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[小説] 『鱗』〜ウロコ27話〜28話。奇蹟の一枚の運命。


         27話


 啓介は休む事無く店に立ち続け、判りやすく5時から5時を徹底し、西麻布からの客や飛び込みやらで、連日連夜大盛況となていた。

 立ち呑みと言う昔のスタイル、1960年代にはそんな店が沢山あったと聞く。時代は変われど、見事に功を奏したのである。

 信用金庫での遣り取りも滞おりなく済み、114・3×147、実物は想像を遥かに超える物、ラメッシュの邸宅の匂いそのものとして、皆、常軌を逸していたと思う、恐らく信用金庫の3人は一生観る事が無いだろう。アグネスにしても、そう右から左と言う訳にも行かない。

 やはり国を跨(またぐ)と随分と時間が掛かかってしまうので、3日前から3回に分けて送金をした。香港上海銀行の尖沙咀支店に、着金を確認したアグネスは、額に入れられた鑑定書をジュラルミンケースから出すと、売買成立の契約書にサインと共に『Congratulation』と、いつも感じていた張りのある声質がやや細くなった様に聞こえ、それでも嬉しそうな声が、信用金庫の部屋中に響いていた。

 キャンバス全体に描かれた濃黄色の世界は、命を吹き込んで間も無い新作。やがて時間ときの流れに委ねられ、描かれた風景は明媚(めいび)なまでに重なり合うと、自らのエネルギーで観るもの全ての魂いを揺さぶる。

 その翻弄不羈(ほんろうふき)なる躍動の極みとなる、そこは国境であるとか人種や性別など、一切関係も無いのかも知れない。啓介は倉沢と連れ立って静まり返った貸金庫に行くと、爾今(じこん)を委ねた一枚は地中深く埋設されるかの様に、無窮の眠りに着いた。

 啓介の立ち飲み屋『K`s』は一つを除けば、至って順調に進んでいた。それは翌1991年に、貸金庫から奇跡の一枚を出す事に始まる。


 世間の風潮としては、オフィスビルや高層マンションの建設ラッシュを予感し、而も外資系企業の日本進出も数多く、そんな世の中を象徴する様に、外国人の姿が増えエリアを拡大していた。

 恵比寿や中目黒近辺も、その恩恵とも言うべきなのか多種多様な、異国の顔が見受けられる街へと変化していた。

 そんな中、立ち飲み屋『K`s』にも、多くの外国人で店にとっては、裨益(ひえき)も齎らしていた、特にフランス大使館の職員達が、啓介のワインのチョイスが好きで、頻繁に来てはグラスを傾け、夜な夜な盛り上げてくれていた。

 大使館同士、横の繋がりとでも言うのか、スペイン大使館の面々も電車で3駅と近いので、それなりの頻度で顔を出していた。

 その中に女性職員が一人、名はエレナと言う。ほんの少し、啓介に対して好意的であり、その縷縷(るる)なる眼差しが絶えず注がれていた事は、啓介も満更では無いと、それなりに感じていた。

 エレナ自身スペインの美術大学を出ていた関係で、驚くほどの知識を集積していたし、自身もちょいちょい画えを描いたりと、まずまず才能豊かな女性だ。

 ある夜、その作品について話が弾むと、是非一度観させて欲しいと成り、自慢したつもりは毛頭無かったし、ワインの仕業とでも言うべきなのか、自然の流れの中で了承していたのだろうと思う。

 啓介自身も1年以上貸金庫を開けて無いので、気になっていたのも確かだった。エレナはカタルーニャの生まれの27歳、啓介と同じ年なのだが、情熱の国特有の激しさよりは、幽邃(ゆうすい)を翻(ひるが)えしたカタルーニャの女とでも言うのか、そこに一度ひとたび酒が体内に侵入した瞬間、完璧に女に昇華(しょうか)する、そこだけは蠱惑的(こわくてき)なのかも知れず、啓介もお互い様かなと睨んでいた。

 その日は一日中霖雨(りんう)の様な雨に祟たたられ、客足も途絶え途絶えの中、時計の針も12時を過ぎてこの時とばかり、文句も言わず働いてくれる、12種類ある全てのグラスを綺麗に丹念に磨いていた。

 ほぼ毎晩繰り広げるお約束の一つに、タクシー問題があった。まず以って捕まらないし居ないしで、あの手この手と呑助達は考え、2、3台のタクシーを、仲間数人で半ば契約車両の様に迎車をしていた。

