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望みのない問いは存在しない

 本質的な問いには、つねに望みが潜んでいるものである。
 ある事柄について考えるとき、まずその事柄を考えるのに、適切な問いを設定しなくてはならない。どのように問えば、その事柄を本質的に理解することができるのかを問うのだ。すぐさま、その事柄が何を意味しているのかを応えるのではなく、いったん、それがどういうことなのかを今一度再考し直してみることだ。

 本当の問いは、それに応えることで、自身の望みを叶えることである。だから、適切な問いは、その人の目的の実現に適った問いでなければならない。それが正しい問いである。

 故に、適切な問いを立てるためには、その人が何を望んでいるのかを、何を目的にしているのかをクリアにしなくてはいけない。その望みと現状とのGAPが、適切な問いへの扉である。

 そのGAPのリストを書き出し、それに対する仮の応え、つまり仮説を立て、そのリストを俯瞰し、グルーピングして、大きく三つの問い・論点を立てる。その論点を分析・検証することで、適切な問いが見出されていく。

 勿論、結果の良し悪しはでる。しかし、このプロセスを辿らずに、実は、その人が本当に望んでいることが何なのかわからない場合が多い。所詮、そのときに望んでいたことは、場当たり的に思っていることでしかなかった場合が多い。つまり、問を見出すことが、自分の望み・目的を見出すことでもあるのだ。

 何かをしようとするとき、それがどういうことなのかを知るための適切な問いをまず見出さなくてはならない。例えば、極端だが、「死とは何か」という問いに応えるために、死を問うための「適切な問い」を見出すことから始めるのである。それが、自分の死生観を知る契機にもなるのである。

 みずから見出した問いは、必ず自分の思想でもある。

 これまで適切な解を得るためには、適切な問いが必要だ、と思っていたが、最近、その解は、その人の「望み・目的・意図」が含まれているということに確信を持てるようになった。なぜなら、人は自分の経験の記憶を通してしか考えられないからだ。それは原因には常に目的が含まれているのと同じことである。

 原因は、その時、その人がどういう目的で動いていたのかを聞き、それを現状の結果と照らし合してみたほうが、どうしてそうなったのか、なにがあったのかをつぶさに聞くよりも、当てがつきやすいことがよくある。

 目的こそが、問いであり、問いには必ず目的が有るのである。

 


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