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今いちど図書館戦争の話を~県展とアンデパンダンに寄せて~

現在、鳥取県美術展覧会に出品しています。

その関係で、県展で検索したところ、図書館戦争の「茨城県展」の話を知りました。

茨城県展で、題名に「自由」と付けられた良化隊の制服が最優秀賞に選出される。良化隊の行う実質的検閲への皮肉と批判の作品。
その展示を阻止しようとする良化隊と防衛する図書隊のバトル。

図書館戦争は、良化隊が実質的検閲を行う、表現弾圧の激化した世界を描いた作品です。
しかし、公募展が(この世界では)危うい作品の展示に踏み切り賞までくれる分、現実の今の日本より自由じゃない? と思ってしまいました。

改めて考えてみたい図書館戦争(実写映画版「図書館戦争」の感想)
https://note.com/simadatuki/n/n20589cd2d0ab

(上記の感想より)


「実質的検閲のある社会で表現の自由を守るために戦う」


『こんな事態を生んだのは人々の無関心が原因』


本が大切なのは、そこにいろんな価値観や考えがつまっているからで、本を守るって言うのは、思想を守るっていうこと。
良化隊のすることもそんな思想の一つには違いないわけで、だからこそ、「純然たる悪」ではなく「立場の違う正義」として描いてほしかったです。

一方的に良化隊が悪いようにしか描かれていないので、逆に図書隊の説得力が弱くなってしまっている気がする。

上記の感想文ではこう書いていますが、茨城県展の話で良化隊が怒るのは、「良化隊のプライド(の象徴)である制服を侮辱する作品」ということで、そこはいいなと思いました。

アニメ全部見たはずだけど忘れてしまっていました。当時、自分が県展に出品することがあるとは考えていなかったからかもしれません。
いや、それよりも。

意識に残ってないのは「こんなの現実にはない」と思っていて、作中の弾圧描写の1つとしか捉えてなかったからでしょう。
まさか本当に特定の表現がNGとされてるなんて今年まで知らなかったのです。

「市展の出品拒否とその経緯、先への希望」
https://note.com/simadatuki/n/n73bbe8bff815

これは市展の話ですが、日本の公募美術展示ではどこもそうだということでした。本当としたら私にとってはショックな事実です。
真面目に話してくださった市展の関係者の皆様には感謝しますが、それはそれとして、この風潮はお話を聞いても最後まで納得できませんでした。

特に、市や県といった行政が絡む展示でそれが行われるとしたら、「実質的な検閲」になってしまってはいないでしょうか? 

私たちにとって属する市や県は一つしかないので、嫌なら他に応募するというわけにもいきません。
税金を納めて参加しているのに、郷土心を持ち市展や県展に心から憧れている人の、「好む表現を発表する権利」また「その絵を観たい人の権利」が奪われています。

法律の定義する検閲でないことは理解していますが、文化史の中でいくどとなく戦い、反省を繰り返しながら来た、絶対にやってはならないはずの検閲に近いことを美術の世界が自ら行い、展示会場から追い出すのは不健全に感じます。

こちらの市展は出品料も無料で、出品した人はもう一つ作品の展示もあり、拒否されたのも過去作だったので、精神面以外での被害はありませんでしたが、大抵の公募展は数千円~高くて数万円の出品料がかかります。100号級の大きな作品だったら、制作時間・画材費・輸送費など考えれば、それを突き返されるのは大きな損害にもつながります。
しかも、今回は幸いにも理由を知ることができましたが、審査を落とされた理由なんて教えてくれない場合がほとんどです。
(このあたり、鳥取県展は審査が公開されているし出品料も2000円とお安めです)
そんな中で「裏ルール」のようなもので展示がされないという状況、美術の公募関係の方はどう思いますか? 軍国主義(を感じる)なんてひどい要素を含んだ絵なんだからそんな扱いをされてもいいやという感じでしょうか?

