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しのぎを削った4人のレスラー、有終の美~武藤敬司引退試合~

2023年2月21日。東京ドーム。
武藤敬司引退試合。
しかしそれは、かつてしのぎを削り、一時代を築いた4人のレスラーの有終の美を飾るステージでもあった。

80年代からプロレスラーとしてトップを走り続け、数多くのレスラーに影響を与え、世界中のファンを虜にした「天才」武藤敬司。

昭和から始まり、平成を駆け抜けて、令和へ。
時代のど真ん中を「爆進」し続けたその体は満身創痍。
それでも、還暦を迎えるまでプロレスラーとしてマットに上がり続けた。

その長い旅路の終わりは、数々の名勝負とドラマを産んだ「闘強童夢」。
武藤敬司の最後の舞台として、これほど相応しい場所はない。

「介錯」を務めるのは現代を代表するレスラー、内藤哲也。
「熱い試合をやろうぜ!」その誘い文句の通り、レベルの高い、お互いの気持ちがぶつかり合う攻防だった。
そして、誰もが予想し得なかったクライマックスへ。

今回は、見る者全てに様々な想いと感情を与えてくれた、武藤敬司の引退試合について語ってみようと思う。
この日の光景は、ひとりのレスラーの最後の花道、だけでは言い表せない、壮大な「物語」のクライマックスだったのだ。

Natural Born Master(生まれながらの天才)

武藤が新日本プロレスの門を叩いたのは1984年。
同じ日に、後に盟友となる蝶野正洋も入門。
道場には、その少し前に入門した橋本真也の姿もあった。

3人は互いに切磋琢磨し、後に師であるアントニオ猪木から「闘魂三銃士」と名付けられ、新日本プロレスの未来を担う存在になってゆく。

その類稀な運動神経と甘いルックスで団体の未来を託された武藤は、早くからアメリカ修行へ出発。
多くの経験と仲間を得ることになる。

誤解を恐れずに言うが、プロレスとはエンターテインメント。
特にアメリカマット界では顕著なのだが、見る者全てに分かりやすく見せるため、「勧善懲悪」のストーリーが展開されるのが常だ。

正義の味方「ベビーフェイス」のレスラーが、悪役「ヒール」レスラーをやっつけることで、観客席が沸き立つ。
そうなると、やはりベビーフェイスに人気が集まるが、ヒールの方が人気になる事もある。応援する対象がくるくる変わるのもプロレスの楽しみのひとつ。

アメリカのプロレス界にとって、日本人は「外国人」。すなわち「敵」、「ヒール」だ。
最初はベビーフェイスとして活躍した武藤も後にヒールへ転向し、「グレート・ムタ」となった。

ムタの人気は瞬く間にアメリカ中に広がった。
忍者をイメージした装束、不気味なフェイスペイント、そして毒霧殺法。
ヒールながらもオリエンタルなイメージが、多くのアメリカのファンに受け入れられた。

帰国した武藤は、ベビーフェイスの正統派レスラーの姿と、悪の化身「愚零闘武多(グレート・ムタ)」というもうひとつの姿を使い分け、新日本のリングを席巻。
1992年、グレート・ムタとして長州力に勝利し、初めてIWGPヘビー級のベルトを巻く。

その後、1995年には武藤敬司としてIWGPを戴冠。勢いそのままに開催された真夏の祭典、G1クライマックスを制し、IWGP王者が初めてG1クライマックスで優勝するという偉業を成し遂げた。

私が新日本プロレスにのめり込んだのが1997年ごろ。
新日が提携していたアメリカのプロレス団体「WCW」で生まれたヒール集団「New World Order」、すなわち「nWo」がブレイクしていた頃に重なる。

黒いTシャツの軍団が大挙して現れ、ベビーフェイスのレスラーを次々倒しては、黒いスプレーで背中にnWoとペイントしてゆく。
日本でも有名なハルク・ホーガンを総帥とし、WWE(当時はWWF)から移籍してきたスコット・ホールとケビン・ナッシュが中心人物。
WCWではベビーフェイスをも上回る人気ぶりで、当時NBAのシカゴ・ブルズに所属し、人気を博したプロバスケット選手「悪童」デニス・ロッドマンがリングに上がって試合したこともある。

