Σ 詩ぐ魔 第11号
ひとーつ
市原礼子(大坂)
ひとーつ
ふたーつ
みぃーつ
よぉーつ
息を吐きながら
ひとー
吸いながら
つ
ゆっくりと数を数えながら
呼吸をする
瞑想の入り口の
リラクゼーション
ひとつ ひとつ
大事なものを手放していく
すこしずつ
心が軽くなっていく
そうか そうか
こんなふうにして
すこしずつ
進んでいくのか
闘いをやめた心が
平安に向って
刻まれていく
原っぱのうた
佐相憲一(東京)
鎌倉街道1970年代
鍛冶ヶ谷から七曲を命ごとカーブして
港南車庫や日野、上大岡、港までつながる世界の途中で
シンボリズムなバス停<原>で降りるんだ
丘の日野南はそのころ富士山くっきり眼の前の
原っぱ、あるいは荒野、もしかしたら原野
ホモサピエンス住居はまばらで赤土が海風に草を揺らした
放っておかれた横穴式住居跡を探検する半ズボンの少年も
新たな時代の原人だったかもしれない
トノサマバッタモドキなんて命名はかわいそうじゃないか
タマムシいろとかいう愚かな比喩から友だちを救え
少年は人間社会が大嫌いだった
いさかいの絶えない家庭から逃げるように
愛する蛙を虐殺して少年をいじめる群れと闘うように
朝から日暮れまで野庭への森を夢中で歩く
世界は色とりどりの虫と爬虫類と両生類と大空をゆく鳥たち
おのれがホモサピエンスであるとの絶望はやがて
同じホモサピエンス変種らしい少女のおかげで希望に変わる
ヒトにもいろいろいる、ヒトの典型があいつらとは限らない
港南台駅ができて根岸線が通り真新しい小学校には恩師
ポツポツと人家が増えていつしか少年は友だちの中心にいた
年齢も家族背景も多様なこどもたちで草野球の世界も創った
サッパリーグと少年が命名
サッパリ浮かない日常もサッパリしてくる白球マジックだ
ボールかストライクか真剣勝負に友情という奇跡を知った
のびのびと草はらの独創ルールでは生命個性は等しく尊重
アニミズム社会主義みたいなこどもコミューンであった
遠くの港の灯りを見つめてハマの原野のドリームリアリズム
おっさんになった少年はかなしくなるとそこへ立ち返るのだ
さあ、まだまだ、しまっていこうぜ
ホソボソさんの歌声は
芝山愛子(愛知)
“美味しいねって うなずき合う”って歌うから
もうそれは叶わない
自分の現実に撃ち抜かれてしまった
その歌詞が
私の脆さの中心に反響して
彼の声はよく歌えた
― 伝わった ここの誰かに
だから今 うまく歌えました
この瞬間のために僕は歌っています ―
歌い終わって興奮気味に語るホソボソさん
伝わった誰かとは 私でしたという印に
投げ銭箱に二百円を入れて
目を合わさない会釈をした
人知れない閃光を 確かなものとするために
歌自体はその場限りの消えもので
頼りはないけれど
頑なな現実に向かって
それでも、と
柔らかな幸福を呼び掛ける
寒空の下に優しい曲ばかりを並べて
苦しそうに顔を歪めて声を出すものだから
それが表現としてあまりにも正しくて
美しくもあるということが
よくわかったんだ。
夢
苗村吉昭(滋賀)
月曜日 通勤電車 4人掛け
髪の長い女性が
コクリ コクリ
ついには通路側に首を曲げ
長い髪が垂直に垂れ下がった
充実した休日でしたか?
昨夜は寝るのが遅かったのですか?
