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「目からと耳からと」

清水屋商店BOOKS vol.5

最近はいかに情報をキャッチするのかが重要だと言われ、その指南書も出るほどです。
ビジネスでは、インプットとアウトプットという言葉を使って情報処理の手法について語られることもあります。
暮らしの中では、新聞で昨日の世界に何が起きていたのかを知ったり、WEB上でついさっき起こったことを調べたりします。もっと身近なことはSNSやメールで知らせがやって来ます。
これらに共通するのはすべて「ことば」であることです。会話からの情報もそのひとつ。
耳から得る情報というのもたくさんあります。テレビや映画は映像と音声の複合的な情報ですし、ラジオや音楽は音声のみの情報です。

近頃、仕事の関係で音についていろいろと考えることが多いのですが、その中でいくつか発見がありました。
仕事として日常にある音を録音する必要があって、いろいろな音を探すために近所をウロウロしたり、家の中でじっと耳を澄ましてみたり、雨が降ってくると窓を開けて外の気配に意識を集中してみたりしています。

音って刹那的なところがあって(このこと自体も最近気がついたことですが)、「お!」って思った瞬間に録音する必要があります。だから必然的に片手に録音機材を持って耳にはイヤホンをすることになるのですが、これがずいぶん怪しい姿なわけです。以前公園に佇む男の怪しさを書きましたが、それとは一味ちがう怪しさです。しかもマスクをしているからその怪しさといったら想像するだけでも自分でゾッとしちゃいます。

そんな犠牲を払うだけあって、おもしろさもあります。
たとえば、雷の音。ピカッと光った数秒後にゴロゴロと空が鳴るのはご存じのとおりですが、雷が光ってから鳴り終わるまでが思ったよりも長いことに気づきました。
言葉で表現すると、ピカッと光って、数秒後にゴロゴロって鳴ったあとにしばらく空でぐずっている感じです。余韻と言えばいいのかリフレインしていると言えばいいのか、感覚としては思っているよりも倍くらいの時間鳴っているんです。空を切り裂くような大きな雷の場合は、その余韻も長い。
それから、都内では23区内では電車の音と車の音から逃れられないです。これにはちょっと驚きました。特に散歩していると、思いもしないところから電車の音が聞こえてくることがあります。中央線の新宿より西側は線路から徒歩数十分のところでも聞こえてくる。これは地形と町割りによるところが大きいようです。平坦な土地のうえ、低層住宅地なので、音を遮るものが少なく遠くまで音が抜けるのだと思います。あのあたりの道は複雑な構造が多くて迷子になりがちですが、そんな時は目を閉じて耳を澄ますと線路がどっちの方向にあるのかがわかるので安心できるかもしれませんね。

そんな発見がたくさんあるのですが、一番驚いたことは普段の暮らしでは目からの情報を優先にしていることです。
たとえば、音を探しに大きな公園に行ったときにきれいに咲いた花を見つけたり、特徴的な枝ぶりの松を見つけたりしては小さな感動を楽しむ自分がいました。むしろ特徴的な景色や印象的な色を目で積極的に探している感じです。もちろんそんなものを録音してもなんにもなりません。

これに気づいたとき、僕はハッとしました。
よく五感で味わうといいます。その5つの感覚は平等なもののはずですが、僕は無意識に視覚を優先していたわけです。考えてみるとこの傾向はいろいろなところにあるようで、たとえば食事の時もまず料理を見た目で判断をしますし、音楽もCDのジャケットの印象に大きく影響されます。ほかにもラジオよりもテレビのほうが視聴することが多い、などなど。

人間は同時に2つのことはできないと言いますが、これだけ目からの情報を優先しているとそれ以外の聴覚や触覚は二の次になってしまうわけです。なぜ僕がそうなってしまったのかははっきりしませんが、本を読むことやパソコンで仕事をすることも影響があるように思います。

むかしはどうだったのか。「目で楽しむ」なんて言いますが、これは「目で“も”楽しむ」というニュアンスがあるのではないでしょうか。それは味、音、感触とともに目でも楽しむという感覚。それこそ、五感をうまく連動させていたと思います。
ではいつ視覚が優先されるようになったのか? おそらくインターネットの誕生と関係しているのではないでしょうか。インターネット=仮想現実。インターネットの出現によってこの世にはもう一つの世界が生まれたわけです。そしてその世界の入口は目だけです。この差は大きいです。インターネット以前にあったのは現実世界だけで、いまよりもずっと目から入る情報は少なかったわけです。きっとそのぶん視覚以外の感覚をもっと使っていたのではないでしょうか。