その後、蝶野正洋を総帥として「nWoジャパン」が結成され、グレート・ムタもnWo入り。
今思えば、nWoがなかったらここまでプロレスにのめり込まなかったかもしれない。
友達と武道館へ見に行き、nWoのTシャツも買って長い間着ていた事もあった。

印象に残っている試合は、1997年8月のナゴヤドーム(現バンテリンドームナゴヤ)での小川直也戦。
アントニオ猪木の肝いりで、柔道のオリンピックメダリストから格闘家へ転身した小川。
後に新日のリングからUFO、PRIDEで名を馳せる総合格闘家となるが、この頃は柔道家としてのスタイル。柔道着を着てリングに上がっていた。
元々柔道家を志して稽古に励み、後にプロレス入りしたムタ。
ゴングが鳴ると、終始小川を圧倒。見事な一本背負いを見せたと思ったら、指まで極める完璧な腕ひしぎ十字固めで小川からタップを奪って勝利。
いい所が全くなかった小川、というよりも、小川のよさを全く出させなかったムタの試合巧者ぶりが際立ち、プロとしての格の違いを見せつけた試合だった。

ムタはその後、蝶野たちとの不和が目立ち始める。
同じ年の9月。蝶野の攻撃が誤爆したことから、ムタが控室へ帰ってしまう。
しばらくすると、なんとフェイスペイントを落とした武藤敬司の姿でリングに戻ってきた。
蝶野を攻撃する…と思いきや、対戦相手にドロップキックを見舞ってフォール。
まさかの展開を見せたこの試合も印象に残った試合のひとつ。
プロレスが描くファンタジーを初めて目の当たりにした印象だった。

時代の流れの中で

2000年代になると、世間の注目は格闘技に向けられる。
立ち技格闘技のK-1、総合格闘技のPRIDEが社会現象とも言うべき人気を博す。
プロレスは、次第にその波にのまれていった。

総合格闘家へ転身する者、プロレスとの二足のわらじを履く者、プロレス最強を唱えて返り討ちにあう者。
プロレスラーの運命も「格闘技路線」に翻弄される。

そんな中、武藤は頑なにプロレスにこだわり、プロレスラーとしての道を爆進してゆく。
格闘技路線へ舵を切った新日を離れ、ジャイアント馬場亡き後の全日本プロレスに加入。
この一件はプロレス界を震撼させた。

アントニオ猪木の新日本プロレスと、ジャイアント馬場の全日本プロレス。
2つの団体がお互い意識し合い、共に繁栄していったが、両団体が決して交わることはなかった。
しかし、馬場さんの死によってその関係性が揺らいでゆく。

そんな中の武藤の移籍。
今まで交わることがなかった両団体を含む、複数の団体で交流が始まり、プロレス界も盛り上がりを見せる…かと思いきや、格闘技人気の圧力の前に徐々に衰退していってしまう。

しかし、プロレスの火は消えなかった。
武藤と相対した若手がどんどん成長し、新たなヒーローたちが次々と生まれ、新日のV字回復と共にプロレス界も再び注目を集めてゆく。

そんな荒波の中でも、武藤敬司は現役としてリングに上がり続けた。
しかし、長年の試合で蓄積した痛みは限界を迎え、月面水爆(ムーンサルトプレス)を打ち続けた膝には人工関節を入れなければならない体になっていた。
還暦を迎え、団体を渡り歩いて辿り着いたプロレスリング・ノアのリングで、最後の時を迎える決心をしたのだった。

共闘した同世代への想い

この物語に欠かせないのが、武藤と時代を共にした同世代のレスラーたち。

武藤と同じ日に新日本プロレスに入門した蝶野正洋。
彼もまたプロレスのセンス抜群で、すぐにスターダムへのし上がってゆく。
ベビーフェイスとして人気を得るが、1994年に「武闘派宣言」。今までの姿から一転、悪のヒールレスラーへと転身する。

時に相手を挑発し、徒党を組んで新日本プロレスを恐怖に陥れる存在だが、nWoブランドを日本に持ち込み新しい風を取り入れたり、自身のブランド「ARISTTRIST」を長年運営するなどビジネスの手腕も見せた。

しかし蝶野もまた、長年の闘いにより満身創痍の状態。首の故障に悩まされ、長期離脱したこともあった。
2010年に新日本プロレスを退団。フリーとなりリング内外で活躍するが、今では杖がないと歩くのが困難な状態でもある。


