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青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』@アトリエ春風舎


 青年団演出部にまたアンファンテリブル(恐るべき子供たち)が現れた。宮崎玲奈は明治大学を卒業したばかりの23歳。まだ若いが人物を描写していくその演出のタッチは極めて繊細で、巧みさに驚かされた。
 宮崎企画「つかの間の道」は同棲中の若いカップル間に時折流れる微妙な隙間風を細密画のように描写した場面がなかなか秀逸。実は二人には両者と友人だった失踪した男がいて、その男がいなくなってから付き合いはじめるのだが、今でも彼の存在(というか不在)は二人の間に影を落とし続けている。だが、そうした違和感や不一致を二人は見て見ぬふりをしていることで現在の関係性をなんとか維持しようとしている。こうした関係の小さな揺らぎを宮崎はとても繊細に見せていく。そこには学生演劇上がりの作家によくあるような稚拙さはなくて、熟練の作家のような巧みさが感じられた。
 さらに、それを若い二人の俳優(石渡愛、黒澤多生)がよく演じている。特に石渡はセリフにはないようなちょっとした視線の配り方や表情の変化で二人の間に生じる微妙な空気感を演じてみせるのだが、こういうことができる俳優を抱えていて、若い作家がそれを起用することができるのも青年団(演出部)の強みであろう。
 会話自体は現代口語演劇であり、平田オリザの系譜にあると考えてもいいが、対象へのフォーカスの当て方はまったく違う。
 「東京ノート」で平田自身が自らの方法論をフェルメールになぞらえて、カメラオブスキュラの例えを出したように平田のそれは単一のレンズが切り取るフレームのような描写なのだ。
 対して、宮崎の視点の切り取り方は複数のカメラを組み合わせたようにより多視点的である。しかも実際に提示されるのは現実のうちの一部だけであり、「描く部分/描かない(で想像にゆだねる)部分」を作り、さらにそれぞれ時間j軸や空間(場所)が異なる場面をまるでレイヤー(層)を重ね合わせるように同時に提示していく。
 この作品の主題は「存在/不在」ではないかと思う。そして、その主題は「表現すること/表現しないこと」という宮崎の演劇の方法論にも重なり合っているように思えた。
 実はこの構造は「東京ノート」で平田オリザが構築した構造と相似形にあるのではないかと「つかの間の道」という作品を見ているうちに思えてきた。つまり、宮崎が世界を切り取る切り取り方と平田のそれとは全然違うのだが、作品の内容が方法論(作品の形式)と呼応しているという一点においては宮崎は平田の系譜を継いでいるといえるかもしれない。

(アトリエ春風舎 2020年1月6日観劇)

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