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死の儀礼

皆様こんばんは。若い頃は加勢大周に似てると言われ、最近は泥に似てると言われるナイスガイでお馴染みシンスです。
さて。
メンバーシッププラン魔道の学徒にて訓練中の学徒から、毎日様々な訓練報告が届きます。
訓練課題によっては毎日毎日足踏みみたいに感じる事もあるでしょうに、本当に真摯に魔術と向き合う彼らの姿勢に尊敬の念が絶えません。
また『いいから寿司を食え!』という私の訳のわからない返しにも『ありがとうございます!』と返す学徒の皆さんには、同情の念も絶えません。
こんなんでごめんなさい(・ωく)✨

そんな学徒から素敵な報告、気付きが生まれました。

『深い瞑想状態って、何だか仮死状態みたい』

先生、応えます。流石に応えます。
いいから寿司を食えとは言えません。

というわけでタイトル回収始めます。

魔術ギルドや結社には、必ずと言って良い程、『死の儀礼』が存在します。
その目的は『生きる/死ぬ』という現象についての啓蒙にあると考えてもらって大丈夫です。
これには二つの視点があります。
一つ。
漠然と生きる、漠然と死ぬ。
そのような生き方で本当に良いのか?
生きるとは何か、それを知る事は難しい。
何故なら既に生きているから。
私とは何かを知る事は難しい。
何故なら既に私であるから。

では死はどうか。
我々は死を見つめる事は出来る。
それは過去に今に未来に『確実に存在』しているリアルである。
しかし、やはり我々は死を知る事は難しい。
何故なら『生の外』に死はあると勘違いしているから。
それは別の世界の話であり今の話ではないと、天国や地獄を夢想するだけであるから。
だが魔術師はそうは考えない。
死とは生と共に、自身の中に存在する。
ならば死を見つめよ。
されば生がわかる。

という理屈。

二つめ。

死とは無である。
それを脳に刻め。
されば前世がどうの来世がどうのと、現実逃避の道具に宗教を利用する事はなくなる。
二度とないこの人生を愛し、隣人を愛し、神を愛す。
その為には死を理解しなければならない。
『私=生と死』という方程式があると仮定したならば答えは目の前だ。
私-死=生。
それが生だ。命だ。人生だ。
真に命を体感せよ。

真に死を体感せよ。

この二つの視点で死の儀礼は啓蒙として利用されます。

ではその仕組みはどうか。

様々な技法がありますが、多くは原始の記憶、つまり小脳や遺伝子情報にアクセスするか、明晰夢中に行う思考実験等が効果があります。
その中で比較的簡単なモノが、蛇を使った儀礼になります。

ここで良く誤解されがちな事を一点。
死の儀礼は『蛇に擬態する儀礼』または『蛇の意識と一体となる儀礼』ではありません。
何故なら、我々人類の先祖は蛇ではないからです。遺伝子に刻まれた恐怖の根源に蛇が関わっているのは確かでしょう。
だからこそ、恐怖を喚起する場合の多くで蛇という概念が使われてきました。
蛇は死や恐怖の象徴である、これは間違いありません。
しかし『死の儀礼』は『死』を擬似体験するもの。
喚起すべきは、蛇に飲み込まれようとしている小動物のほう。名も知らぬ弱き小動物。
あなたの先祖の記憶。
抽象度の高い概念。言語化されない太古の記憶。決して脳の管理人が鍵を開けない扉の向こう側。

『死の儀礼』
真守流魔道公式儀礼
用意するもの ・ろうそく(最低25分燃えるもの)

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