応募要項にも記載がなく、作品の出来にも問題がないのに扱った表現がいけないから落とされる、しかも理由を知ることができるとも限らない。

こういうことが行われているのがわかると、他の部分でも特定の表現をこっそり排除しているのではないかという不信感にもつながります。

小さな子供に見せにくい表現も確かにあるでしょう。
それでも展示拒否ではなく、たとえばパーテーションで区切るなりして説明をつけて展示をするという方法はとれないのでしょうか?

あるいは問答無用で拒否する前に、作者と話し合いの場を設けることはできないのでしょうか?
規定にない理由で作品を拒否するなら、そのくらいはする責任があると思います。
そういった意味で、この件では、拒否の判断をした審査員の方が自ら名乗り出てお話をしてくださって本当に良かったです。
市展の方々は長い時間、真面目に話し合いに応じてくださりました。だから個人個人を批判したい気持ちはありません。
しかしこれが日本の美術界全体のお話だというなら、改めて世に疑問を投げていきたいです。

まずは本当に日本の公募の美術展示では「軍国主義要素のある絵、ハーケンクロイツの描かれた絵」がNGなのかを知りたいです。そういった方面に詳しい方がいらっしゃったらコメントくださると嬉しいです。

ちなみに件の絵は「軍国主義」を主張した絵ではありません。要素はありますが主張しているのは別のことです。それは絵を見れば明らかで、相手サイドにも意図は理解してもらいましたが、そのうえでやはり公募展では難しいというお話でした)

ハーケンクロイツについては、ドイツでは芸術分野においては例外的に使うことが許されています。絵画はもちろん、ゲームでも使用OKです。「芸術の自由」という権利も基本的人権として保障されています)

何か美術公募展の協会があったりするのでしょうか? そうではなく、何となくそうなっているということなら、各公募団体でそれぞれ判断がしていけるのではないでしょうか。 

また、当たり前ですが表現の自由と言っても誹謗中傷は別です。

表現の自由を盾にして誹謗中傷や嫌がらせ、悪意をばら撒く人は軽蔑します。

そういうことをする人たちを生まないためにも、社会や学校、家庭がしっかりと道徳心を育てたり世の中の歴史的背景を教えていく必要があります。

また、受け取り側がきちんとした教育を受けていれば、自分の価値観で作品を判断できるはずです。
その時に、肯定する、批判する、どの選択を取るとしてもそれは受け取る側の問題です。

人殺しをしている絵を見たとして、「これは単純に人殺しをしている人を描いた絵だ」と取るか「この作者は人殺しを肯定している」と取るか「これはなぜ人を殺してはいけないのかという問いを投げているのだ」と取るかは、見る側の自由ですしその自由にこそ芸術鑑賞の醍醐味があります(と、私は考えている)。

たとえ作者が何と言っていても、自分の思う答えを信じて受け取れば良いのです。自分にとって糧になる部分だけ受信する。これは見る側の特権です。

(納得できない「人殺しを肯定している」等の感想に作者が訂正を出すのも自由です。それを加味したうえで自分がどう思うか、改めて考えるのも楽しいでしょうし、作者側はなぜそんな感想を抱かれたかを分析するのも後学につながるでしょう)

作り手は問いを投げる。鑑賞者は自分で答えを出す。
その健全なやり取りを妨げないためにも、表現の自由は守られるべきです。

そういう意味で、”茨城県展”で展示された制服が「破かれていた」というのは、どうなのだろうと考えさせられます。

破かず綺麗なまま、あるいは破るにしろ破らないにしろ本物じゃなく自分が一から作った制服を用いたほうがスマートだったんじゃないですかねぇ?(後方自称アーティスト面)

制服を破ることが必ずいけないわけではないと思いますが(映画の撮影とかで破れる表現があることもあるでしょう)、この作品は本物の制服を、明らかに良化隊を批判する(侮辱といってもいい)意味で破いています。

批判するために、本物を用いてその人たちの大切なものを傷つける。

これは芸術なのか? 表現の自由なのか? 