明らかに寝不足の長い髪が
垂直に垂れている
わたしはその若々しい姿を見て
ピカソの「夢」という絵を想起した
マリー・テレーズという若い愛人が
シュルレアリスムと
フォーヴィスムの間で
首を倒して幸せそうに眠っている
わたしはピカソではないし
目の前の女性は
2024年のニッポンの月曜日にいて
幸せでないかもしれないが
垂直に垂れた長い髪と
このひとたちがつくるこれからの世界を
微笑ましく見ていたいという
わたしの夢。
美しい午後
mako nishitsni(韓国)
カフェ「スエズ」のテーブル席で
群青と緑青がおしゃべりしている
群青は最近の国際紛争について心が痛いと
緑青は本当にそうだよね、と言う
それから互いの家族の話になり
プロ野球選手の話になり
最後には二人の共通の趣味である
映画の話題に落ち着いた
カフェの窓に映る空が
透明な水色にオレンジ色がすこしずつ混ざり
いつしか濃いピンク色に変わった
群青と緑青は店を出て別れを告げ
満足してそれぞれの帰途についた
今度は葡萄色が混ざり始めた空に目を留め
互いにふと
これでいいのだろうか
もちろんみんな
精一杯生きているはずなんだけど
と思ったりもしながら
ピクチャーズ(ニッキ)
林 ケンジ(広島)
8月18日
「定位置」
ハサミとケーキでしょ。「そのまま。」でしょ
「プログラム。」が解除。真似してる
いや、し過ぎている学校までも
招き猫が笑ってる
8月19日
「配置」
電信柱がてっぺんを想像
丸めて飲む?「ふいに温めて。」
懇願されたらクラッシュされた
東北東、3ノット!
追記
ビューティフルヒューマンライフ
8月20日
「常備品」
スティックタイプの「原理原則。」
柚子胡椒が辛くて驚いたー
幻覚だけ画(ガ)、マヨネーズだから
「大盛りのご飯だし。」
「散歩」
「信号にもう1食(イッショク)加えてみようよ。」
想像することが行き止まりが笑うよ
「ナッツナッツナッツとつぶやいた」です
全勝する。丸く菜(ナ)る
8月21日
「オーガニック。」(ひとりごと)
「コンプライアンス」
フォローしてください。どこからが道
「ストリートってどこ?」はマシンボイスで
人生ゲームのルーレットしかない
ブロンドだって果汁だから
8月22日
「風が強い日」
ヘッドフォンに見られても観察?
聞こえるが聞いているをなでて
「考えようとしても無駄だよ。」は
デニッシュの「あの!」渦巻き
8月23日
「フィクション」
「なんか予感がする。」で予感する。
ループだん。신라면(シンラミョン)する
セイロ開けたら肉まんの湯気を
空間を破ってみた
(注)シンラミョン: 辛ラーメン(映画)
8月24日
「固定」
ヘヴィーでラベルならよりかかっても
大丈夫すぎるビルを「単細胞!」
ハグしながらアバターだったんだよ
ログインはキミドリ(いろ)
追記
二日間の、ラウンラウンラウンドゥ
8月28日
「紫色」
マスキングテープが、マンボが猿(サル)
どこから始めればよいのか。」に
フォローされ続ける、ポテチらしく
レンズを溶かして恋
「剥がしたアト」
横に「もやし、もやし、どこだっけ。」
ブルガリアで想像してみる
観察眼が向こう岸まで
スーパーマーケットはキャンセル
8月29日
「旅」
「きっとどこかにいくんだよ。」キウイ。
左。右。メロンパンをまっすぐ
サフランライスをしたのち
抽選だ。シラサギ!?
8月30日
「自己顕示欲」
暫定的に「始まらないの?」
グラデーションなんだ。坂だったよね
どこにゆくのだろう。ブランケット
呪文?「環状線よ。」歯磨きよ!
