大須賀乙字という俳人 1



この記事は、ずいぶん前にわたしの所属する俳句結社で1年間連載していたものに、ほんの少しだけ手を入れたものです。
 記事で取り上げている大須賀乙字(おおすがおつじ)は、明治後期から大正にかけて活躍した俳人。
 東京帝国大学時代に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に師事し、のちに碧梧桐が新傾向俳句の道に進むきっかけを作った人物。でもあるんですが、乙字自身はその新傾向俳句にはずっと異議を唱えていました。
 碧梧桐と袂を分かったあと、臼田亜浪(うすだあろう)と共に「石楠」を創刊します。この亜浪は、元々は高浜虚子(たかはまきょし)に師事していたんだけど、そこから袂を分かった人。
 乙字、亜浪の二枚看板での結社は結局二つの派閥に分かれてしまい、乙字はここを脱退することになります。
 今日、大須賀乙字という人物があまり世に知られてない理由のひとつに、わたしは彼が自身の結社を持たなかったことがあるように思います。のちのちまで彼の俳句を伝えてくれる門下の俳人が乏しかった、そういうこともあるのでは、と。
 わたしの所属する結社は一応大須賀乙字師系と言ってはいますが、直接的なつながりはやや薄い。創立者の桑原視草(くわはらしそう)の師が大田柿葉(おおたしよう)で、この人が乙字門下だった、という感じ。
 一応とはいえ大須賀乙字師系を標榜しているのだから、少しでも彼の俳句を知って欲しいという気持ちで書いていた連載になります。
 前書きが長くなってしまって申し訳ないです。


1月号

元旦に酒酌まぬ今年ばかりかな 乙字
 
 大須賀乙字という俳人を御存知だろうか。明治から大正にかけて活躍した俳人であり俳論家である。明治三十五年高校時代に新聞投句を始めてから、大正九年一月に亡くなるまで十八年。短い活動期間である。この十八年で、乙字が成したものはなんだっただろう。それは、沢山の俳論と、死後編纂された「乙字句集」における二千二十三句、そして毀誉褒貶相半ばする人物評である。短いながらも激烈に生きた証の人物評とも言えるだろう。
 本欄をお借りしてこの一年間、大須賀乙字の句を鑑賞しながら、彼の残したエピソードなどを紹介させていただきたい。
  神棚に代へて初富士拝むなり
 大正八年正月の句。引越しの多かった乙字が最後に移り住んだ高田老松町から、富士山がよく見えたという。また、この年一月三日から箱根強羅に旅行しているので、その折の句かも知れない。いくぶん国粋派寄りだった乙字が、あえて正月に神棚を拝まずに富士を拝んだというよりは、自宅の神棚に代えて、旅先で富士を拝むという方が自然な気がする。
  元旦に酒酌まぬ今年ばかりかな
  床上げをこの元旦と定めけり
 八年の暮れに、年賀状に印刷するために詠んだ句である。この年の冬にスペイン風邪に倒れた乙字は、それが快癒せぬまま翌年一月に亡くなっている。この句を詠んだ頃は、小康状態にあり、まもなく回復するのだと多分誰もが思っていたのだと思われる。
 「酒酌まぬ今年ばかり」とあるが、乙字は実際酒が好きだった。学生時代には担当教授の自宅で酒を過ごして大失態をしてしまった事もある。また俳句仲間と飲むと「乙字曰く」と気焔を上げるので、「また乙字曰くが始まった」と言われるほどだったという。しかし、俳句から離れた場ではまた違う姿が伺われる。作曲家の小松耕輔によると、その酒は文人らしく優しく上品で、酔がまわるとよく元禄時代の小噺などを得意としたという。小松と知り合ったのは東京音楽学校の国語教授時代なので、これは大正五年以降のことである。晩年の乙字は、晩酌を欠かさない酒好きではあったが、酒豪というほど酒が強かったわけではないらしい。肴は、珍味を好んだという。塩辛や海鼠腸などの他、変ったもの、ひねったものを喜んだ。はこべ、たんぽぽ、土筆、甘草など野草を料理したものなど作らせていたので、後年戦後の食糧難の折に乙字のそれを思い出して飢えをまぬがれたという人もある。また、出雲旅行の際は、山椒魚が珍味と聞いて試食してみたいと言ったらしい。残念ながら帰京までの間に捕まえることが出来ずにあきらめたが、その後、生きた山椒魚が出雲から東京に届いて、乙字と家人をおどろかせたという。

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