ところで、日本語はオノマトペ(擬態語)が多い言語と言います。ほかの言語よりも音の表現が多い。なにげない会話でけっこう使っているように思います。
たとえば、「コップをバっと倒してしまい、水がバチャっとこぼれたんで布巾でサッと拭いたんです」って具合に。
こういうのは日常会話よりも文学作品のほうが多く見つけることができますし、その表現は独特でおもしろいものが多いです。簡単に言えば、オノマトペは感じたものや耳で聞いた音を言葉や文字にするということ。さらに言えば、それを読み聞きすることで頭の中にその状況を再現させようとする方法と言えるかもしれません。
現代では録音や録画技術があるのでそれを正確に保存再生できるわけですが、つい最近までは言葉に置き換えて保存して、その言葉を再生することで復元することをしていました。
そう考えるとオノマトペは信号や記号のようなデータという解釈もできそうでとても興味深いです。


というわけで、今回紹介するのは

『音の表現辞典』
著者:中村 明
出版社:東京堂出版 (2017/6/26)
価格:税込2,750円

という本です。

わりと最近出版されたもので、300ページのハードカバーでなかなかの分量です。著者の中村明さんは国語辞典の編集に名を連ねていますが、さまざま辞典や日本語に関する著書を出されています。僕の手元にも『感情表現辞典(六興出版)』『日本語 語感の辞典(岩波書店)』があります。日本語のスペシャリストのひとりだと思います。
事例を収集し、それに適切な解説を添える仕事は『舟を編む(三浦しをん 著)』などでよく知られていますが、とても根気のいる作業で地道かつ精緻です。

紹介するこの本も文学作品を中心にたくさんの事例が掲載されています。
引用した作家は約230人、引用した作品は約560点と膨大。目次も「音声」「口調」「音響」の大分類、「音響」は「人間」「動物」「物体・現象」の中分類に分かれ、ぜんぶで276個もの項目で構成されています。すごい数。「音声」だと「大」「甘」「泣」、「口調」であれば「芝居」「皮肉」、「人間」は「くちゃみ」「欠伸」「手」、「動物」なら「犬」「猫」「鈴虫」、「物体・現象」になると「電車」「風」「音楽」といった項目で森羅万象を網羅している感があります。

辞書なので最初から読むのは必要はなく、ふつうの辞書のように気になった言葉の箇所を拾い読みするのがよいと思います。辞書の醍醐味として、調べた単語の前後の言葉も読んでみるおもしろさがありますよね。思いがけない発見が楽しいです。
ちなみにこの本、索引に力が入っています。というか、読者の気持ちを知っているというほうが正しい表現かもしれません。どういうことかというと、巻末に「作家名索引」と「作品名索引」が掲載されているのです。この本の概要で引用数を紹介できたのもこの「索引」があったから。これってどうでもよいように思いがちですが、これがあるのとないのとでは価値が倍以上変わってしまうと思います。
もし「索引」がなければ僕は目次からしかこの本を楽しむことができないわけですが、この2つの「索引」があることで作家ごとに音の表現の特徴を見たり、作品ごとに音の表現だけを拾ったりすることができるわけです。そう、この工夫で3つの楽しみ方ができる構造にしているわけです。もちろん、本文もそれに対応するように必ず著者名と作品名を記載しています。これはきっと著者と編集者とのコミュニケーションの中で生まれたアイデアなんだと思います。
肝心の内容ですが、いろいろな示唆に富んだものです。
たとえば「烏」では、奈良と平安時代の表現を紹介しながら、江戸時代には今と同じ音に集約されたとあります。日本人には千年前から「かーかー」って聞こえていたんですね。興味深いです。ほかにも「雨」では、獅子文六の「まるで草箒で雨戸を掃くように、ザッ、ザッと吹降りの音がした」という表現や吉本ばななの「駅について外に出たとたんに大粒の雨がばたばた落ちてきた」という例、夏目漱石の「さあさあと雨が走っていく」など20近くの表現が記載されています。こんな感じで300近くの項目に分けていろいろな音の表現が紹介されています。
読んでいて気付いたのですが、ひとつひとつの表現を読みながら、頭の中にいちいちその状況や風景を思い描いているんです。どこまで忠実に再現できているのかは置いておくとして、つまりその時作家が文章に閉じ込めた音を、それを読むことによって自分の頭の中でその音を再生しているわけです。もちろんこれは普通のことでないも特別なところはないのですが、それをまとまって読む(再生する)となるとちょっと特別な体験になります。この本の名前は『音の表現辞典』ですが実感としては『音の再生辞典』と言っても良いくらいです。
この手の本はほかにもいろいろあるのですが、ここまで思わせるのはきっと文学作品を引用しているからだと思います。名うての作家たちがひねり出した絶妙な言葉だからこそ、手に取るようにその音を再現できるのは言うまでもありません。本末転倒ですが、百聞は一見に如かず、ぜひどこかでこの本を手に取ってもらえれば。                   おわり

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