慈悲の利益の経 (Metta Nisamsa Sutta)

皆さんこんにちは。

今回は、慈悲の利益の経 (Metta Nisamsa Sutta)について紹介したいと思います。


慈悲の利益の経

これは慈悲の実践の効果について、11のご利益を説かれているお経です。

お釈迦様は多くの人々に慈悲の気持ちを育ててほしいと思って、慈悲の実践のご利益を説いたお経なのです。

これから慈悲の利益の経で説かれている11項目を順番に説明して行きたいと思います。

紀元前に説かれたお経なので、現代人からしたら宗教的で奇妙に思える項目もあると思います。

なるべく元の意味から脱線しないように気を付けながら、現代人にも分かりやすいように簡単に解説したいと思います。


①安眠できる

慈悲の瞑想にはリラックス効果がありますので、寝る前に慈悲の瞑想をして心を落ち着かせるとリラックスして安眠することができます。

日頃から慈悲喜捨の四つの清らかな心を随念しながら生活すると他の生命との関わりでストレスを感じる機会は激減していくので悩みも生じにくくなって穏やかに過ごすことが出来るようになるでしょう。

②快適に目覚める

安眠できるということは、快適に目覚めることができるということに繋がります。

朝スッキリとした気分で目覚めることができると、その日一日をよい気分でスタートして過ごすことができるのです。

③悪い夢を見ない

慈悲の実践には怒りや害心を鎮める効果があるので、悪夢を見てうなされるようなことも失くなるでしょう。

④人に愛される

全ての生命に対して慈悲の気持ちを抱くように心がけて生活する人は、他人と争おうとか害しようという煩悩が起きにくくなって穏やかになっていきます。

他人を害しようと思わない穏やかな人は、他の人々からも好感を持たれるようになるのです。

⑤人以外の生命(動物や神々など)に愛される

人間に限らず全ての生命が慈悲の対象ですから、人間以外の生命にもその影響は波及するのです。

蚊や餓えた虎などの人間を補食対象にしている生命の場合は、その生命にとっては食糧確保は死活問題なので現実的には慈悲の気持ちを向けても相性が悪いのです。

仏教圏では、「慈悲の実践に自信があるからといって、自ら進んで虎の檻に入るようなことはするな」というような諺があります。

⑥神々に守られる

慈経でも説明していますが、仏教では神々などの目には見えない形態の生命の存在も説いています。

実際に神々などが居るのかどうかは、現代でも確かめる術は確立されていないので迷信のように思う人もいるかもしれません。

そういう生命については、存在するとも存在しないとも判断することができないのが正直なところです。

存在すると仮定して、神々なども対象に加えて慈悲の瞑想をする方がいいと思います。

神々などが存在していた場合は、自分達に慈悲を念じている人間がいると知ったら悪い気はしないでしょうし好感を感じると思います。

⑦火、毒、武器に害されない

これも説明が難しいのですが、二通りの説明ができます。

火や毒や武器とは、欲や怒りや無知の三毒の比喩だと解釈すれば非常に分かりやすいのです。

火や毒や武器を、他人からの加害行為として解釈する場合でも結局はその加害行為の原動力は欲や怒りや無知などの煩悩だと説明することができます。

宗教的な誇張も含まれる逸話かもしれませんが、仏典には何らかの事情で仏教の聖者を襲撃しようとして近付いたけれど慈悲喜捨を備えた聖者の穏やかな姿に感銘を受けて害意が止んで思い止まったり、襲撃は実行したが奇跡的に大きな被害は起こらず未遂で済み慈悲深い聖者に赦された襲撃者が改心して仏教に帰依することになった事例などが複数収録されています。

現実的な問題として、仏教聖者も結構殺害されたりした事例もあるので他者に対して慈悲を向けても相手の精神状態や様々な条件などによっては通じる場合と通じない場合があります。

そういう意味では、慈悲は万能の魔法ではありません。

「慈悲の実践に自信があるからといって、虎の檻に自ら進んで入るようなことはするな」

⑧心がすぐに統一する

慈悲喜捨の四つの清らかな心は、そのまま瞑想の対象にもなりますので慈悲の瞑想でサマーディと言われる精神統一状態を作ることができます。

⑨顔色が明るくなる

睡眠の項目でも説明しましたが、日頃から慈悲喜捨の四つの清らかな心を随念しながら生活すると他の生命との関わりでストレスを感じる機会は激減していくので悩みも生じにくくなってきます。

そうすると、ストレスが激減することて心身の調子も良くなって免疫力なども活性化して健康になって表情なども穏やかになったりします。

⑩明晰な心でやすらかに死ねる

ここまで慈悲の現世ご利益を説明してきましたが、人間は最後には必ず死にますのでここからは避けることの出来ない臨終と死後の話になります。

死ぬ間際にも、怒りや憎しみや欲などの煩悩を滾らせて死ぬよりは慈悲喜捨の四つの清らかな心を随念しながら死んだ方が素晴らしいのです。

その場合は、慈悲喜捨の中の捨の平静さを用いて「全ての生命は、生まれて、老いて、病んで、死ぬのだ」と冷静に普遍的な生死という法則を観察しながら欲や執着を離れた心で死ぬのが理想的な死に方の一つです。

備えてこなかった人が土壇場でいきなりその様な心境になるのは不可能ですから、その様な心境で明晰な穏やかな心で死ぬことができるように日頃から慈悲喜捨の四つの清らかな心を育てる訓練をして準備しておく必要があります。

⑪現世で最上の悟り(阿羅漢果)に達しなければ、死後幸せの境涯に赴く

仏教では輪廻を説いていますので、死ぬ間際に欲や怒りなどの悪い感情のまま死んでしまうとその心の流れが次の生に影響を及ぼすとされています。

現世で全ての煩悩の束縛を断って完全に解脱できればいいのですが、煩悩の束縛を完全に断てていない状態の聖者や煩悩の束縛を全く断てていない凡夫の生命の場合は死後にどこかで何らかの形で生命として再度生じることになるというのが初期仏教の基本的な世界観です。

慈悲の実践をして生命に対する慈悲喜捨の気持ちを育てて功徳を積んで臨終に備えておくと、最後の瞬間まで明晰な穏やかな心で欲や執着を離れた平静な心で死ぬことができるのです。

そういう方の場合は、臨終の間際でも自然と法を随観して智慧が生じて悟る可能性があります。

たとえ悟ることは出来なかったとしても、慈悲の実践によって積まれた功徳の果報で死後には天界などの善い境涯に赴くことになるので無駄にはならないと言われています。


終わり

ここまで読んで下さった皆様に三宝のご加護がありますようにと御祈念申し上げます。

生きとし生けるものが幸せでありますように。