッシュ型とは、勝手に届けられる情報のことをいいます。代表としてユーチューブやテレビ・そして様々な噂などがあげられます。また、グーグル検索や、映像や音声での双方向のものもプッシュ型に近いと認識しています。

プッシュ型に頼ることは物事を依存・うのみ・概念固定に向かうことになります。それは自分で考える力が弱くなるということ。ビルゲイツの子供はスマホを持たされず、または制限をされていたと言われています。それはプッシュ型の弊害を、プッシュ型を広める側自体がよく分かっているからだと思います。

プッシュ型によって自分に合ったと思われる情報がすぐに手に入るならば「楽でいいじゃん!」というかもしれませんが、その「楽」とは、物事と向き合う機会をなくし、自分に合わない情報を削いでいくことでもあります。それは多様性を認めづらくなることでもありますし、「本質的に楽しく生きる力」をどんどん削いでいくことでもあります。結果として削られた楽さは、狭い範囲で終始する「気づかない楽さ」となるのです。

「気づかない楽さ」のやっかいなところは、本人は依存しているので削がれていることに気づかず、依存による楽しみを本当の楽しさと捉えてしまうところです。そして同じ思想をしない人を排除する方向にいきかねません。

もう一つ情報を取り入れる方法として「プル型(自分で取りに行く)」というのがあります。これは新聞や雑誌・本など、特に文字情報によるコンテンツ。そしてなによりリアルな場に於ける講義や対話、そして触れ合いでの情報収集方法です。動画よりもはるかに情報量が適切に早く深く入り、依存でなく自分のペースにて「問う」ことができやすいコンテンツです。

ちなみに私自身は動画コンテンツをあまり見ません。ユーチューブも音楽やお笑いなど娯楽以外はほとんど見ません。特に講座系は見ません。それはプッシュ型の依存に耐えられないのと同時に、動画よりも文字情報の方がはるかに早いと感じるからです。

以前誰かの上げていた投稿に「しゃべっている動画とか全く見ない!自分はテキストを読む速度がかなり速い。説明動画だと入ってくる情報速度があまりに遅くてイライラしてしまう。モデムでネットやってる感覚になる」と書かれていたことに大変納得しました。

元々私は誰かのペースにて情報を入れられることが苦手です。その為か学生時代、授業中、先生のペースに合わせようとし力尽きて寝てばかりいる子でした。しかし寝ることで先生のペースを一旦腑に落としてから起きるとそのペースを体得し大変な集中力で授業に臨むことができました。

話をリモートワークや動画授業に戻します。
これを行う方、受ける場合は、基本プッシュ型のコンテンツであると認識している必要があるのではないかと考えています。いくら今話題のVRや3Dであってもヴァーチャルはやはりヴァーチャルです。私が今この世に存在している全ての状態、感覚を再現することはできません。絶対に抜け落ちる感覚・感情・伝える想い・思考があります。

私はだからといってプッシュ型の動画コンテンツやリモートワークを否定するのではありません。その場にいなくても目的に対しての知識や実践法、そして対話ができるならば大変有用な、この時代だからこそできる素晴らしく進化した伝える形式だと認識しています。しかしそれを妄信したり、だからすべてリモートで行えばよいというのはまた違う話だと思います。

リモートや動画コンテンツでの最大のデメリットは「必ず抜け落ちるものがある」ということ。相手を深く感じながら対話したり共鳴したりというのは、同じ空間だからこそ感受できうるものではないでしょうか。動画コンテンツに於いて、例えば知識や目的を達成するものならよいですが、生きるを深めるためには全ての感受を動員して委ねることが必要となります。

そして「抜け落ちたもの」として観られる動画は、見る側が自分の普段いる空間に護られた中で見ている限り、深くまで届かないので、一時の流行りになる可能性が高いものだと思います。

その意味で、抜け落ち劣化した、もしくは誇張されたものを動画として提供されても、その場の楽しみとはなりますが、生きる安心のベースにはなりえないと感じます。

特に「安らかに・幸せに生きる」ベースを築く役割を持った僧侶・寺院関係に於いて、動画などのプッシュ型コンテンツに依存・またはシフトして事を進めるならば、それは仏法の学びや寺院という場を、ひとつの「娯楽や学習コンテンツ」として提供することになりかねません。それは仏法の本質の学び方である聞思修の三学には程遠い形となるのではないでしょうか。

私は2015年のGWに、ティク・ナット・ハン僧院であるプラムヴィレッジの方々を日本招聘された際に、「マインドフルネス・アワー ~どこかで誰かとマインドフルネス~ ネットでつなぐ同時瞑想」というネット瞑想の催しを、当時あったユーストリームを使用し、リアル500名、ネット中継500名の1000名規模で行い、その構築リーダーをさせていただきました。

このように、きちんとリアルな対話の出来る場を持った中でのやりとりならばまだしも、現在のユーチューブなど不特定多数に向けて「僧侶個人や寺院を盛り上げるため」という名目でプッシュ型を多用するのには細心の注意が必要なのではないでしょうか。

「娯楽や学習コンテンツ」は、現在ユーチューバーを見てもわかるように、すぐに飽きられ次々と気を引くことを生み出さなくては維持できない世界のようです。果たして仏法を伝えるのはそれでよいのでしょうか。

寺院・僧侶の関係に限らずとも、現在の自粛の時流に沿い、リモートワークや動画コンテンツが、今まで以上に進んでいくと思われます。そこで放たれた情報は、本質的な情報とは違うということをきちんと受け止めたうえで、自らと社会を問いながら情報を取捨選択し実践に活かしていかなければいけないと考えています。

ただプッシュ的に受け入れるだけならば、私という存在が依存され操られる存在なっていってしまうのではないか。それは仏法的な「無我」とは真逆な、全体主義的に固定化した「我」を強めることにつながるのではという危惧を持っています。

他者と関わりを持ちながらも自らの感受を深く洞察し続けること。それが本質的に生き生きとした生き方ができる平和な世界になるための方法だと信じ、劣化させずこれからも伝え続けること。それが禅僧としての私の役割ではないかと認識しております。

長文お読みいただきどうもありがとうございました。
是非コメントをよろしくお願いします。

zafu代表
藤井隆英 拝
2020.3.3

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