しかし他人の表現を武力行使で否定する良化隊はそれを主張する権利があるのか?
抗議の主張としては本物の制服を破くことにこそ意味はあるし、それをされてしまった背景については考えるべきではないか?

と考えさせる話だと思われます。
原作とアニメでも違うっぽいしもう一回ちゃんと観たいな……。

茨城県展内のエピソードでも、母親とビンタしあうとか親との問題の話は覚えているんですよね。上記の映画の感想でもわざわざ触れている。
おそらく、当時の自分にとっては、家族の問題の方が大事だったのだと思います。表現の自由について語りながら、本当の意味では深く考え切れていなかったのかもしれません。
問題は、自分の隣にまで来ないと実感しないんですよね。
――『こんな事態を生んだのは人々の無関心が原因』――


今回、私が県展に出品した絵(受賞候補作品の栄誉を賜りました。ありがとうございます)は、「かんしょう」というタイトルです。

風景を遮るように立つ絵の中の人物と猫がじっと鑑賞者を見つめている絵です。

この絵はもともと、「絵を観に行ったら逆に見られているのってドキッとして面白くないか」という所から描き始めました(もう一つ、抱っこしている往生した老猫のポートレート的な意味もあります。だからひらがなでかんしょう。「鑑賞」「感傷」あと絵と鑑賞者が相互に作用したらいいという「干渉」もある)

しかし、描いている途中で「市展展示拒否事件」が起こったので、もっと強い意味も加わりました。

「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

ここにいるぞ。ここから私は見ているぞ。
この世界の行く末を。
見えないふりも見てみないふりもしないぞ。

これは私のプライドの一枚です。

大事に抱えている猫は、私自身や作品への信念。
けれど攻撃的にしすぎたくはない。
だから人物は少し微笑んでいる。
しっかり立って前を見据えるのは自立や自己主張の意味もある。
他人と目を合わせることも自分を主張するのも苦手の現実とは程遠い。
理想の中の人物と猫。

この一枚で受賞候補まで入れたのは本当に嬉しい。

こんなことを大っぴらに書くのも、まだまだ信じたいから、愛しているから。しがみつかずにはいられないのです。
常に社会に疑問をつきつけながら進歩してきたのが芸術です。
批判をされたからと塩対応するようなちんけな世界ではないと信じています。

また、日々の事件。炎上。スキャンダル。噂話。いじめ。それこそ表現規制。

他人事だと思っていない?
自分は対岸から鑑賞する側だと思っていない?

安全圏から眺めていられると思っていない?

ちょっと当事者になってみない?
ちょっと当事者になってみようか?

明日ここに立っているのはあなたかもしれないよ。

そんな意味も込められています。
こういう風に叫びたいことがあったらこの作品を思い出してください。

この絵にはほかにも意味や描いた経緯がありますが、それはいずれまた書ければ思います。


一方、芸術の世界には公募展とは別に「アンデパンダン展」というものがあります。
これは、無審査・無賞・自由出品を原則としています。

まさしく表現の自由の最後の砦。
市展で拒否された絵もアンデパンダン展では展示されていました。
この辺、絵の作者さんのnoteから拝借

今年、私はアンデパンダン絵画展にも参加しています(唐突に宣伝をねじこむ!)。

「第22回 鳥取西部地区アンデパンダン絵画展」

9月22日〜26日
10〜18時※最終日16時まで

米子市美術館第一展示室
入場無料

今年は画像の2作で参加します。

野生動物
鋭い牙もぎらつく瞳も、研ぎ澄まされた爪も、全部わたしのものなの。

島田つきとして一番最初に描いた絵具の絵です。

曼荼羅
カンちゃんの精神世界。木のうろは胎内。

黒ねこカンちゃんの「はじまりとその先と」を描いた展示でお披露目したものです。

どちらもクロックロの書斎的には代表的な作品です。

ご観覧いただければ嬉しいです。

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