ずんずんおじさん ずんずんと Ⅱ
速水 晃(兵庫)
小雨降る向こうからおじさん
薄衣のカーテン 頭で振り分けずんずんずんと近づいてくる
駐車場の車にいるわたしに気づかず
(こちらも 声をかける機をのがし)
駐車場を横切り道路に出てディスカウントショップの前に
(車の窓を通して 動画のようにおじさん揺れている)
向かいの小学校運動場は5、6年生合同で
5列に並んで色ちがいの旗もって列ごとに上げたりおろしたり
指示にあわせ動作を繰り返し繰り返しさせられているように
おじさん 歩幅と腕の振り腰と頭の傾斜角度さだめたように
1・2・3・4 2・2・3・4 聞こえてくる号令にのせられ
(運動会は1カ月後に行われるのだろう)
立ち止まらない 振り返らない 視線をあげない
左手にバトンではない折り畳みの雨傘とタオルにぎり
半袖半ズボンスニーカー
軽快に 脚をあげて通り過ぎる
(背中のザック 酒のあても入ってるだろう)
子どもたちは集合・解散
ひとかたまりで校内へ流れていく
ずんずんと行っておじさん 照り返す頭は公園の
緑に萌える垣根の向こう
ずんずんずんずんずん ずん
と行って 消える
運命 Ⅱ
松村信人(大阪)
―――タケヒコが・・・・・
と言ったあとしばらくの沈黙
―――亡くなりました
老婦人の消え入りそうな声
遺体は郊外の古アパートの一室
死後一週間
現地警察からの連絡で義母が立ち会った
あの田園調布の高級住宅街の一角
瀟洒なマンションで一人暮らしを満喫していた
わが友人の変わり果てた様子は聞くに堪えなかった
塚口駅にほど近い新興住宅にあった実家の二階
学生時代は彼の部屋によく転がり込んだ
階段を上がったドアの前に夜食とかが運ばれてきたが
家人と顔を合わせることはなかった
父親を激しく憎悪し義母とは口をきくこともなかった
もう何年が過ぎ去ったのだろう
阪神淡路大震災のあと生まれ育った神戸の地をひそかに訪れ
実家にも立ち寄らず誰とも会わず
ただ被災地をさ迷い歩いていたという
消息を知りたい人がいたからなのだろう
老婦人の声の主は義母だった
声にはお互い聞き覚えがあり私のこともすぐに悟った
見るも無残な室内に連絡用として私の携帯番号が書き残されていたという
とはいえ気づいていたのではなかったのだろうか
ただの一度も口をきいてくれなかった息子が
生涯をかけて思い続けていた人がいたということを
―――生涯独り身で……
と言いかけて電話は切れてしまった
あるいは義母はその相手の女性を知っていたのではないだろうか
時を経てふとそんな思いにとらわれることがある
詩人の道
都 圭晴(大阪)
孤独な人に出逢えるように
地平のある限り この道を歩く
タンポポ コスモス ガーデンローズ
四季折々の人たちと挨拶をする
花言葉はなんでしたか
忘れていく言葉はありますか
今日は ネモフィラの海を 風のように渡る
孤独な人と ここは誰かから見たら地平線だと話している
光降るみずいろの花景色と 忘れられゆく時間
今日を書きとめたら 明日がやってくる
前夜
森下和真(京都)
ゆるやかに
ひとつの崩壊がまたひとつ
建造物のかけらの涙に
四角い光を背にして
こちらを向いた人影と
ガラス細工のような足を
コツコツと鳴らす人影と
出会うことも ないままに
冬の風が耳をかすめていくのは
音もなく遥か遠くへ流れていくためか
時代は手からこぼれ落ちた
足元の泥になる
目には途方もない月明かりが
森の底を叩くようにして
注がれているけれど
赤土が無惨に吹き飛ぶ時に
砂の文字は沈黙を守り
特別ではないものを忘れようとする
あの午後の曇り空は
いつか言葉になるのだろうか
折り重なった夕焼けが
熾火のように静かに燃えているけれど
いつの間にか
冷たい夜がまたひとつ
川の向こうに横たわって
永遠になろうとしている
酷暑
八木 真央(山口)
うだるような暑さは思考を下方へと押し流してゆき
流れに任せた思考は 感情と同化してささくれ始め
情緒すら平板になるばかり こうも酷暑では
何も考えられない 考えずに済む
水を飲んでも喉も躰も 後から後から乾いて潤わず
(危険な暑さ)の文言を連日のように耳や目に受け
庭の鉢植えは草花が茶色く末枯れ 変わり果てる
そのような暑さだから 何も 考えられない
熱せられる街の絶叫 危険の中を逃れ得ぬ人の絶望
心の底から求め渇望する人々の願いのようなものも
私の眼前に立ちのぼる陽炎が遮っているのか
直射の眩しさ熱さに耐えきれず閉じる瞼のせいか
不安定なゆらゆらした思考で 考えず 聞き流す
(ひまわり)の事も 長引くあおりは拒否したいと
世界は冷房のもと分厚い衣をそれぞれに着込み始め