 特に週末などはその2、3台すらままならず、始発近くまで店を開けていたのも、お客にとっても啓介にしても何よりだった。

 そんな中、一人、常連っぽいお客がいて、中目黒に住んでいるらしく、年齢は啓介と同じ歳で、橘と言う。仕事は、為替や株をコンピューターで売買している。しかも、相当の金額を動かしている。

 その日、橘は、嬉しそうな顔で入ってきた。

 「イヤー、今日は最高益だったんでね、良かったら飲んでよ!」

「最高益って、聞いても良いですか?」

「イヤー、言えないよ!」

「マジ?」

「そう、マジ!」

「でも、大体で良いから・・・・」

「んー、10かな10」

「聞かなかった事にします。」

「そうだね!、だから飲んでよ!クリュッグ行っちゃってよ!ね!」

「3本ありますよ!」

「全部貰います!」

 これは、二人の秘密にしておこうと、その日は雨のせいか、珍しく客もまばらで、その秘密をネタにして3本空け、背中でも笑顔を感じられる、橘を送った。

 時計も2時を過ぎた辺りで、 そんな時に1台のタクシーが、水飛沫(みずしぶき)を上げて勢い良く止まると、そこには清々(すがすが)しい薄手の浅緑色のコートを頭から被ったエレナの顔が見える。

 痩躯(そうくな)エレナはまるでヒラヒラと舞う薄羽蜉蝣(うすばかげろう)の生まれ変わりの様に翅(はね)を拡げた。

 一瞬と言えども、濡れた顔がこれまたチャーミングで、えも言われぬ香りが3坪の空間に到来し、聞くと、友達の誕生日パーティーの帰りで、飲み足らないので寄ったのだと言う。

 啓介は、橘のクリュッグで、結構酔っていたが、聞かれても無いのに、CAVAを空けていた。

『グラナモ』は訳の分からないシャンパンよりズバ抜けて旨く、啓介はエレナの為に酔も手伝って、派手に抜栓ばっせんして見せた。

 啓介はシャンパングラスを二つ並べると、ゆっくりと狭い空間の中心に注ぎ入れ、エレナは徐々に満たされ行くグラスを、固唾を飲んで見つめていた。

 そこはカタルーニャにあるバルとでも言うのか、エレナと二人、深更(しんこう)に降り続く花散らしの雨、罪深き作為とでも言うのだろうか。

『ヤバい完全にヤバい』

 エレナの静と動が見事なまでに開花した様にも見え、そこには200年前に交わした約束を守る為に、今まさにこの地に舞い降りたのだと言っている様にも見えた。

 僅か3坪の空間は、世界中の名だたる場所を以ってしても、遠く及ばないだろう。

 一人で決めた奇蹟の一枚。

 カタルーニャが繋いだ縁をエレナに感じていたと思う、休みの前日、土曜日は、必ずと行って良い程エレナの部屋で過ごしてもいたし、先の事など後回しで一日一日を懸命に生きていた。

 ある日、作品の鑑定話になり、エレナは事前に作品集も何冊も集めていて、啓介にしては、1年以上その姿を観ていない。

 二人で貸金庫に入ると、薄暗い室内に閃耀(せんよう)が差し込み、エレナもその奇蹟の一枚を観るなり、何度も、『Incredibleインクディブル』と言って茫然自失(ぼうぜんじしつ)していたのが印象的で、本物の鑑定書の1部大使館から持参していたのだ。

 念には念を入れ『NY』と『LONDON』にある知り合いのギャラリーからも借り受けていて、エレナの至誠な態度に、啓介はただただ頭が下がる思いで一杯だった。

 ルーペ越しのエレナの表情が、やおら温和になるのがはっきり見て取れた。文字の配置であったり、大きさや封蝋の場所、どれを取っても申し分無い。

 全く以って同一の物だと、エレナは力強い口調で述べ、啓介は安心したのか、貸金庫にある小さな椅子に、鑑定書のサンプルを手に腰掛けた瞬間、エレナの碧眼(へきがん)が疑ぐりを許し得ない刑事の様に、そんな険しい表情に一変した。

 事実、良く見ると作品に描かれているサインの位置が僅かに違っているのだ。

『下から約9ミリ、横から約15ミリ。』


『どうなんだろう?』


『ミリ単位の世界なのか……。』


 エレナ自身も、心痛なる叫びの元、真剣に話しているのだ、只々事実ズレているのだ。

 全身の毛孔(けあな)と言う毛孔から、須臾(しゅゆ)に迸しる汗、如何なる場合があろうとも許される事では無い真実。

 啓介の手は怯弱(きょうじゃく)にも震え出すと、何故だか一番に父親の顔が浮かぶも、萎縮震慄(いしゅくしんりつ)に抱いだかれた体は、竦(すくみ)上がったまま微動だにもしなかった。

