不十分な世界の私―哲学断章―〔32〕

 人は、例外なく「人々の中」に生まれる。つまり人は「人々の、その関係の只中に生まれてくる者」なのだ。
 そこで、人の生涯とは、人々との関係の只中あるいはその『間』において生きられるものであり、また、その死は、人々と関係する只中において訪れることになるものである。それを、誰も避けることはできないし、免れることもできない。
 人の「生と死」は、人々の関係の真っ只中にあらわれる。それが人々の関係の只中あるいは間にあらわれるということは、それがどのような形であれ、人々がそれを「目撃する」ことになる。人が、その誕生をもって人々の間にあらわれ、その生涯を人々の間において生きて死んでいくとき、それを目撃し、その事実を証言する他者が「介在する(イン・ビトゥイーン)こと」は、その人自身にも、彼を取り巻く人々にも、けっして「避けられないこと」である。
 人は、「人と人との関係の只中において、人と関係せずにはあらわれえないもの」なのである。ゆえに人の誕生、その生涯、そしてその死は、たとえどれほど「誰も関心を寄せることがない」かのように思えるものであったとしても、必ず誰かに見られ、聞かれ、そして証言されるものとなる。

 人は、「自分自身の誕生と死を目撃する」ということがけっしてできない。つまり、自分自身の誕生と死を、自分自身の生涯の中で「経験する」ということがけっしてできない。人において「人の誕生と死」は必ず、「他者の誕生と死」として目撃され、経験されることになる。自分自身では経験できない誕生と死を、他者の誕生と死を「目撃すること」においてはじめて、それが「誕生であり死であることを、認識することができるようになる」のである。
 他人の誕生・生涯・死を、私が見・聞き・証言することで、私自身の誕生・生涯・死もまた、誰か他人に見られ・聞かれ・証言されるものとなりうることを、私ははじめて認識できるところとなる。私自身がまず、他人のそれを見る=目撃することで、「…私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在する…」(※1)のだと、私ははじめて理解できるようになる。しかしもちろん、それはただ単に「同じものを見・聞き・証言する」ということではない。私自身が見・聞き・証言するのは、他者の誕生と死であって、自分自身の誕生と死ではない。「それ」を見・聞き・証言するのは必ず、「他者以外にはいない」のだ。その時点で、私と他者はすでに「同じものを見ることを許されてはいない」のである。私は、私自身の誕生と死を、ついに見ることも証言することもできない。私は、私自身の誕生と死について、必ず「他者による目撃と証言に依存しなければならない」のである。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第二章7 志水速雄訳

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