武藤、蝶野と「闘魂三銃士」として一時代を築いた橋本真也。
その巨漢から繰り出すパワーあふれるファイトスタイルで「破壊王」の異名を取り、多くのファンを沸かせた。
あの入場曲「爆勝宣言」が流れると、体内の血が沸き立つ感情を覚えるプロレスファンは多いだろう。

高田延彦からIWGPを奪還したり、小川直也との引退をかけた対決でプロレス中継を久々にゴールデンタイムへ戻させたりと、新日本プロレスの一時代を築いた張本人とも言える存在。

橋本はその後、団体内で独立を図ったがうまくいかず、新日本を離れて自身の団体「ZERO-ONE」を旗揚げ。他団体の選手との交流や、引退をかけた死闘を繰り広げた小川直也との共闘「OH砲」でプロレス界復権のために尽力したが、後にZERO-ONEも崩壊。

2005年、急に病に倒れ、そのまま息を引き取った。
闘魂三銃士の一人が、40歳の若さでこの世を去ったこの出来事は、本当に衝撃的だった。

闘魂三銃士とは対極の立場にあり、全日本プロレスでジャイアント馬場の「王道イズム」を叩き込まれ、後に継承した三沢光晴も忘れてはならぬ存在。

馬場さんに見出され、「2代目タイガーマスク」として全日マットに颯爽と現れた逸材。
天龍源一郎のSWS旗揚げと選手の大量離脱に直面した全日を、川田利明、田上明、小橋健太との「四天王」として盛り立て、危機を救った。
4人が繰り広げる、極限状態まで技を競い合うファイトスタイルに多くのファンが魅了され、何度も感動をもらった。

そんな中訪れた、ジャイアント馬場の急逝。
再び訪れた団体の危機を三沢が一身に受け止め、社長として舵取りを担うこととなる。

しかし、三沢には別の考えがあった。
2000年、多くの所属選手と共に全日を離れ、プロレスリング・ノアを旗揚げ。
プロレス界に新しい風をもたらし、団体も次第に人気を得て大きくなってゆく。

前述の通り、新日と全日との間には見えない大きな「壁」が存在しており、両団体の選手が相対することはなかった。
そんな中、プロレスファンは二人の天才の幻想に想いを馳せる。
「武藤と三沢、闘ったらどちらが勝つだろうか?」

全日を離れた三沢は、積極的に他団体とも交流し、今まで夢だったビッグマッチが次々に実現する。
タッグ戦ではあったが、一度だけ三沢と武藤が相対することがあった。
そして、敵対するだけではなく、ファンが夢みるもう1つの形、三沢、武藤のタッグも実現。
しかし、二人がシングルマッチで相対することはついに実現しなかった。

三沢もまた同世代の三銃士戦士たちと同じく、日に日にダメージが体に蓄積してゆく。
プロレスリング・ノアも順風満帆ではなかった。
日本テレビの地上波中継を打ちきられ、CS放送へ。
選手、そして社長業と奔走し、体は限界に達していた。

2009年6月、広島での試合中、齋藤彰俊のバックドロップを受けた直後に意識を失う。
すぐに病院に運ばれたが、意識が戻ることはなかった。

プロレスラーが試合中の事故で亡くなるのを見たのは、これが初めてだった。
しかもその張本人が、百戦錬磨の天才、三沢光晴だっただけにショックは大きかった。

ディファ有明で行われたお別れの会には、私も一輪の花を携えて参加した。
ひとつの時代が終わったような気がして、私自身も心に何かを残しておきたかった。
特設リングに向けて花を投げ入れるだけだったが、会場の周りには長蛇の列。
2つ先の駅まで列が続き、花をたむけるまで2時間ほど並んだのを覚えている。

引退試合の相手は誰に?

2022年6月。
所属するプロレスリング・ノアから、武藤敬司が2023年2月21日に引退試合をすることが発表された。

引退試合の日までの約半年、「ファイナルカウントダウンシリーズ」と称して数々のビッグマッチが組まれた。
そこには、デビューから数々の名勝負、ドラマを生んできた新日本プロレスの所属選手や、武藤と関係が深い者がNOAHマットに終結。
試合を通じて、武藤との最後の時を楽しんだ。

印象に残ったのは、2022年10月30日の有明アリーナ。
かつて武藤の付き人を務めた棚橋弘至が、6人タッグマッチながらも最後に武藤と相まみえる。
試合後、二人並んでリングサイドに座り込んで語らう。
今まで歩んできた道を確かめるように、二人で遠くを見つめているようだった。

