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「ハーモニー」と伊藤計劃の意識性

僕の伊藤計劃とのはじめての出会いは、「虐殺器官」の文庫が書店で平積みされてたのを見た2010年だっただろうか…当初は「お、なんかえらい挑戦的なタイトルの作品が出てきたなぁ」というだけの第一印象でした。
その頃は国内SF作品の最新の情勢も知らず、「虐殺器官」を単なる海千山千のSFと勘違いしていた自分を殴りたい。そして伊藤計劃を「いとうけいかく」と読めなかった自分を慰めてあげたい(笑)

それはさておき「ハーモニー」です。著者のオリジナル長編第2作にして遺作となったこの作品、いま読み返してみると、様々な点で気づいた事がありました。今回はそのいくつかをまとめてみましたので、多少長くなりますがお付き合いください。(ネタバレ有りますので、気になる方はそっと画面を閉じて「ハーモニー」を初読してみてください。また、記述してある内容は、読了されている方向けのものになります。あらすじ等確認されたい方は、各人ネットなどで検索をお願い致します。)

1:2020年におけるハーモニーの位置

 現在(2020年5月時点)、特定の感染症が猛威を奮っている状況が続いているが、この「ハーモニー」という作品の世界観は、ある一点において現在の社会状況に非常に似通った点がある。文中でも書かれているが、「真綿で首を絞められるような優しさ」というのがそれだ。

 高度に発達した医療分子ナノケア「WatchMe」による社会構成員のスコアリングシステム、「新しい生活倫理」の浸透、そして健康的な生活に同調しない/できない者への過度な圧力…。それらの生活に馴染める者には力緩めで、馴染めない者には力強く、「一致団結」や「常識的な倫理感覚」という真綿の紐で首を絞める社会。

 そうした同調圧力で充満した世界をディストピアと呼ぶのなら、そこに近付きつつある現代の我々はもうディストピアに片足を踏み入れている様なものである。で、あるからこそ、そういったディストピアへのカウンターとしてのこの作品の存在感が、(発行された10年少し前にも増して)際立った物として我々の前に重いテーマを提示してくれているように思うのだ。

 ウイルスと闘う、あるいは共存の道を模索するという事は決して否定されるべきものではない。ただ、その周りの空気感に違和感を感じている人も少なくはないとは思う。この作品は、早くして病に斃れた伊藤計劃という存在が、そんなあなたに提示する反抗と相克の物語なのだ。

 では、早逝の作家「伊藤計劃」が追及したかったものは何だったのか。そしてそれを成すにあたってこの作品でぶち当たった壁について、「虐殺器官」と彼の短編「From the Nothing, With Love.」を加えて読み解く事で、僕なりの見解を述べていこうと思う。

2:身体と意識の二元論(とその相克)

 「虐殺器官」における「虐殺の文法」は身体性に依拠しており、書かれた状況下では彼はまだ身体の有用性を捨ててはいなかった。というか、世界の膠着的なシステムを打破するのは、身体とそれに従属する精神であるという心身二元論を模索していたように思える。

 ここでいう身体性とは、人間の意思伝達における重要なファクターである発話(音声器官の行使)、身振りや表情、ジェスチャー(肉体の行使)を含み、そして彼自らが設定した「虐殺の器官」という単語からも、虐殺を引き起こすトリガーと言えるのは身体のある一器官であると仮定すれば、「虐殺器官」の物語におけるカタルシスの発露は身体性が一つのトリガーだと言えよう。
 もう一つのトリガーは「虐殺の文法」における“情報”、つまり言語そのものや文法構造など、純粋にそれ自体がデータとしての役割を果たすものを指す。それが「意識以前の規定」としてジョン・ポールに理解されていたとすれば、意識のシステムエラーを利用した情報の精神への流し込みが、もう一つの虐殺のトリガーであったのだろう。

