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与えられたレールを外れて

 
 私達は、与えられたレールの上を走るしかないのか。

 私達は幼い頃から、ある1本のレールを、自分ではない誰かにかけられていることがある。

それは、自分の親がかけることも、通っている学校の教師がかけることも、まったく関係のない他人がかけることもある。

そのレールとは、「真っ当に生きろ」というレールである。

彼らの言う「真っ当」とはなんだろうか。

その多くは、勉学において良い成績を残し、頭の良い高校に進学し、頭の良い大学に進学し、有名な大手企業、あるいは優良企業に就職し、安定した人生を送ることである。
なんと決まり切った、味気のない道のりであろうか。

もちろん、このような人生を送ることができれば、生活について困ることはまずないだろう。十分なお金を持ち、欲しいものはほとんどが手に入る。

しかし、このような決まり切ったレールを歩むことが、私達の人生なのだろうか。

私達は、最終的にいい仕事に就くために生まれてきたのだろうか。わたしはこれに違和感を感じる。

この資本主義社会において、仕事という行為を人から切り離すことはできない。生活するためにお金を稼がなければならないのだから、必ずどこかでついて回るものである。また、仕事で使う能力を鍛えるためとして、教育も同様について回るものである。

だが、社会の構造として仕事が避けられないからといって、それを生きる意味と勘違いしてしまうのはあまり良くないと考える。

私達は仕事をするために生まれてきたのではない。もっと人間は自由なものである。色んなところを旅行してみたり、新しい学問を学んでみたり、何をするか、の裁量は他ならぬ自分自身にある。

ここを履き違えてしまうと、過労死や自殺というものにつながってしまうのではないかと考える。つまり、仕事が「生きる意味」になってしまっているのだ。

もちろん、仕事をすることが生きがいである、という人は仕事を「生きる意味」にしてもいい。仕事が「生きる意味」である限り、どんなに仕事が積み重なっても、仕事が存在する限りは生きるのをやめようと思うことはない。

しかし、仕事を自分の「生きる意味」と思わない人は、無理に仕事を「生きる意味」にしない方が良い。やりたくもないことを「生きる意味」にし、うまくいかない場合に自分の精神を追い込んでしまうことは、どんなに損な時間だろうか。落ち込むぐらいならば、他の「生きる意味」を探せば良いのである。

現実のところ、仕事は生きていくのに必要であり、また自分の人生のうち40年を費やすものであるので、これこそが生きる意味だと錯覚しやすいのだと思うが、ここで、別の可能性に目を向け、仕事は必ずしも「生きる意味」たりえない、と考えてもいいのではないか。

仕事が最終目標ではない、と考えることができれば、仕事に就くまでの人生も、何か別の見方を持って生きることができるのではないか。

誰かが決める人生のレールに縛られることなく、自分が決めた道に進んだり、たまには寄り道をしたりすることが重要であると筆者は考える。