年が明けて2023年元旦。
なんと、WWEのスーパーヒーロー、中邑真輔が来日。
かつて新日でしのぎを削った中邑が、日本武道館でグレート・ムタとの一騎打ちに挑んだ。
試合は都合で見られなかったが、ムタと試合をするためにアメリカから帰ってきてくれたことに驚いたと同時に、WWE側の粋な計らいにも驚いた。

そして迎えた2023年1月22日。
悪の化身、グレート・ムタのラストマッチ。
ここには、またも遠くアメリカから、WCWでしのぎを削ったレジェンド、スティングが来日。
最後の6人タッグマッチにムタのタッグパートナーとしてリングに上がった。

nWo時代では敵同士。ベビーフェイスの代表格だったスティングが、nWoの横暴にひとり反旗を翻し、黒と白のフェイスペントと漆黒のトレンチコート、黒く塗られたバットを持って登場。
神出鬼没のスティングは、nWo軍にもベビーフェイスの仲間にも属さない立場をとっていた。
もうとっくに引退しているものと思ったが、ムタのために来日。
フェイスペイントも当時のまま。古くからのプロレスファンを沸かせた。

グレート・ムタの引退に際してアメリカマット界も大きく動き、まさかのビッグ・マッチを実現させてくれた。
それだけ、ムタの名はアメリカにも深く刻まれていて、業界もファンも本当にリスペクトしている証だと思う。

今までの武藤、ムタの歩みを振り返るようにいくつも試合が組まれたものの、肝心の引退試合の相手はいつまで経っても発表されなかった。
武藤自身はデビュー戦の相手、蝶野を以前から指名していたが、前述の通り蝶野も満身創痍。
果たして、武藤の最後の相手を務めるのは誰なのか?

しかし、ムタのラストマッチを翌日に控えた2023年1月23日。
新日から参戦していた内藤哲也が退場しようと花道を歩き始めたその時、放送席にいた武藤が急に立ち上がり、リングへと駆け上がってゆく。

「内藤!俺の引退試合の相手、お前に決めた!」

突然の大発表。武藤が内藤を指名したのだ。

内藤哲也。新日本プロレスの現代のエース格のひとり。
そして、かつてのnWoジャパンのように、現代の新日の人気を支えるユニット「Los Ingobernables de Japón(ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン)」の中心人物。

最近プロレスをあまり見ていない私でも、内藤のことはもちろん知っている。
NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル」を見て、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン結成の経緯も知った。

同期とも言えるオカダ・カズチカが先にスターダムへ上がっていく。その後ろ姿を見ながら、内藤は自身を見つめ直すためメキシコへ。
そこで出会った「ロス・インゴベルナブレス」。
自分はもっと自由にプロレスをしていいんだ、と気づき、帰国後に日本版ともいうべきロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを作った。
その後彼がどんなサクセスストーリーを築いてきたのか、どんな試合をするのかはよくわからないが、みんながロス・インゴのTシャツを着てキャップをかぶり、会場に足を運ぶ姿を見ていると、かつての武藤のような役割を担っているのだと思う。

そんな内藤自身も、武藤にあこがれてプロレス界に入った一人。
引退試合の相手に指名され、途中まで歩いていた花道を引き返してきた。

「熱い試合をやろうぜ!」
「2月21日、空けておきますよ」

内藤はお決まりの人差し指と親指で目を見開く「アブレ・ロス・オホス」のポーズ。
そして武藤もお決まりのプロレスLOVEポーズ。
リングの中央でお互い見つめ合う姿に、会場中、いや全国のプロレスファンが1か月後の引退試合に思いを馳せた。

3人の思いを胸にリングへ

そして迎えた2023年2月21日。満員の東京ドーム。
観客席には武藤とゆかりの深いレスラー、関係者が一同に会する。
アンダーカードも、現在の主な団体から多くのレスラーが駆け付け、対抗戦とも言うべき試合が多く組まれた。

私は会場へ行くことはできなかったが、AbemaのPPVを購入。
オカダvs清宮など、多くのカードを堪能したかったが、時間がなく全試合を見ることができなかった。

仕事がちょうどひと段落し、夕食の準備に取り掛かろうとしたときに、メインイベントである武藤vs内藤が始まった。

両者の入場に先駆け、武藤と同日入門、そしてデビュー戦を戦った盟友、蝶野正洋が入場。
いつ聞いても身震いするような入場曲、ロイヤルハントの「CRUSH」。
この曲に乗って、東京ドームの花道を歩く「黒のカリスマ」の姿を何度見ただろう。
しかし、今日は漆黒の杖をついて、ゆっくり歩を進める。