私も今夏は家に籠り ひまわりの背丈など 見ない
うだるような暑さの中 ひたすら冷房の下に 居る
冷房の下 今一瞬を生き延びる私が 微熱のように
じくじくする その微熱に舌先が渇いて 氷を含む
噛み砕きながら のぼせのような蝉の合唱が今夏は
少ないと思う 先程から ケーンケーン と何かの
甲高い音が響く 裏山から響く得体の知れぬ それ
しかし私の耳はそれを遮断し 恐怖心はそれを空耳
にして排除する 切迫して 背筋の寒くなるような
生き物が発するらしき音 暑さと恐怖は私の思考を
容易く溶かし 動くな 動いても 成るようにしか
成らぬから と囁く が 本当に底冷えする恐怖は
甲高い声や貫く音を聞く永劫めいた刻より 寧ろ
そのような音声の聞こえなくなる瞬間から 始まる
渇いた舌の欲するままに 私の口は次々と氷を噛む
奥歯に感じる音 氷塊が砕け無になる音 この音は
私の体内音か 存在が囓られ砕ける痛みの音か
微熱を帯びる空洞の眼も 冷えた洞穴のような耳も
(余所事の痛む音)を物語の如く意識下に溶かして
こうも酷暑では を 乗り切る自分の熱量が 寒い
<長編詩特集>
万葉集と水木しげると北村太郎(資料を調べる詩)
小笠原鳥類(岩手)
水木しげる『妖怪大百科』(小学館、2004)は、1974年の『妖怪なんでも入門』を「再編集」したものであると奥付のページに書いてあった。私は1977年に生まれていて、こどものころに、この、1974年の本を読んでいた。2004年の本の解説で多田克己(妖怪研究家)が、1974年の本について「数十万以上もの人びとに読まれた大ロングセラーです。」
ところで、いい現代詩の詩集にも、妖怪のような、おそろしい喜びが多いのだが、売れない。売れないからダメでもなくて、売れない妖怪の、片隅の、暗い、おそろしさもある。そのようなものも私は好きだ(『妖怪大百科』の文章には、ルビが多いのだが、ここでは省略している)
ひょうすべ(妖怪の名前を、1つだけ書いた)
さて、『妖怪大百科』の「妖怪年表」に「759年 ●「万葉集」という本に、人魂のことがのった。」●。1974年の印刷の文字を今、見ると、今の印刷ではない。少し、はっきりしていない文字であることが、妖怪の喜びである。そのあと、印刷を、新しい技術で、はっきりさせたことは、いいことであるはずなのだが、妖怪は、どこかに行ったのだろう。妖怪を見たいから、今でも、むかしの印刷の本が読まれるのだろう(この2004年の本では、むかしの、1974年の印刷が見られる)
万葉集の人魂。角川ソフィア文庫の伊藤博 訳注『新版 万葉集 三 現代語訳付き』(2009)の、「巻第十六」の最後の歌「人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」。現代語訳が「人魂そのままのまっ青な顔をした君、さよう、このあいだのかのあの君が、たった一人、ふわりと現れてこの私に出くわした暗い雨の夜、あの夜の葉非左、ああぞっとする、とても忘れられない。」ここでも引用のルビを省略している。現代語訳で「さよう」や「ああぞっとする」のように追加された要素が多いとも思う。現代語訳だけ読んで、今の小説もしくは詩のように楽しむという、間違った喜びもありうる(間違っているから、片隅の喜びである)
角川ソフィア文庫に、この歌の「葉非左」は「訓義未詳。」という註がある。調べることには、妖怪を調べるのではないとしても(そうであるのだとしても)、何について調べるのだとしても、おそろしい喜びがある。どこまでも深く行ってしまう恐怖。佐竹昭広・木下正俊・小島憲之『補訂版 萬葉集 本文篇』(塙書房、1998)では、この歌は「人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之雨夜乃 葉非左思所念」、ルビが「ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの」そして「葉非左」(注「定訓ナシ」)にルビがなくて、「しおもほゆ」。この本も、今、見ると、いにしえの活字であることが、おそろしい喜びだ
この歌については少し現代詩手帖に文章を書いたことがあって、現代詩文庫『小笠原鳥類詩集』(思潮社、2016)にも再録している。そして、現代詩文庫が出たあとで知ったことが1つ。北村太郎『うたの言葉』(小沢書店、1986)は、日本経済新聞に連載した、詩・短歌・俳句についてのコラムをまとめている1冊。「葉非左」という文で、この歌「人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」を引用していた(青にルビ「を」)