 言葉が見つからなかった。何処にも何も。目の前が真っ暗にになり完全に言葉を失うと、啓介は思わずエレナを強く強く抱きしめるしか、術が無く悔恨(かいこん)の念が込み上げるとも、冷静に対処しようとしていた。

 エレナ自身失われた事実に、啓介の体を激しくも強く強く受け止めていた。

 カメラとポラで恐らく100枚は撮ったと思う、特にサインの箇所付近を念入りに収めると、二人は貸し金庫を後にした。エレナが毅然とした態度で啓介を励ましていた。

「ケイスケ、オフィシャルナ カンテイヲシタホウガ イイヨ」

「そうだね、ちゃんと調べるよ、大使館の関係で誰かいる?」

「キイテミルヨ、ゼッタイダレカイルカラ」

「頼むよ、真面目な話、多少お金が掛かっても構わないから」

 巨大なハンマーで後頭部を殴られたことは無いので、本当の所理解が出来ないだろうと思う。若もしかすると、それ以上の衝撃が全身を穿通(せんつう)していたのかも知れないし、今ジタバタした所で、どうする事も出来ないのは判っていたが、人生始まって以来の一大事に狼狽(うろたえ)を隠せずにいた。

 エレナが頼みの綱、砂で出来た体が風で吹き飛ばされ、一瞬で跡形もなく消え去り伽藍堂(がらんどう)になった心と体は黙考(もっこう)の末、果たして冷静な判断が出来るのだろうか。

 10日程してエレナから電話があり『ケイスケ、モシカシタラ、ウマクイクカモヨ』

 それはエレナの美術大学の同級生から連絡で、父親がスペイン美術館の財団、芸術家会員の一人と友達と言う事が判明した。しかも鑑定士の資格を持っているらしく、驚いた事にエレナの上司もその人物と、とっても親しいと言う不思議な線が浮上した。 

 更に作者の話を聞いた時に、鑑定は無償で行うとも言ってくれた。エレナの電話で一も二も無くお願いする事になり、極端な話エレナが啓介の運命の扉を開ける鍵を持っていたのかも知れない。

 中々行けない溜池の、先祖の墓にも足を運んだ。苔や雑草を毟(むし)ったり、墓石を丁寧に拭いたりとピカピカにした。嘸(さぞか)し先祖も我が家の箕箒(きそう)に喜んでいたと思う。


 しかし大きな問題は一つ残されていた。啓介の絵は海を渡り、何いずれにしろ誰かがスペインまで持って行かなければならない。はたまた、国際郵便で送らなければならないと言う現実問題が大きな壁になっていた。

 すると驚いた事に大使館の職員の一人が、近々出張でスペインに行くと言うのである。

『もう、こうなったらエレナに総てを任せるしかないな』

 ほぼ命と引き換えに購入した、一枚の絵

 曲がりなりにも1億5000万円。

 無茶を承知で買ったのだ。振り返ればあの時、流れの中大海原を知り力強く漕ぎ出した事の方が、遥かに価値が高いと思っていたのだ。『そうあの時は……』生きる肥やしにしては無謀な現実と金額。

 今更遅い、船はすっかり港を出港していたのだ。25年ローンでは足りない、28年の重みは計り知れないだろう。

『其れでも何でも開店してから700万以上は、返済出来たじゃ無いかと、塵も積もればだよな!』

 自分自身このたった1年でも誇らしげに振り返り、少しでも褒めてやりたかったのだ。

『そうだぞ!頑張ったぞ!、啓介!』

 やれば出来るのだ、啓介は、総て良い方へと、考えをシフトしていた。

 『奇蹟の一枚と鑑定書』、その番(つがい)とも言える二つは、遠くマドリードの地に降り立つと、早速、芸術家会員の元へ運ばれ、様々な角度から鑑定が施ほどこされると、作品の材質などは特に、電子顕微鏡で繊維の奥深く、ミリから遠く離れる事ナノメートルの世界まで染み込み、眉唾物(まゆつばもの)か命を削って描かれた真筆としての披瀝(ひれき)なのか、その姿を決定的な真実として、揺ぎない物にしなければならなかった。

 スペインの血がそうさせるのか、威厳や誇りまでもが鑑定の精度を更に推し上げるのか、啓介の運命を乗せたイベリア航空の翼は、遂に真実と言う厳正な判断を乗せて、舞い戻って来るのを待つしかなかった。


