イデオロギーは悪なのか〈18〉

 個々の時代、あるいはその個々の時代を生きる人々と、その個々の時代の「支配的なイデオロギー」との関係において、まさにその関係を支配するイデオロギーに促され導かれた、個々のイデオロギー的諸活動の主体として、彼ら現実に生きる人々自身が、その個々の現実の中で現実的な具体性を持っているのだ、あるいは持つことが「できる」のだということ。
 この「イデオロギー的なトラップ」に、人々の誰もが引っかかってしまっている。
 マルクスは次のように言っている。
「…例えば、ある時代(…あるいはその時代の人々=筆者補足…)が、自分は純粋に「政治的な」あるいは「宗教的な」動機で規定されていると思い込んでいるとすると、----「宗教」や「政治」というものはその時代の現実的な諸動機の形式にすぎないのに、----その時代の歴史記述家はこの臆見を受け入れる。こうした一定の人々の、自分たちの現実的な実践についての「思い込み」や「表象」が〈現実の〉唯一の規定的・能動的な〈本質〉力に転化される。…」(※1)
 自分たちの現実的な実践は具体性=現実性を持っており、それこそが「唯一の本質」であり「真理」であるというように転化=倒置される。それは実はそのようなイデオロギー的な関係の内部で、そのイデオロギー的な関係の仕方・様式・形式を通じて見出されているイデオロギー的表象であるのにすぎないのに。
 しかしこのように、「すぎないのに」というように考えてしまう限りにおいてはやはりまた、そのようなトラップに絡め取られてしまっているのではないだろうか?とアルチュセールは考える。
「…マルクスにとってイデオロギーとは想像上のでっちあげであり、無意味な空虚な単なる夢である。そしてこうした夢は充実し、かつ実在する唯一の現実の、すなわち自己の存在を物質的に産出している具体的で物質的な諸個人の具体的な歴史という現実の《昼の名残》によって構成されている。(…中略…)イデオロギーの歴史はイデオロギーの外にあり、その外にある歴史だけが、つまり具体的な諸個人等々の歴史だけが存在するのである。…」(※2)
 「具体的で物質的な諸個人の、具体的な歴史という現実」は、イデオロギーにおいて表象されている具体性とは別にある、あるいは「その外にある」のだ、それこそが「人間の真の歴史」なのだ。
 もし、そのように考えられているのだとしたら、言うまでもなくまさしく「それがイデオロギー」なのである。

 アルチュセールの見立てによれば「初期マルクス」は、まさしくそういった「ドイツ・イデオロギーの、イデオロギーの領域の内部」にあった。そしてまさしく『ドイツ・イデオロギー』という書物は、その領域圏から脱するための一つの「思想上の断絶」であり、その記念碑でもあるのだろう。
 しかしそうでありながら、むしろそのような「断絶のさなか」にあるがゆえに、マルクスがその思想上で関係していたイデオロギーは、「その断絶の中」においてでも引き継がれていたのではなかったのだろうか?
 アルチュセールは、『ドイツ・イデオロギー』の中にマルクスが記した、「イデオロギーは歴史を持たない」という一つの定義に注目する。
「…「イデオロギーは歴史をもたない」という(…中略…)公式は『ドイツ・イデオロギー』の一節の中にはっきりと見うけられる。マルクスは道徳(およびイデオロギーの別の様々な形態ということが言外に含まれている)と同様、形而上学は歴史をもたないと述べたが、彼はその形而上学についてこのことを表明していたのである。…」(※3)
 マルクスが「イデオロギーは歴史を持たない」と言っているのは、つまり「イデオロギーは現実を持たない」ということであり、「現実を持たないイデオロギーは、現実の歴史を持たない」ということなのだろう。
 それに対してアルチュセールは、イデオロギーはその機能に促され導かれた物質的な関係において活動する主体が存在する限りにおいて、それぞれ物質的な、すなわちそれぞれ「現実的な」歴史を持つのだと考える。ただ、「イデオロギー一般は歴史を持たない」というのは、そのイデオロギーの「機能それ自体」は歴史を持たないということだ、と考える。
「…イデオロギーの特質はひとつの構造と機能を備えていることであり、こうした構造と機能はイデオロギーを非歴史的な、すなわち歴史遍在的なひとつの現実にすることである(…中略…)ここで歴史遍在的という用語は、イデオロギーの構造と機能が同一不変の形をとって、歴史全体と呼ばれているものの中に現存しているという意味において(中略)使われているのである。…」(※4)
 イデオロギーは、その「構造と機能」言い換えればその「形式や様式」において、それ自体としては「同一不変の形で、歴史全体に存在する」のであり、その構造・機能・形式・様式の「歴史遍在性」あるいは「一般性」において、「非歴史的」なのであると言える。つまり「歴史のどの時点」においても「同一不変」な、「イデオロギーという、構造・機能・形式・様式」を持って現れるがゆえに、そのように「一般的に現れるものとしてのイデオロギー一般は、歴史を持つことがない」のだということになる。
 しかしながらその、イデオロギーの機能・構造・形式・様式に促され導かれた「イデオロギー的関係の主体」が、イデオロギー的諸活動において取り結ぶ「物質的な諸関係」において、イデオロギーは物質的に、つまり現実的に「歴史の中に現れる」ことになる。
 例えると、「個々の」時間は、その中において現実的に活動するものがある限りにおいて、現実的かつ「有限」であり、そのように有限で現実的な「歴史」を持つことになる。そして「歴史を持つ」ということは同時に、「終わり」を持つということでもある。
 だがしかし、「時間」という機能・構造・形式・様式は、同一不変に遍在的かつ「無限」であるがゆえに「個々の歴史」というもの自体が成立しない、よって「個々の歴史」を持たない、すなわち「終わり」がない、という具合である。そして、「個々の時間における現実的な活動」はけっして「昼の名残り」ではなく「現にあったこと」であり、「幻想」ではけっしてありえない取り消すことのできない現実性として「歴史」を持つ、ということなのだ。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」 廣松編訳・小林補訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※4)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳

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