 しかし「ハーモニー」においてはそのバランスが決定的に崩れる。もはや身体性は世界を改変する素材として否定され、「意識」のみが世界を打破するためのトリガーとして成り立つと決定づけられている。
 両作の文体についても印象は全く違う。虐殺器官は身体性を前面に出したアクションエンターテインメント要素があり、ミリタリーやサイバーパンクと言った身体改変ネタ、人工筋肉などのガジェット、血の赤みや硝煙と肉の焦げる臭いが文章へのアクセントとして加えられていた。それがハーモニーでは色や臭みが脱色脱臭され、優しく薄い視覚嗅覚を印象付ける描写が多くを占めている。活劇的に肉体を駆使して場面が展開される事も無く、物語は登場人物の思索と会話で状況が進行していく。
 ハーモニーはその物語のオチがああいったものである限り、全体の雰囲気を静的なものにして行かざるを得なかったとは思うが、物語を進行するトリガーは「意識」という文脈において成り立っている。つまり、「ハーモニー」における心と身体の相克では、勝利を収めているのは心の方なのだ。
 世界を変える、ということがある種のテーマである作品の続編でありながら、いやむしろ続編であるが故に、この転調は何を意図しているのだろうか。
 僕はそれを、伊藤計劃という作家の特殊性による物だと考えている。

3:伊藤計劃が認識した「限界」

 まず、下記のリンクをさらっと眺めてみて頂きたい。

https://projectitoh.hatenadiary.org 

(伊藤計劃:第弍位相)

これは、作家伊藤計劃がその闘病中に書いた記録である。映画やアニメ、ゲームや著作の宣伝に加えて、後半になるにつれ、その壮絶な闘病生活の様子が綴られている頻度が高まっていく。

 ブログの内容は非常に多岐にわたり、伊藤の創作に対する姿勢や、映画批評から読み取れる自身の著作に織り込んだテーマ性だったりするわけだが、それにしても闘病生活の描写が辛い。

 自らの身体を徐々に蝕んでいく病気を常に意識せざるを得ず、病状の回復を信じては裏切られ、希望を持ちながらも自身を待ち受ける未来を半ば確信しているようなその描写は、肉体に対しての信頼というものが少しずつ削り取られて行くような日々を綴ったように思えはしないだろうか。

 伊藤計劃を語るにおいて、この病気という要素は無視し得ないものである。「死」というタイムリミットを世の人間より強く感じていた伊藤は、自分に残されていた時間を、信頼の置けない「身体」よりも、自分を自分たらしめている「意識」の方に軸足を置いて創作活動の方向性の舵を切っていったと見ることもできる。

 そこで転換点となるのが、短編「From the Nothing, With Love.」である。

 この短編は、映画「007シリーズ」へのオマージュともいえるべき作品で、ジェームス・ボンドという存在がその意味合いを超えて、普遍的な身体性を失っていく物語である。ジェームス・ボンドとしての経験、記憶、知識が累積ストックされたストレージから、一定の基準で選定された全く別の人間にそれらを「ダウンロード」する事で、ボンドという概念を不死化していく…という物語なのだが、ここで伊藤はボンドという身体の持つ意味を相対化し、「身体は無くてもジェームス・ボンドは不滅だ」という悲喜劇的結末を描いている。まるで、007シリーズにおいてボンド役の俳優がたびたび入れ替わるように。

 それを受けて、作品における重要な記述がある。「ー例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。」というものだ。

 これは生命がそれ自身を記述していくデータ群であると想定した言葉であり、生命のひとつの到達点を空想したものであろう。その完全性こそが、伊藤が求めても得られなかった持続する自我…言い換えれば身体を超克した精神…さらに直接的に言うならば「もっと長く生きること」だったとは言えないだろうか。

 この「From the Nothing, With Love.」で得られたテーマは、直接「ハーモニー」へと受け継がれる。伊藤が認識した「身体性には限界があり、それを超えて自我の存続をもたらすものは情報/精神なのではないか」という問いと、「それでもまだ、俺は肉体を持ってこの世界で生きていたい」という答えと共に。