        28話


 日々忙しい中、エレナとの関係も、誰もが羨むまでに進んでいたのも事実だった。

 エレナ自身も啓介に対して其れなりの覚悟で接していた。エレナの作る手料理を啓介が選んだワインと一緒に楽しむ時間は、二人にとって畢生ひっせいの時を告げるようでもあった。

 そして思った程時間は要せず、約3週間の鑑定と共に、スペインに旅立った番いは取り敢えず、無事啓介の元へ帰って来た。

 遂に、残酷にも真筆か贋作かの答えが、明らかにされる日を迎えたのだ。


『ズバリ啓介の奇跡の一枚は『Fakeフェイク』と言う、過酷な結論に至った』

 鑑定書も同じく贋造(がんぞう)と判り、絶望の淵でうごめく最期の足掻(あがき)にも似て、作品其の物は鑑定結果を見る限り、紙の繊維成分の違いを強く唱となえるものの、電子顕微鏡だから見抜けた事実が箍(たが)が外れた様にボロボロと壊れ落ちたと言う。

 而も同一と言っても過言では無いと注釈がついていた程で、しかし電子顕微鏡は著るしく奥深く浸透して、虚偽を見抜いたのだ。

 エレナが言っていた通り、作品のサインもミリ単位と言えども、裏付けとして表舞台に引きずり出す結果となった。

 鑑定書に至っては、言い方にも依るが、同一と判断出来る程の精度で、こちらは封蝋の蝋が微妙に成分不一致と記し、鑑定書のインクも僅かに秩序を湾曲させていた。

 以上を以って権威ある『スペイン美術館の財団芸術家会員』からの見解と判断が、公式文書として同封されていたのだ。

『啓介は我が身を恨んだ』

 今、目の前にした現実は、余りにも酷い結果として認識せざるを得ないし、無知が生んだ最悪の結末なのだ。

『マジか———、どうしよう———』

『父親だけには言っておかなくちゃ』

『信用金庫には、どうするか……』

 実際、担保価値を失った事が決定的になった今、どう釈明をすれば良いのか、真っ白になった頭を抱えていると、父親から、大至急折り返しがあり、アグネス・ウォンを訴えるべく、準備をしようと言うのだ。

 そうだろう当然の流れである。一部始終は齋藤さんの耳にも入り、赤坂見附の事務所を訪ねると、齋藤さんなりに色々と事前に調べてくれていた。

 そして一つの真実が語られる事を目まの当たりにしていた。

 「啓介君、久しぶりだね」

「はい、ご無沙汰しております」

「大変なことになったね……」

 ベージュのソファーは銀面のゾクっとする様な輸入家具だろうか、とても上等な質感が啓介の体を包み込んだ。

「本当にヤバいです……1億5千万なんです」

「うん、そうだね、判っているから」

「実はね、かなり大変だったけど、君の事を想うとね、でね、調べたよ」

「はい、お願い・します」

 齋藤さんの一念は図らずも、見るからに仕立ての良さそうなスーツの上着を脱ぎながら、事実のみを淡々と話し始めた、そこには思いも依らない事実が展開していた。

 今現在、アグネス・ウォンはもう既に、この世から消えていると言う事らしい。齋藤さんが調べた所に依ると、香港警察からも指名手配されていたのだ。


 贋作とは別に掛けられた容疑は『人身売買と臓器売買』だった。

 アグネスは語学が堪能な上に、医者を志した時期があり、アメリカやヨーロッパに窓口があった。未だ未だ貧しい本土には子供の数が減る事は無く、平然と我が子を売る親がそこら中にいた。アグネスは直感した。

『在庫は永遠にある』

 何とも凄惨な事実が明るみになったのだ。

『人身売買と臓器売買』に梶浦は関わっていなかったらしく、アグネスの単独犯だったと言っていた。しかし齋藤さんは神妙な顔で続けると、当のアグネスも乳癌を患っていた先の犯罪だったと明かした。

