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何に邪魔されているのか

「僕は、ラインが来ることにに邪魔されて完全な集中力で勉強をすることができない。だから、この時間以降ラインはしません」

このように宣言し、ラインを遮断し、自分の生活を取り戻すことはずっと脳裏に、いやいつも使っている脳内にあった。

ただ今日初めて冷静に、何によって妨げられているのか考えてみた。いやそれはラインが来ることそのものであろうと言われそうだが、本当にそうだろうか。

ラインそのもの自体、そこまで連続的ではない。それはラインの相互断続性にあるとからだ。つまり、相手からメッセージが届いてもそれを受け取り、何か返信をしなければもう一度届くことはない。このシステムは、ラインの持つ既読機能から来るものでもあろう。考えてみるとこれは、メールも同じではないだろうか。相手から、もしくは自分から送り、それを受け取った側が返事を返す(時には返さないこともあるだろう)ように思える。

しかしこの二つは大きな違いを持つ。それはラインであげた既読機能から生じる、終わりがないコミュニケーションの始まり可能性にある。
スマホを離さない人間、一体何をしているのだ、と思うこともおおいが、歩く時も当たり前のように手に持っている。そのためか、ラインを送るとすぐさま既読がつき、即返信が来る。もちろんこの時、受け手である自分もその画面を開いているため、相手の画面に既読をつけることになる。このようになったとき、取る選択肢は返信orラインを閉じることである。実はここに大きな誤解があった。

一つ目の選択肢である返信について生じる感情として、二点挙げることができる
①単に返信するということ(衝動も含む)
②既読がついてしまい仕方がなく返信するということ

②については多少のストレスが生じる。これは、自分が制御できない感覚からきていると思っている。しかし大事なのはあくまでも返信をしているという事実である。制御できない=自動的に、と解するとわかりやすいがここには強烈な義務感は生じていないように思う。

次にラインを閉じることについて考えてみる。ここで生じる感情は
①単に後で返信しよう、もしくは返信する必要がないということ(前向きな閉鎖)
②連続的に続くことを心配し、今やっていることの集中を欠く懸念

まさにこの②こそが強敵なのである。ここからさらに
①自分が返信を返さない決まりの悪さ、ラインの未完性さ
②相手が返信を待っているかもしれないという良心
このような感情へと転化する


続く by午前3時前のエセ思考魔





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