2篇目 『子午線の祀り』木下順二

知盛  われらたまゆらの人間が、永遠なるものと思いを交わしてまぐあいを遂げ得る、それが唯一の時なのだな、影身よ。

 ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』冒頭における宣言から、テリー・イーグルトンの近著『Tragedy』に至るまで、西洋の演劇論者の見方では、厳密な意味での悲劇とは専ら西洋演劇の専売特許であるというのが相場らしい。西洋における悲劇とは、人間を凌駕する絶対的な運命に英雄的人物が果敢に立ち向かい、そして敗北するという構造によって定義されるのであり、東洋の演劇や文学は含まれ得ないという。
 その真偽はともかくとして、木下順二が後年書き上げた『子午線の祀り』は、古くより能や浄瑠璃をはじめとする種々の舞台芸術にとって格好の材料となってきた日本の古典『平家物語』を、こうした西洋的悲劇の枠組みへと落とし込もうとするものであったといって間違いないだろう。それはシェイクスピア翻訳者としても知られた木下らしい試みである──『ハムレット』の主題の一つはまさに“Providence”(=神/摂理)をめぐるものであるが、「天と地とのあいだにはな、ホレーシオ、君の哲学が夢見るよりずっと多くのことがあるのだ。」というハムレットの示唆的な台詞を、木下はこの戯曲の中であからさまに引用している。

 そこで木下が戦略的に用いるのは、少なくとも2種類の文体である。

 まず一つ目は、プロローグと幕間のコーラスとして挿入される現代調の台詞。

読み手A  宣明暦元暦二年三月二十四日、現行グレゴリオ暦一一八五年五月二日の午前七時、東経一三〇度五八分、北緯三三度五八分の関門海峡の上にひろがる天球を、月齢二三・七日の下弦の月が、[...]

地理学や天文学の数字を引き合いに出して描かれる天球の動きは、自然の摂理であり天の摂理である運命の働きを指し示し、近代科学を新宗教と奉じる現代人にも信じうるものとして運命を提示する。『神と人とのあいだ』や『沖縄』など日本による戦争の問題を扱い続けてきた木下の作らしく、日本国の礎である帝と三種の神器をめぐる諍いを描く『子午線の祀り』にも、太平洋戦争の深い影が落とされている。運命に翻弄される個人という構図の元に、彼の時代と此の時代を繋ぐのが「非情」で「永遠なる」宇宙なのである。

 もう一つは、(ここに詳しく書く余力はないのだが)群読というスタイルの考案と共に木下が編み出した、語り物調の台詞である。

知盛  ここに新中納言知盛の卿、船の屋形に立ちいで、大音声をあげて宣いけるは、「戦さはきょうぞ限り、者ども少しも退く心あるべからず。[...]

このあたりは田代慶一郎の『夢幻能』に詳しく、また木下自身「複式夢幻能をめぐって」というエッセイにも記している通り、謡曲の語りのスタイル、特に世阿弥の『実盛』を意識して生まれたものと思しい。平氏方の武将斎藤実盛の幽霊をシテとする本作では、手塚光盛の手で討たれるまでの経緯と、死後、自身の体が首実験にかけられる様を実盛自ら物語る。知盛を演じる役者が地の文と台詞を同時に語る手法は、『実盛』に見られるような日本の語り物が得意としてきた重層的な語りの構造を踏襲するのである。冒頭に触れた新著の中で、イーグルトンはこう述べていた。

古典的な見方では、実人生における惨事は生のままの苦しみであるゆえに悲劇的ではないとされる。そうした苦難が、芸術として距離を取った形となるとき、それによってより深い意味が放たれるとき、はじめて悲劇と呼ぶことができるのである。(p.11)

我が身に降りかかった苦難を一歩遠退いて語る姿勢が、悲劇を悲劇たらしめる。謡曲は、そのストーリーだけを追うならば、執心に囚われた幽霊の成仏を目指すという点で悲劇的ではないだろう。しかし、運命体個人という西洋の古典的構図が、まず何よりも言葉の構造によって体現されると見るとき、日本の古典のうちにも悲劇的なものの宿りうることを、『子午線の祀り』は照らそうとしているのかもしれない。


参考図書
Terry Eagleton, Tragedy, New Haven: Yale University Press, 2020.
木下順二『子午線の祀り・沖縄 他一篇』木下順二戯曲選IV、岩波文庫、1999年。
---「夢幻能をめぐって」『日本文化のかくれた形』(加藤周一・木下順二・丸山真男・武田清子著)、岩波書店、1984年。
ジョージ・スタイナー『悲劇の死』、喜志哲雄・蜂谷昭雄訳、筑摩書房、1995年。
田代慶一郎『夢幻能』、朝日新聞、1994年。

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