 ある時期に度々日本に来ては治療を行い、少しでも進行を抑えようと頑張っていたらしい。

 消え逝く運命(さだめ)と窺知(きち)したアグネスは『人身売買と臓器売買』に深く傾倒したのだ。

 齋藤さんは更に続けた。実はアグネスは、あるきっかけから梶浦の贋作ビジネスには反旗の姿勢を取っていたと言うのだ、それは微妙(いみじく)も『啓介君、君の絵だよ君の』

「えっ?どう言う事何ですか」

「お客はお金持ちが多いんだよ」

「でもね!君は借金して買っただろ、アグネスが『借金』の事を知ってから梶浦と袂たもとを分ける様になったんだよ」

「そんな事があったんですか……、だったら何で3000万を受け受け取ったんですか?おかしいですよ、それは」

『実はね、ホント俺も唖然としたんだ』

 話は終わってはいなかった。

 アグネスの両親は事業に失敗して、多額の借金で苦しんでいた。子供の将来を考えると二人分の命で清算をして助かるのであれば、終わせると言う単純な答えしか導き出せなかったと言う。

 アグネスが生まれて間も無く首を吊ったのだ。

 8歳になるまで施設の孤児として育つと、ヘンリー・ウォンの家族に引き取られ兄弟同然の暮らしが始まると、施設の方が豊かだった事に気付いても遅く、生活は更に厳しく貧困に苦しむ家に、アグネスの居場所は何処にも無かった。

 食事も満足に食べる事が出来ない日々に、一切の因循(いんじゅん)も邪推(じゃすい)すらも無かった。

 1日1回の白飯だけの食事に泪の塩気で詰め込んだり、石のパンを涎(よだれ)で浸ひたして食べた。

 体の内部で完全にもう一人の自分が産声を上げると、子供ながらに『貪欲の牙きばを研いだ』


 ヘンリーと誓った『絶対に熨(の)す』と。


 それから知識と言う未来を知ると、国の援助で猛勉強をし、結果最高峰の学位を武器にお金だけを信じた仕事にのめり込んだ。


 しかし貧しさの記憶は豊かな暮らしに違和感を覚え、闇の匂いを嗅ぐと不思議と心が落ち着いたと言う。

 ある日の夕方テレビでは交通事故の現場を映していた、横断歩道を歩いていた小学生5人を轢いてしまった事故。

一点の曇りも無い無邪気な天使を、脇見運転と言う魯鈍(ろどん)な理由で3人が死亡、2人は重体で病院に搬送されていた。そしてアナウンサーの声と画面にはそのハンドルを握っていた名前を映し出していた。

 アグネスは我を失い愕然とした、それはアグネスの生の根幹を築いた施設、育ての父親の名前がはっきりと聴こえていたのだ。

 急いで油麻地にある警察署に向かうと取り調べに時間が掛かって接見出来ずに、48時間後に父親の涙を拭き宿命に従った。

 30年以上、自らの生活をかなぐり捨てて迄も数多くの子供を助け、未来を切り開いて来たと言うのに、現実を聞かされたアグネスは『父親の運命さだめを背負う覚悟を決めた』

 それからはお金持ち相手の贋作贋造を生業として、香港にある『痛みを感じないお金』の総てを5人に充てた。

 運命さだめと信じたアグネスは、自らの幼少期の記憶『貧しさ』を救う手立てとして、『人身売買と臓器売買』の事を神様に問いたのだろう。

 それは本土で平気な顔で我が子を売る『人間のクズ』に、仮にその汚けがれの無い心と身体がズタズタに引き裂かれ、道端で犬死するかのような境涯(きょうがい)を辿るのであれば、早く『クズ』の巣窟から出さねばと考えたのだ。

 醇乎(じゅんこ)な生はやがて必要とされる生の為に、生まれ変わる事が出来ると信じ行動に移し、幾ら問いても神様からの返事は無く、運命めに沿ったと言う。


 その後事故のニュースは意外な展開を示す形となり、施設の事を知った一人の女子大学生の呼び掛けで寄付が集まり始めたのだ。香港の小学校や中学校でも募金活動が始まり、施設はその後持ち直して、再び子供の生を預かる事となった。その事でアグネスは心の底から喜んだ。

 自らの命を捧げてまでも助けようとした命、ただその陰でうごめく別の生業業者は紛れも無い邪神だった。

「結局ねー、アグネスは相当稼いだと思うよ、でもね総ての金を5人の補償と施設の子供に使ったんだよ」

「えー、そうだったんですかー、じゃーそのお金も其処そこへ行ったんだ……」

「そうだろうな、きっと」

「……、————、じゃー子供達はちょっとは美味しいご飯を、食べれたんですね!」


 齋藤さんは又口を開いた。

 啓介が香港を訪ねた際、即ちラメッシュの自宅にあった絵は100%本物だったと言う事だ。

 しかし啓介の手元に届いた時には贋作とすり替えられていたのだ。

『犯人はね、梶浦なんだよ。』


        29話〜最終話へつづく



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