連載小説「359°」 第4回

  『ユナ』 ④

 「あー。今日は、丸つけしてすぐに返すから。終わったやつから持ってこーい。」
イトウ先生は、テストを回収して後日返却することもあれば、その場で採点をしてそのまま持ち帰らせることもあった。一度回収されたテストが返ってくるのは、早くても数週間後—大抵、学期末にまとめて返却ーであったことも、この人のテキトーさをよく表していた。
この時の私は特に、早く結果が知りたかったので、すぐに返ってくるのは願ったり叶ったりであった。

 自分の部屋の、机の奥にしまった、魔法の『見なおしシート』。おそらく近いうちに先生お得意の抜き打ちテストが行われるであろう数枚を選んで、寝る前にベッドの中でこっそりと―コドモケータイの明かりを頼りに―何度も何度も読むのが、日課となっていた。私だけが知っている秘密の情報。それに目を通すのは、楽しくてしょうがなかった。そうか。繰り返せば繰り返すだけ、知識は頭に定着していく。方法はさておき、私は生まれて初めて、『勉強』に夢中になってしまった。

 「うん…うん…。んー?お前もここ間違えてんなぁ?はい、七十点。」
「いや、先生、点数言わんでよ。」
「もっと勉強しなー、さい。」
私の前に並んでいた男子に、採点したテストでペチッと頭を叩きながらイトウ先生が言う。丸つけ待ちの列はいつも長蛇になる。まだテストに取り組んでいる子もいるのに、このイトウという男は余計なことまでベラベラと喋るのだった。
「裏の五番、ほぼ全員間違えてるぞー。よく問題読めよー。」
そして、私の順番が来た。
「うん…。ふん…。」
赤サインペンの、シュッシュッという連続した音が、静かな教室に流れていく。
「…お!正解。今日初めての満点でました。ん?ネーチャンと思ったら、イモートか!珍しいな!がはは!」
思ったことは全て口から出さないと気が済まないのだろうか。デリカシーのかけらもない言葉だが、しかし、悪い気はしなかった。満点。なんなら、『この時点でただ一人』。この男の言うように、いつもなら『ネーチャン』のヒナがそういった立場になることはこれまでもあった。自分の席へと戻る私の胸に、言い知れぬ高揚感が芽生えていく。姉はこんな気持ちを何度も味わっているのか。卑怯だ。不公平だ。
 感情を悟られぬように、必要以上の無表情を意識しながら、テストを丁寧に半分に折って机の中のファイルへ入れる。私の三人ほど後ろに並んでいた姉の順番が来た。先ほどの、一言のせいで、私も含めたクラス全員が、赤ペンの音に耳を傾けていたのではないだろうか。
「…んー。…あら?あらら?ネーチャンも、やっちゃったか、ここ。正解は『少しの間』なんだなー。なので、九十…五点。」
すかさず、そばにいた女子が言う。
「先生、まだテストやってる人、いますよ。」
「あ!ごめん。答え言っちゃった?今の忘れろよー。」
姉も、私とそっくりの無表情で自分の席へと戻っていった。初めてだ。姉に勝った。結局その後も満点を取る者は現れず、私は『ひとり勝ち』した。授業の終わりに、再度、イトウ先生が「イモートちゃんだけ満点の珍現象」と強調した。しかし、珍現象とは、続くものだ。

 その日の五時間目も、突然、社会のテストとなった。私は、全ての解答はもちろん、問題の順番すら頭に入っていた。あんまり早く並んでいたら不自然かな、と思い、わざと一度書いたものを消したり、何度も読み返したりと、時間稼ぎをしてからゆっくりと席を立った。すると偶然、姉も立ち上がり、同じタイミングで列に並ぶこととなった。
「先、いいよ。」
「え?うん…。」
私が促し、姉の後ろに並んだ。いつもは遠く感じる背中が、手を伸ばせば触れられるほど近くにある。
「はい、五十五点。ユウジロークンにしてはわるくないんじゃない?つぎー。」
「おねがいします。」
姉が先生にテストを手渡す。
「ふん…ふん…ふ…ん?…あちゃー。ここは、『送・水・管』!今日授業でやったばっかだろう?ユウジロークンとおんなじ間違いだこれ。ネーチャン今日どうした?風邪でもひいた?」
姉は何も言わず、先生の机の、角あたりを見つめていた。
「九十…五点。ま、こんな日もあるな。はいよ。」
テストを受け取った姉は、数秒の硬直の後で、こう言った。
「…。先生、すいません、お腹がいたいので、保健室…いや、トイレに行ってきます。」
返答を待たずに、姉はスタスタと歩き出した。
「あれ?もしかして本当に風邪だった?」
そんなわけが無い。この男以外は、きっとみんなわかっていただろう。私には、ありありと教室を出て行った姉の表情が浮かんだ。泣いている。呻きながら泣いているに決まっている。ただ、大切な姉を泣かされたのに、私の心に不快な気持ちは一切無かった。
「おねがいします。」
テストを渡すと、何事もなかったかのように、採点は再開された。
「お…。お…。おぉ…二度あることは三度ある…ってか?これまた全問、正解!」
大袈裟に言うものだから、私の後ろに並んでいた数人が思わず拍手をした。
「おっかしいな。本当にイモートかぁ?」
わざとらしく私に顔を近づけて、自分の右目の下あたりに指をさす。大人相手だったら、間違いなくセクハラだ。
「うーん、間違いないな。そっくりだから、騙されたかと思ったよ。なはは!あと、よく考えたら三度目じゃなくて二度目だな。はい、みなさん、拍手―。」
テストを受け取り、乾いた拍手の音が鳴り響く中、自分の席につく。落ち着け。変な表情をするな。背中から全身に向かって放出される、ゾクゾクとした感覚がおさまらない。担任の褒め言葉?クラスメイトからの賞賛?そんなものはどうでもいい。姉だ。姉が手に入れられなかったものを、手に入れた。その快感なのだ。

 この時、私は、私が患ったビョーキに効く、鎮静剤どころではない強烈な『おクスリ』を見つけてしまった。

 『姉のもっているもの』を手に入れる。そんなんじゃもう、物足りない。

 『姉の手に入れられなかったもの』

 これが欲しい。奪い取りたい。

 私が十歳になるころに、私のビョーキは、ドス黒い変異株を産み落として、心の奥の方へ消えていってしまった。


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