リングに立つと、マイクを持ち、いつもの雄叫びを上げる。
「ガーッデム!アイアム、チョーノ!」
その一声だけで会場は大歓声。
お客さんに向けてメッセージを伝えると、リングサイドの実況席へ。
この空間は、NOAHのリングなのだろうか?かつて見た新日の闘強童夢と全く同じ。

煽り映像の後に、今日の対戦相手である内藤が入場。
黒のスーツの上に羽織っているローブには、「Gracias y Adios」の文字が。
彼なりの武藤へのリスペクトの気持ちが感じられる、最大の賛辞。

そして、リングアナの「武藤敬司入場!」の掛け声と共に、会場のボルテージが一気に上がる。
外野側に建てられたステージが色とりどりの光を放ち、流れてきたのはなんと、武藤のデビューからの歴代入場曲。
一部だけだが、次々と思い出の曲が流れる。
スペースローンウルフ時代の「THE FINAL COUNTDOWN」や、90年代を彩った「TRIUMPH」。
一時代を築いたnWoのコールまで。

入場曲は現代まで続き、ついに彼の代名詞「HOLD OUT」が流れると、いつものロングタイツに白い羽に包まれたガウンを着た武藤敬司がステージに現れた!
東京ドームは武藤コール一色。その中をゆっくりとリングへ歩を進める。

内藤と武藤。白いリングに両雄並び立つ。
いよいよ、決戦のゴングが鳴らされた!

まずは手堅く、お互いの様子を伺う二人。
静かに、冷静に技を繰り出し、受ける。
決して序盤から相手の弱点を集中的に攻めるわけでもない。
まるで二人の時間を噛み締めるように力比べ、技比べに没頭する。

すると試合が動く。
グラウンドから、なんと武藤がSTFを仕掛けた!
言わずと知れた、蝶野の必殺技。それを武藤が繰り出すとは珍しい光景。
放送席の蝶野からも思わず笑顔が溢れる。

すると、なんとあの武藤がチョップを繰り出した。
ウルフパックにキスをして天に掲げると、内藤の首を掴んでそのままマットへ!
これは…橋本のフェイバリット。「袈裟斬りチョップ」からの「垂直落下式DDT」。
三銃士への想いをリングにぶつけた!

しかし、それだけでは終わらない。
内藤の体を右側から抱え上げると、そのままマットへ叩き落とした!
三沢の必殺奥義「エメラルドフロウジョン」が炸裂!
これには、東京ドーム全員が大歓声!
そしてテレビで見守る私も思わず叫んでしまった!

会場を大興奮の渦に巻き込む武藤。
もちろん自身の必殺技も皆が期待する。
内藤をリングに沈めると、なんと対角線のトップロープに登っていく。
会場はさらに興奮。ま、まさか…月面水爆、ムーンサルトプレスを最後に繰り出してくれるのか??

しかし、トップロープ上で苦悶の表情。技を繰り出すか否か、究極の選択に迫られているのだ。
最後だから繰り出すべきか、しかしこの一発で武藤自身の将来を閉ざしかねない技…。
もちろん、人工関節が埋め込まれている両膝への負担は絶大で、ドクターストップがかかっている。

悔しそうな表情でロープを叩き、静かにトップロープから降りる武藤。
最後のムーンサルトが見られずにがっかりするファンはいないだろう。むしろ全員安堵したはず。
恐らくファン全員が、長年武藤の体のことも気にかけている。

しかし、もう1つの必殺技「シャイニング・ウィザード」は見事に炸裂!
多くの大舞台でこの技を繰り出し、ベルトを奪う姿を何度も見てきた。
それも今日で見納め。

勝負は武藤優勢に見えたが、そこは現代のトップレスラー。
武藤の渾身の技を受け切り、最後は内藤のフィニッシュ技「デスティーノ」が炸裂。
そのまま3カウントを受けることとなった。

まさに夢のような時間。
武藤自身はもちろん、蝶野、橋本、三沢の想いも胸に、リングで全てを出し切った。
受けて立つ内藤も引退試合の相手という大役を見事に果たした。
これ以上の相手はいるだろうか?と思えるほどの貫禄。自身が憧れる武藤相手に堂々と技を仕掛け、しっかりフォールを奪ってみせた。
まさに、「熱い試合」を見せてくれた。

最後に俺と闘え!