北村太郎は好きな詩人で、知らなかった私の不覚であった。おそろしい。「いかにも不気味なうたいぶりである。ところで「葉非左」は難訓で、意味不明なのだ。それがなおさら恐ろしさをかきたてる。ハヒサ、ハヒサと呟いていると、なんだか背中がうそ寒くなってくる。」謎の言葉が、詩であり、妖怪だ。水木しげると北村太郎が、同じ1922年に生まれている、と書くことで、何かを言うことができるだろうか。水木さんの本を読むのであれば北村さんの本も読もう、と言えばいいのかな
中村雅信映画『生埋めにされるフィルムたちに』(1989年12月 139分)への追憶
藤井晴美(東京)
「作品という棺桶に
納まってくれれば
一番よいのだが
たやすいことではない」(『生埋めにされるフィルムたちに』字幕から、以下字幕と表記)。
「この作品では
オリジナルの映像が
8㎜のものは1969~1989
16㎜は1979~1988
ヴィデオは1979~1981
それぞれの期間に撮影されたものを
使用している
それらは
作品に使用されなかった
あるいは
作品が構想されなかった
ものたち」(字幕)。
生埋めにされるフィルムは、結局生埋めにされずに作品化されてしまったが、いわゆる作品ではなく、いわば時々刻々と変化する末来の映像のごときものなのかもしれない。しかもそこにはある種の生臭さが漂っており、そのことがこのフィルムをある犯罪に結びつけているように思われる。
盗み撮りした少女のスカートの中のパンツ、
その後有名になった男、
その後亡くなった男、……
そして恐らくこの作品の、何回も反復される架空の部分を構成するモデルに使われた少女達こそは、実は現実に殺害されて埋められた被写体だったのだ。
見たこともない若い男の周りを回って撮っている。
「このひとは
有名になった」(字幕)。
後ろ向きに去り、振り向いてお辞儀をする男。顔は白く飛んでわからない。
「このひとは
死んでしまった」(字幕)。
「バイバイ」(字幕)。
「バイバイ
このフィルム達に
封印をして
引導を渡して」(字幕)。
始まって二十九分後の上記のこのシーンが、この作品のすべてを暗示し、方向付けている。彼らが現実の人間であり、虚構の世界の住人ではないこととそれは関係している。作者自身の撮りためた少女のシタイの数々をどこかの公園の裏に埋めに行くことが、この作品の動機なのだから。
だからこそ中村氏は作品最後の第四部において姿をくらますことになる。余りにも現時点に近づきすぎたためだ。
私は、映像作家の中村雅信氏に会うために、その夏彼を捜して江ノ島まで行った。そこで私は、光る波のようなフィルムに襲われる夢を見た。目が覚めると夢の中だった。
ふと見上げると、中村雅信と書いた巨大な旗が銭湯の屋根の上にはためいていた。
畳の上には、八ミリフィルムや十六ミリフィルムが無造作に転がっていた。それは変になつかしい日。なぜか私はこれらのフィルムを一つ一つ映写機にかけて見ていかなければならないと思った。彼を見つけ出すためにも。
……虫食いの虚無の穴が見えるようだった。茫漠とした人生の尻尾のようなものになっている。
(もしもし、中村雅信って? あなただれですか? でも、その声、聞いたことあるな。
藤井さんでしょ? 藤井晴海さん?
……でもそれは、ちょっと、書けませんよ。
それでいいじゃないか、漂うように書いて。
すべてはその電車と電車がすれ違った瞬間のすき間から始まっているのである)。
第二部の一シーン。確かアテネ・フランセにロブ=グリエが来ていたころ。ロブ=グリエの映画の上映会場を撮っている。ここに私が写っていてもおかしくはない。私もこのようなフィルムを撮ったような気がする。あの当時、私は一年に百本以上の八ミリフィルムを回していた。手当たりしだい撮影していたから、アテネ・フランセにロブ=グリエの映画を見に行った際、上映会場も撮っていると思うが、今となってはいちいち映写機にかけて確かめることは難しい。当時私は、中村雅信とは一面識もなかった。
第二部の一シーン。
アテネ・フランセの上映会場。客席をスクリーン側から見渡している。アラン・ロブ=グリエの映画が始まろうとしている。青っぽいコーデュロイのジャケットを着た男が前のほうから、こちらのほうに八ミリカメラを向けている。うしろの席にいた私をやはりあの時、中村氏は撮っていた。十年前のことだ。私は中村雅信の顔を知っていたが、話したことはなかった。私に関係するシーンはここだけだ。ほんの数秒間。
ほんの数秒間にエントロピーは増大し、不透明な夜は訪れる。私は思い出す。
