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『キャプテン・マーベル』、それはニック・フューリーのおよそ8割

『インフィニティ・ウォー』まで観てきた身からすると、流石にこれを観ないわけにはいかないという使命感と、今度こそ流石にあんまり面白くなかったらどうしようという出所不明の不安感を胸にして、『キャプテン・マーベル』を観てきた。日頃映画の公開日なんてチェックしないから、公開から何日経ったのかなんてわからないけど、なんとなく遅いんじゃないかな、って気はする。

映画の出来について長々と語るつもりはない。なんというか、世間における女性像のイメージについてとか、他にもいろいろな要素があって、一方的な価値観を押し付けてはいけない映画、って感じがするし。みんながみんな、自分の目で見て、自分の口で感想を言えばいいと思う。僕が批評向いてないだけかも。とにかく、だから今回はニック・フューリーの話をする。

フューリーはMCU屈指の謎多きキャラクターだ。だいたいSHIELDの長官で、眼帯をしている。いつも落ち着いていて、独特のカリスマがある。それにアベンジャーズを創設した人物だ。

正直、『キャプテン・マーベル』を観るまで、僕はフューリーのことを掴みどころのないキャラクターだし、それが彼のキャラクターなんだと思っていた。彼はアベンジャーズの創設をしたりとか、設計する人がcmとmを間違えたんじゃないのかというレベルでデカい空母(しかも浮く)をソコヴィアに持ってきたりとか、『ウィンター・ソルジャー』だと死んだふりをしてみたりとか、劇中だとやたら派手なことをする印象がある。そのはずなのに、彼には掴みどころがない。常にポケットに手を突っ込んで、自らの進む方向を黙って見ている印象があった。

堂々としているが、一方で掴みどころがない。「彼は何の為に戦っているんだろう?」「彼は何を信じているんだろう?」という疑問の答えも、彼の表情からは読み取れない。僕が彼に感じていた不気味さは多分これだったんだと思う。ジョークも飛ばすし、お茶目なところもあるのに、彼という人物の根幹が全く見えてこない。

一方、1980年代(たしか)を舞台にした 『キャプテン・マーベル』のフューリーは若い。まだSHIELDの下っ端として使いっ走りをさせられているレベルだ。コールソンという(やたら宇宙関連のトラブルが多い)有望な部下は付いたけど、まだ老年の彼の面影はない。

『キャプテン・マーベル』という映画はキャロル7割タロス2割猫1割みたいな映画で、フューリーは正直言って目立った活躍とかはしない。それでも、まっすぐすぎるキャロルに必死に食らい付いていくうちに、キャロルからは信頼できる地球人として、フューリーからは眩しすぎるくらいの半分地球人として、お互いのうちに絆を芽生えさせる。

そして最後にキャロルは、フューリーに改造したポケベルを渡す。「困った時は呼んでほしい」「けど、あんまり頻繁には呼ばないでほしい」と言い残して、彼女は宇宙へと飛び立っていく。

このシーンを見た時、なんとなくフューリーというキャラクターがわかったような気がした。彼の心の中には、きっとまだキャロル・ダンバースが居るのだ。破茶滅茶に強大で、最高に頼り甲斐がある、まっすぐな『キャプテン・マーベル』が。

キャロルがいなくなった後、フューリーはすぐアベンジャーズ計画を始める。それはキャロルがもう地球にいないから作られたものであって、彼女に頼らなくても地球を守りたい、という彼の意思を形にしたものなのかもしれない。

もしかして、フューリーが必死に戦っていたのは、キャロルに安心して旅を続けて欲しかったからかもしれない。助けを求めないことが、自分たちが元気でやっていることの証明になると考えていたのかもしれない。そう考えると、これまでの彼が突然愛おしくなってくる。ようやくアベンジャーズを結成して、NYで宇宙人と戦う彼らを見ていた時。彼はアベンジャーズを信じなきゃいけないと思いながらも、コートの右か左のポケットの中では、つい、あのポケベルをぎゅっと握りしめていたのかもしれない。涼しい顔をしながら、汗塗れの大きな手で。

『インフィニティ・ウォー』の最後、彼はポケベルを起動させる。「誰も信じるな」と言い続けた男が、唯一信じられる友を呼ぶために。崩れる自分の身体を見て「クソったれ」と吐き捨てる。帰ってきた彼女に「おかえり」も「久しぶり」も言えない、自分の運命に。

『エンドゲーム』で、もしふたりが再開するなら、フューリーは笑ってくれるだろうか。彼が始めてヒーローに会った、あの日みたいな顔で。

(三楼丸)

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