リング上でお互いの健闘を称えあう両者。
すると武藤が自らロープを広げ、内藤をリング下へ誘う。

ひとりマットの上に残った武藤。
マイクを手渡され、最後の挨拶。
39年間、プロレス一筋で爆進してきた。それを支えてくれたファンへ感謝を述べる。

試合前、蝶野は「最後は燃え尽きてほしい。灰になって、歩けなくなったら俺が肩を貸す」とコメントしていた。
しかし、武藤は熱い試合をこなしたにもかかわらずまだ余力があるようで、両足で立っている。

「まだ灰にもなってねぇや。まだやりたいことがあるんだよね」
そう言い放つと、放送席に目を向けた。

「蝶野!俺と闘え!」

あっけにとられた表情の蝶野。
東京ドームは蝶野コール一色。
武藤は放送席の後ろで見ていた新日本プロレスの元レフェリー、タイガー服部も特別レフェリーとして呼び込む。彼もスーツ姿だ。

しばらく唖然とした表情でリング上の武藤を見つめていた蝶野だったが、ゆっくりとヘッドセットを机上に置き、すっくと立ちあがった!

すると、隣に座っていた、ゲストの辻よしなりアナウンサーの肩をたたき、耳打ちする。
「俺が実況ですか?」

実況席もやや混乱する中、蝶野がゆっくりとリングへ赴く。
その瞬間、蝶野のベビーフェイス時代の入場曲「FANTASTIC CITY」が流れ始めた!
会場のボルテージは最高潮!

かくして、サプライズの一戦、武藤vs蝶野が用意された。
裁くレフェリーはタイガー服部。実況は辻よしなりアナ。
三銃士絶頂期とも言える、90年代のワールドプロレスリングが復活したのだ!

蝶野はトレードマークである黒のトレンチコートを脱ぎ、杖も置いて臨戦態勢。
タイガー服部もジャケットを脱いで二人の間に立つ。
リングサイドで嬉しそうに見つめる長州力と藤波辰爾。
それよりもうれしそうな表情の武藤。

タイガー服部の合図に合わせて、ゴングが鳴った!
二人とも満身創痍だが、リング中央で対峙すると昔見ていた試合そのまま。
プロレスラーとしての血は枯れていない。

リング中央でロックアップ。
蝶野はやや膝をつくが、それだけで東京ドーム中にどよめきが広がる。

両者が離れると、蝶野がビンタ一閃!
倒れこむ武藤を前に、後ろのロープに飛んで勢いをつけたところでシャイニング・ケンカキックが炸裂!
さっきまで杖をついて歩いていたとは思えない技のキレ!

完全にダウンした武藤。
優勢の蝶野は武藤をひっくり返し、ゆっくり右足を極めると、一気に顔面を極めにかかる。
これぞ、元祖STF。技に入るムーヴもあの時のまま!
東京ドーム中が大興奮に包まれる!

タイガー服部の「ギブアップ?」の声。
たまらず武藤がマットを叩いてギブアップ。
ゴングが鳴らされ、短いながらも胸の中に熱いものがこみあげてくるような試合は幕を閉じた。

心の中に残る「猪木イズム」

リングの中央で抱き合い、健闘を称えあう二人。
長引くケガのため事実上の引退となっていた蝶野。武藤と共にこの場で節目を迎えた。

闘魂三銃士と三沢光晴。
武藤の想いは、確かに3人に伝わった。

続いてリングへは古舘伊知郎が呼び込まれる。
今となってはおなじみの顔だが、武藤がデビューした頃に、新日本プロレス中継の実況を担当していた元テレビ朝日のアナウンサー。
武藤に捧げる「詩」を披露するという。

なぜ古館伊知郎だったのか?
古館さんのYoutubeチャンネルで、その理由を明かしてくれた。

オファーは武藤サイドから。
古館さんは「猪木イズム」を最も感じられる一人。
武藤の心の中にも、確かに猪木イズムが流れている。
そんな、猪木さんとずっと親交のあった古館さんに、最後のメッセージを語ってほしいといわれた、とのことだった。

武藤のプロレス人生、そして4人の想いも載せた素晴らしい詩だった。
全文を書き起こしたので、ぜひ読んでいただきたい。

山梨県富士吉田市に生まれし、ひとりの男(おのこ)。
入門から半年あまり、あの月面の奥義を身につけ、気がつけばアメリカマット界を席巻していた。

一体、「プロレスLOVE」とは何なのか?

