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何を用いて読書ノートをやろうか考えすぎてわからなくなってきたときに現れる農夫

読書ノートを付けようと思う

 本はたまに読むけど、内容全然覚えてない。もったいない。読書ノートを付ければ、記憶にも残りそうだし、振り返りやすくて良いと思う。

 そのために、フィルム付箋を買った。本の気になる一文をマークするためだ。

 いまチャールズ・ブコウスキーの『勝手にいきろ!』を読んでるので試しに「おっ」と思う箇所に付箋を貼るようにしたら、ほぼ毎ページ貼っちゃう。
 すぐ付箋だらけになって、本からたくさんの付箋が飛び出してる様がなんだか誇らしい。ちゃんと読んでる感ある。

 ただ、付箋がすぐなくなる、ということが問題だ。買い足すのが面倒だし、チリ積もでお金かかる。

 そこでブックダーツを買った。
 薄くて小さい金属板で本のページを挟むアイテム。

 これの50個入りを買った。
 50個で足りるかはわからないけど、本を読み終わって読書メモにまとめたらブックダーツを本から取り外してまた別の本に使えるのは良い。

 50個入りは、なんか革靴のメンテナンスに使うミンクオイルみたいなレトロな缶に入っている。読書のかたわら、机においたこの缶からブックダーツをひとつ取りページに挟むという所作が良い。

 これはBARとかでグラスを傾けつつナッツを食べるのと同じジャンルの所作であり、自分が今いい感じのひとときを過ごしてるって錯覚することができる。

 読書ノートはまだ付けてない。いま読んでる本読み終わったら付ける。

読書ノートとして何を用いるか

 紙のノートか、ブクログとかの読書アプリか、iPhoneのメモアプリか、または、このnoteか。
 要は、紙かデジタルか。

 文具好きなので紙のノートでやりたいけど、手間かなと思う。最もいつでも気軽に触れるのはスマホだ。

 ふと、知り合いと飲んでるときとかにオススメの本を紹介したいってなった場合、スマホで読書メモみれると良いなと思った。
 紙のノートは出先にもっていかない可能性が高い。
 となると紙のノートは無しか。
 文具つかいたいんだけどな。

 魂は「紙のノートがいい!」と言っているが、理性は「いや普通にデジタル一択だろ、このスマホ中毒者め」と言っている。

 二つの判断基準がある。

  1. こどもに見せたいかどうか?

  2. データベースにしたいかどうか?

 「1」で考えると手書き優勢なのである。

 ノートに文字を書いている姿を見れば「文字を書いているんだな」とわかるが、スマホを操作している姿だと何をしているのかわからない。
 あと、単にぼくが、人がノートに何かを書きつけている様を見るのが好きというのもある。
 うまく解析できないが、なんか良いなと思うので、こどももなんか良いなと思うであろうと思っている。

 それに書いた読書ノートをいつかこどもに見せることも出来る。
 スマホのメモも見せることはできるが、より直感的に「書き続けてきた」感じを伝えることができるように思う。
 こどもが自分で本を読むようになったとき、本の中身をより深く自分のものとする方法の見本として、伝えやすいように思う。
 あと、こども、今ひらがな書く練習してたりするしシール貼るの大好きだし、大人もそういうの楽しくやってるよ、というのを見せたい。
 読書ノートに、シールはなんかペタペタ貼りたい。

 「2」のデータベースにしたいかどうか? も何かを記録する手段を選ぶときに大事な基準だ。

 本を読むことは新たな発見を得ることでもあると思う。
 得たことを自分で振り返ったり他者に伝えたりするにあたって、デジタルデータ化しておけば、検索してサッと参照できて良い。

 こどもに見せたいかっていう基準で見ても、出来上がった読書ノートに関しては、デジタルツールを用いて本からインプットした情報を活用する方法の見本として、見せることは有益なように思う。

 ──とか考えると、結論、どっちもやるが正解だと思った。
 読書ノートは紙で書き、それをスマホで撮影してメモアプリやSNSで添付し、データベースとする。

 これなら両方の良さを生かせる。
 スマホで撮影して──という部分も手間はほとんどないし。

最高なのはそうではなく

 と、ここまで書いておいてなんだが、一番かっこいいと思うのは、アナログとかデジタルとかのこだわりなく、ふと読書の記録を付けたいってなったときに、たまたまそこにあった手段を成り行きで続けてる人だと思った。

 別にそれが、チラシの裏でもいいし、惰性で続けているいにしえのブログサービスとかでもいい。
 ふと脳裏に像を結んだのは、田舎で農家をやっている老夫婦の暮らしのワンシーン。

 農夫は早朝の畑の手入れを終えた後、妻が朝餉の支度している間に文庫本を読むのが習慣だ。
 ある日の朝いつものように文庫本を読んでいた農夫はその本の内容に既視感を覚える。昔買った本なのに、そのことをすっかり忘れて再度購入してしまっていたのだ。
 しくじったという苦い気分にしずんでいると、ラジオの選書コーナーで「読書ノートを付けています」という声が聞こえてきた。
 タイムリーなワードに耳がそちらに惹きつけられる。なるほど、そういう本の読み方もあるのか。
 さっそく農夫もやってみようと思い、居間の引き出しから、畑の作業記録用に買っていたスーパーで5冊いくらのキャンパスノートを持ってくる。
 電話機の横のペン立てからサインペンを手に取ると、キャップを開けてノートの表紙に「読書ノート①」と書き込んだ。

 ──みたいなのが一番いい。

 手段から先に考えるのはナンセンスだ。気がついたらそういう手段だった、というのがキレイ。
 なぜなら読書ノートをつくるということは、「知を深める」という目的のための手段でしかないからだ。
 それなのに、手段にこだわるあまりに、その行いをすること自体を悩む……というのはなかなかに滑稽と言える。

 でももう、ぼくの思う「かっこいい」が「そもそも手段にこだわってないこと」ということを自覚してしまった。
 なので、今読んでる本を読み終わったとして、何かに読書記録をつけるとき、その手段は初めからぼくの中で陳腐化しているということになる。

 まあでもそうなると、どんな手段で読書ノートやるにしても結局は陳腐なんだから、もう何でもいいかぁ、となる。
 そうなってようやく、手段を適当に選ぶことができるようになる。

 我ながら難儀なものである。

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