その作品は、正に水子供養のような作品――それは写っているものがいたいけな少女の股間や紐で縛られた少女だったばかりではなく、自らの過去への遡行とオーバーラップする時間性の故でもあった。
自身の撮りためた少女のシタイの数々を、どこかの公園の裏に埋めに行く。いずれは近代(繰り返しと均質なイメージ)と言う二次的の機械で造成された公園。スカートの中や縄で縛られた中学生の女の子が写っている、一軒家の一室である畳の部屋でいらだつ十六ミリフィルムの山。中年男のネガティヴな純粋視線による、脱がしたり縛ったりする犯罪的フィルムの証拠。両腕のない裸にされた人形。少女たちのあの世での戯れ、足をひらいたり、ブランコに乗ったりしている霊的刻印は、即ち悲しみの地上を表す。フィルムをいじる捜査官のような作者の手。空元気のおどけたような音楽に対して映像は、公園や街での少女の股間を悲しく発色させる。この作者は悪い男なのだろうか、あんなに無邪気そうな女の子を盗み撮りして。(第一部)
ノスタルジックな冬へ回帰する記憶。そこから現出する鮮やかでない面影の亡霊。懐かしい青と黄っぽい段だらの胸の膨らんだ毛糸のセーターと縄。安酒を飲んでいた日々。そんな時は仔猫だけが頼りだ。暗く貧しい夜、更に古い「最初の作品」へと至る。寒々としたジャングルジムを登っている女の子や夜の街。夏の扇風機までが寒々とした風を送っている。(第二部)
建設工事現場が写っている。第一部のファーストシーンは、工事現場のクレーンだった。何か関係があるのか、あるのだろう。歩く。公園へ。これも結局作品なのだからあの盗み撮りも巧妙な演出だったのか、アッハハハハ。――そんな時代がいつか来るだろうか。フィルムを燃やすなんて殺人と同じじゃないか。男はカメラを引きずって影となる(魚眼で室内から外へ再び玄関へ)。(第三部)
個人的フィルムの公的処理、――墓標。より様式化された象徴的映像の反復。(第四部)
第二部以降、本当に未使用フィルムの羅列になっていく。屑フィルムになっていく。それを証明するかのように、ここ(第四部)で「フィクション」(お話)に穴があいてしまうのだ。確かに第一部だけでは、ウソ臭くもある。やるならやはり第四部までやる必要があったのだろう。
プスプスとどす黒い虚無の穴がフィルムのあちこちにあいている。茫漠とした人生の尻尾のようなものに、第一部「フィルムに脅かされる」以降がなっている。これは恐らくピカソの『ゲルニカ』やミケランジェロの『最後の審判』のような大作ではないだろうか。何せこの映画が傑作なのは、やはり死をとりあつかっているからである。
作家とは何か? それは経験を超越して経験に付与する能力のことだ。すなわちその能力とはこの場合、「私は映像作家の中村雅信があんな作品を作っているとは夢にも思っていなかった。これはまるで犯罪だ。そして作品は、証拠フィルムとしてもはや永久に日の目を見ることはないだろう。それは、中村雅信の数々の犯罪の一部始終を記録したものだった。彼は、それまでそのごく一部だけを使って作品を作ってきたのだった。NGの本編があるなど誰も考えなかった」ということを疑わせない真の逆説に他ならない。
死がよみがえるという逆説や反復するエントロピー増大は、近代の暗喩的産物である映画だからできる芸当なのだ。
つまり、その映画もろとも思い出の愛人のようなフィルムを葬ること。だから映画は、遺体を海に沈める錘みたいなものだ。世界の得体の知れないあらがいがたい力に対する怒りが、その一端を私にのぞき見させようとする。ルーチンの不時着。それは電子映像にかこまれた日常性の軋みであり、新しいフィクションへの端緒である。それはまた散文的つながりのない、詩というものが作られる場所でもある。そこに一本の杭を打ちこむこと。
《投稿規定》
未発表の詩。投稿料は無料。自由に投稿していただいて結構です。掲載するか否かは編集部にご一任ください。校正はありません。行数、字数は自由。横書き、できればWordファイルで下記の編集委員にメールでお送りください。メール文での作品を送っていただいても結構です。季刊発行で、3,6,9,12月の隔月10日の予定。各号の締め切りは2,5,8,11月のそれぞれ月末です。ご質問はメールにて受け付けております。
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∑詩ぐ魔(第11号)
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発 行 2024年9月10日
編 集 松村信人 matsumura@miotsukushi.co.jp
協 力 山響堂pro.
発行所 澪標