この男に二元論は通用しない。
ストロングスタイルかアメリカンプロレスか。
ベビーフェイスかヒールか。
はたまたプロレスか格闘技か。
全く通用しない。

思えば、昭和、平成、令和。
時代はうつろっても、技、試合の有り様、そして、観客の声援スタイルが変わろうとも、一貫してこの男は二者択一を超えて、格闘芸術を作ってきた。

作品を造る時、必ず心は削られていく。
両の膝に人工関節を埋め込んで辿ってきた茨道。
じゃあ心は削られたのか?
団体を渡り歩き、眩いスポットライトを浴びながら、常に、志半ばで逝った橋本を思い、プロレスに殉職した三沢を抱き、昨年旅立った猪木を仰ぎ見ながら闘ってきた。
もう、限界なんてとっくに過ぎていた。

しかし、限界を超えてもなお輝き続けた夢物語。そろそろ今夜がお開きか。
そう。是、昭和プロレスの終焉なり。

さあ、ザ・ファイナルカウントダウン。
武藤。この610文字に愛を込めて。今積年の想いを込めて。
さようなら、ムーンサルト。

会場は拍手に包まれ、武藤がリングを離れる。
HOLD OUTが再び流れ、それに乗って花道を歩いてゆく。
東京ドームに轟く大武藤コール。
武藤の名をここで叫ぶのも、これが最後。

ステージまでたどり着くと、曲がフッと止まる。
「245パウンド、プロレスLOVE 武藤~敬司~!」
武藤を称える最後のアナウンス。
それに合わせて、いつものプロレスLOVEポーズで答える。

ステージのど真ん中。
スポットライトを一身に浴び、大きく手を振る武藤。
誰もが憧れた天才、プロレスラー武藤敬司の最後の姿は輝いていた。

さいごに

武藤敬司の引退ロード。
元旦の中邑戦も、ムタのラストマッチも見られなかったが、引退試合だけは見なければとPPVを購入したのだが、まさかの展開に感動で胸がいっぱいだった。

武藤だけではない。蝶野、橋本、三沢の思いまでも受け継ぎ、リング上で熱いメッセージを送った。
入場前の煽り映像でも「橋本も蝶野も三沢も、引退試合やってないんだよね。今日はあいつらの気持ちも一緒にリングに上がります」と言っていた通り、まさに「4人の引退試合」を見せてもらった。

対戦相手の内藤哲也も素晴らしかった。
あの武藤の最後の相手となると、誰しもが様々な名が挙げると思うが、現役選手としては彼以上の名はないのではないか。
それぐらいこの日に相応しい相手だったと思う。

しかし、武藤の思いは別にあった。
やっぱり、同じ時代を共に歩んできた蝶野と最後に闘いたい。
それを実現させてしまうところがまた素晴らしい。
武藤、蝶野の両者も、こんなすごいステージを用意してくれたNOAHも、「プロレスLOVE」に溢れていると思う。

私自身も、プロレスに熱中していた90年代に戻ったような気持ちだった。
昔の映像はいくらでも見られる時代になったが、あの頃切磋琢磨し、しのぎを削って輝いていた武藤と蝶野が、今目の前で熱いファイトを見せてくれた。
きっと次の若い世代にも何かしらのメッセージは伝わったと思う。

引退試合では恒例の10カウントゴングはなかった。
これも武藤サイドの提案で、アメリカでは10カウントゴングは亡くなった時の弔いで鳴らさられるらしい。アメリカと日本で活躍した武藤らしい最後だったと思う。

プロレス界にとって、見事な一時代の終焉を見せてもらった。
それでも、プロレスは続いていく。これからも、この素晴らしい文化を繋いでいってほしい。

タイトル画像は、武藤敬司さんのツイートより使用させていただきました。
満身創痍の体で、ここまで本当に素晴らしいプロレスの物語を見せてくださいました。
全日時代のTシャツ、まだ着てます!みんなあなたに夢中でした。
39年間、本当にお疲れさまでした。

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