4:ハーモニーが辿り着けなかった地点

 ハーモニーにおけるラストの社会の完成形は、「すべての選択が自明のものとなり、理想が現実のものとなり、善と良識と正解『のみ』を選択するだけになった社会」である。ロジックは完璧であり、人間同士の関係は最良なものしかあり得ず、争いや迷いは消滅する。

 伊藤計劃はこの社会について問われた時、こう答えている。

伊藤「ハッピーエンドかそうでないかっていう点においては、やっぱり曖昧なところに身を置きたいと常に思ってて(笑)。『ハーモニー』に関しては、ある種のハッピーエンドではあると思うんですけど、はたして本当にそれでよかったのか、っていう思いもあります。その他に言葉が見つからなかったのか。さっきの言葉で言うと、『その先の言葉』を探していたんですけど、やはり今回は見つかりませんでした、っていうある種の敗北宣言みたいなものでもあるわけで。そういう視点からするとハッピーエンドではないですよね。現時点ではこういう結論にならざるを得ませんでしたっていうことで、途中経過報告みたいなもんです。とりあえず問い続けていなければ話は進まないので。」(ハヤカワ文庫JA「ハーモニー」伊藤計劃インタビューより)

 「人間が完成するとそこに自由意思はあるのか」というSF作品において度々取り上げられてきた課題に向き合った時、自身の肉体への悲観と、それに抗うべくロジックを突き詰めていった結果一時的に到達した特異点、僕はそれがこの「ハーモニー」が完成させた世界であると思う。だが、伊藤はその先をまだ見据えてはいた。そこに到達できないであろう自分の未来も含めて。

 現在の我々はその先を知る術はもう無いわけだが、それでも手がかり、というか、「その先のビジョン」に触れるか触れられないか、というものはある。僕が、その答えであると感じているものが、「ハーモニー」の最終章、<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>だ。

5:「1984年」の後の「調和」<harmony/>

 この<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>は、感情、自我、自意識が消失したあとの世界で起こった事についてと、この「ハーモニー」という物語構造についての秘密が明かされる章である。物語世界では、WatchMeをインストールした社会構成員すべての自我が消失し、理想のハーモナイズされた幸福な社会が実現したが、本章はその顛末が「語られて」いる。

そう。「語られている」のだ。誰かに。

 全く別のディストピア文学になるが、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」の本編が完結した後、「附録」として「ニュースピークの諸原理」という解説が、物語世界内の言説という形を取って記されている。これは巻末解説でトマス・ピンチョンが指摘している通り、完成したかに見えるディストピアの内部で客観的に事を見つめる誰かの視線が存在していたことであり、それが微かな希望の光でもあったことを表している。

 同じ構造で、このハーモニーの最終章、<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>を見ることは可能では無いだろうか。感情や自我を失った世界の中で微かに生き残り続ける客観的な視点。締まった真綿が頸椎をへし折り、魂が「みんな幸福」という名の天国/地獄へと召される中でそれに抗う肉体。そういった書物、いまこうして生起しつつあるテクストを残す事で生き残っていくこと。僕は、それこそが、伊藤計劃という肉体を失った自我が最後に残したひとつぶの種であるような気がしてならない。

 最後に、伊藤計劃という強烈なパーソナリティは、その作品に否応無くある種のフィルターをかけてしまう。彼の生き様、遺したことば、後の世代の評価や批判、そういったものがごた混ぜになって彼の作品に新たな層を重ねている様子を見ると、それもまた「いまこうして生起しつつあるテクスト」なのだと思う。そして多分それは、他の偉大な作家にも言える事であろう。

 彼の望みは、ある部分で叶えられた。伊藤計劃は、その作品を読む人すべての意識の中で「調和(harmony)せずに」、生き残っている。

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