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イデオロギーは悪なのか〈1〉
イデオロギーとは一般に「特定の政治的な信条や主義主張である」というように考えられていることが多いだろう。そもそもはナポレオン・ボナパルトが自身の反対者に対して「イデオローグ」と揶揄したところから世に広まったとも伝わっている。要するに、そのような口が達者なだけの頭でっかちの連中など信用ならん、ということだ。
一方でマルクスは、書き上げた後「鼠に食われるままにしておいた」その書物の冒頭で、ドイツに
イデオロギーは悪なのか〈2〉
イデオロギーは虚偽であり幻想であるという非難に対して、「イデオロギーは現実化される」とアルチュセールは主張する(※1)。それどころか、イデオロギーはむしろ現実化されてはじめて見出すことができるのだ、と。逆に言うとイデオロギーは、もし現実化されないのであれば誰もそこに(たとえ誰の「頭の中」だとしても)イデオロギーが「存在する」などということを知ることができないのだ、と。
イデオロギーは現実化され
イデオロギーは悪なのか〈3〉
一般に、人間の現実的な生活においてイデオロギーがどのようにして影響を及ぼしているかを考えてみよう。
社会的な生活を営むそれぞれの人たちは、彼らのそれぞれの現実生活において、自分がその社会のなかのどこにいるのか、また自分は社会のなかで誰と何をしているのか、そしてそのような自分はその社会において何者なのか等々というようなことを、その社会の「支配的なイデオロギー」の現実化でもある、さまざまなイデオロ
イデオロギーは悪なのか〈4〉
人が社会集団に属することにおいては、実にさまざまなことが、そしてそのさまざまなことの一つ一つが、その集団において、それに属する人たちの間で共通していることとして考えられ、またそのように共通したものとして、それぞれの人たちにおいて実際に実行されることになる。
その集団の中で、その集団に属する人たちが、その共通性について思い浮かべるとき、それぞれの人が、それぞれにおいて共通したものとしての「それ」
イデオロギーは悪なのか〈5〉
イデオロギーはしばしば、まさにその信ずるイデオロギーにもとづいて人々の間で対立を引き起こすが、ではイデオロギーは一体なぜ互いに対立することになるのだろうか?
まず結論を先に言ってしまおう。
イデオロギーは、まさにそれが見出されるときにはすでに対立的なのである。
反対勢力は現実を少しも直視していない、彼らの考えには現実が反映されておらず、全くの虚偽であり幻想である。人々の勢力間で対立がある
イデオロギーは悪なのか〈6〉
人々の現実に対する想像的な世界観すなわちイデオロギーが、「その想像と一致しない」実際の現実に対して、自らの世界観の正当性を主張する。想像的な世界観すなわちイデオロギーが、まさに自らの「想像としての世界」を、真の現実あるいは唯一の現実とでもいうように自ら思い込んでいるし、そのように人々にも思い込ませようとしている。それがすなわちイデオロギーの欺瞞そのものなのである。ゆえにイデオロギーとは「実際の現
もっとみるイデオロギーは悪なのか〈7〉
イデオロギーは現実化されるということについて話を戻す。
イデオロギーは現実化される、むしろ現実化されることによってはじめて見出される。しかしにもかかわらずイデオロギーは現実に対して先行している。これは一体どういうことなのか?
イデオロギーをどのように詳細に定義づけるかはさまざまに議論があるとして、それがまずは一個の表象であるということについては前提として捉えて構わないだろう。そして表象=re
イデオロギーは悪なのか〈8〉
アルチュセールは、イデオロギーについての「古典的な一つの解釈」を次のように呈示する。
「…イデオロギーの中で人が見いだす世界の想像的表象に反映されているもの、それは人間の存在諸条件であり、人間の現実の世界である。…」(※1)
このような解釈はもちろん、イデオロギーを「想像的なものである」という理由で非難することを前提とした解釈としても「古典的」であるといっていい。
もしイデオロギーを信じる立
イデオロギーは悪なのか〈9〉
アルチュセールは、「イデオロギーとは人間の存在諸条件や人間の現実の世界に対する想像である」という「解釈」について、一般に考えられるような次のような疑問を呈示する。
「…なぜ人間たちは、彼らの存在の現実的諸条件を《想像する》ために、こうした現実的諸条件の想像的倒置を《必要とする》のか…。」(※1)
人が自らのその「存在の現実的な諸条件を想像する」ためには、そのような現実的な諸条件を現実に対して「
イデオロギーは悪なのか〈10〉
イデオロギーにおいて人がそれぞれに思い描くのは、それぞれの存在の現実的な条件に対するそれぞれの関係なのだ、とアルチュセールは考える。
そこでアルチュセールは、一つの考えうる疑問を呈示する。
「…なぜ、諸個人の存在諸条件や彼らの集団的および個人的生活を操る社会的諸条件に対する諸個人の(個人的)関係について、諸個人に与えられた表象は、必然的に想像的なのか…。」(※1)
想像は現実の回り道だという
イデオロギーは悪なのか〈11〉
アルチュセールは「…イデオロギーは物質的な存在をもつ。…」(※1)と言っている。それは「イデオロギーは現実化される」というテーゼをある意味で言い換えたものでもあるが、要するに「イデオロギーは具体的なふるまいや行為において物質化=現実化される」ということである。
たとえば、「ウルトラマン」とはもちろん「想像されたもの」である。だがデザイナーがペンを持って紙にその「想像された姿」を描くとき、「ウル
イデオロギーは悪なのか〈12〉
「イデオロギーが物質的な存在を持つ」ということは、「イデオロギーが物質化する」ということとは違うのであるのはすでに言ってきたことである。
それについてアルチュセールは、「ひざまずき、祈りのことばを口ずさみなさい。そうすればあなたは神を信じることになる」というパスカルの言葉を引いて、それにいくらかの皮肉を並べた後、次のように言っている。
「…われわれは、一個の主体(ある個人)のみを考え、次のよう
イデオロギーは悪なのか〈13〉
今一度イデオロギーに対するアルチュセールの定義に戻る。
「…イデオロギーは諸個人が彼らの存在の諸条件に対してもつ想像的な関係の表象である。…」(※1)
想像的な関係を想像するのはあくまでも「個人」であり、想像的な関係に与えられている物質的な関係において、現実に対して現実的に関係するのもまた個人であり、現実的な関係において現実的に行為するのもやはり個人であり、その現実的な行為の主体であるのももち
イデオロギーは悪なのか〈14〉
人間とイデオロギーの、イデオロギー的関係の内部で、人間をイデオロギー的主体として指名し、その諸行為をもってイデオロギーを表現するように促し導く「機能」を果たすものを、アルチュセールは「イデオロギー装置」と呼ぶ(※1)。
イデオロギー装置とは、イデオロギー的関係の内部で、イデオロギー的主体のイデオロギー的諸行為を、そのイデオロギーにおいて様式化されたさまざまなイデオロギー的「儀式(=ふるまい・行