「流浪の月」 凪良ゆう
「デジタルタトゥーという消えない烙印を、わたしと文が押された瞬間だった。けれど、それは一体、どんな罪で?」
「流浪の月」 凪良ゆう
圧倒的でした。
読み終わった後しばらく呆然として、そうしているうちに、さまざまな思いが浮かび上がってきました。
自分の中の記憶から遠ざかった、しかしながら、再確認するのを避けていた感覚。それを凪良ゆうさんによる、とてもやさしい筆致が見事にろ過して思い出させてくれました。
なので、この物語を読んでいる間中ずっと、熱いものが血液となって循環しました。鼓動が時を刻み、加速し、現実の時間を狂わせ、あっという間に最後のページを捲っていました。
そして
孤独を覚悟した者だけが獲得する、絆の強さを祝福ぜずにいられませんでした。
今まで生きてきて言葉にできない常識や規範や当たり前とされている価値観の押し付けに、締め付けられていた気持ちの鎖が解(ほど)けました。
僕は登場人物の文(ふみ)であり、更紗(さらさ)でした。
僕は孤独で居場所がない2人と同じでした。それゆえに気持ちが同調しました。ずっと瞼の表面に彼らの意識が魂の雫となって彷徨い続けました。
哀しいのか、切ないのか
嬉しいのか、寂しいのか
苦しいのか、癒されているのか
あらゆる感情が行ったり来たりしました。溜息が何層にも重なり、世俗的な視界を遮りました。
誘拐犯の男性、文(ふみ)と被害者の少女、更紗(さらさ)
それは世間が彼らを認識している言い方であり、2人はそのようには1%も考えていませんでした。
どうにもできない2人の葛藤は共鳴しあい、求めあいました。
◇
更紗は、大好きなお父さんとお母さんといっしょに暮らしていました。
友達の家族とは違い、両親は自由奔放で一般家庭のような「普通」ではありませんでした。それは更紗にとって嫌なものではなく、むしろ心地いいものであり、幸せを感じていました。晩御飯がアイスクリームなのは、最上の喜びでした。
しかし
その幸せは突如、砂の城のように波にさらわれます。跡形もなく、きれいになくなってしまいます。
お父さんが病気で亡くなり、お母さんは他の男といっしょに更紗の前から消えてしまったのです。
伯母さんの家に引き取られた彼女は打って変わって、地獄のような生活にひきずりこまれました。
いとこの男の子に、性的ないやがらせを受けるのです。
何も言えずに怯える彼女は、友達と公園で遊んだあと家に帰りたくありませんでした。友達が帰ったあともひとりで公園のベンチで本を読みました。
その公園には、いつも女の子たちの遊ぶ姿を見つめる青年がいました。
その青年は不審者のように女児たちから思われていて、「ロリコン」と呼ばれていました。
更紗は、その青年が向こうのベンチにいるのはわかっていました。怖いとは思いませんでした。それよりも家に帰る方が厭なのでした。
公園に雨が降ってきます。泣きたい気持ちの彼女。見上げると、ビニール傘を差した男の人が立っていました。
青年はなんとなくお父さんに似ていました。
怖さよりも現状の不快さを取り除きたかった9歳の少女は、19歳の大学生・文の家に行きました。
文の家は自由でした。
文は更紗に何もしません。
ただただ自由にさせました。
何も否定せず、自由にさせました。
文は厳しい家庭で育ったせいか、さまざまな規範に縛られていました。そして、そこから抜け出せずにいました。
いつのまにか、更紗の自由奔放さに染められていました。いつのまにか、2人の孤独は互いを癒していました。
テレビを見ると文は誘拐犯に、更紗はその被害者として報道されていました。
あきらかになること。
これは後半の「彼のはなし」の独白であきらかになりますが、どうにもできない孤独と恐怖と耐えがたい屈辱と羞恥だったのです。「普通」の人たちが乗ることのレールから外れてしまっていると感じていたのです。
彼の行き場のない葛藤が、造影剤を打たれたように僕の胸を悲しくさせました。
彼の気持ちはじわじわ熱く広がり、細部に渡り、解析されたCT画像のように、苦しみの原因が映し出されていました。
その原因が彼を覚悟させたのです。彼自身の分身のような彼女を、雨の中に打ち捨てておくことはどうしてもできなかったのです。
彼女が部屋でよく見る彼の様相はとても象徴的で、彼女の印象に焼きつきました。
時は過ぎ、2人は梅雨から夏を過ごしました。
そんな日々を暮らすうちに2人には隙ができていました。テレビからパンダのニュースがしきりに流れてきました。
パンダを見たいとせがむ更紗に
「いいよ」と応える文。
2人は動物園に出かけました。
2人の自由はあっさりと終わりを告げました。
警察が迫ってきます。
更紗は手を離そうとしましたが、文は手を強く握りしめます。
確保。
引き離された二人。
一般的に文のとった行動は犯罪とされるでしょう。
そのあといくら彼女が説明しても、洗脳されたとしか理解されない世間の常識に、幼い彼女は為す術がありませんでした。文がどんどん悪者にされていきました。
本当に悪いのはいとこなのに。しかし、いとこにされた性的虐待を告白するのは、少女にとって涙と吐き気が同時に襲うほど苦しく、言葉が出ませんでした。
文は少年院に。
更紗は伯母さんの家に戻されました。
またもや夜に怯える更紗。
いとこはまた、部屋にやってきました。
この部屋に比べたら牢屋のほうがましだと思った瞬間、あらかじめ手に持っていた酒瓶をいとこの頭に思い切り叩きつけました。鈍い音と悲鳴が響きました。
伯母さんの家に居ることができなくなった彼女は、児童養護施設で育ちます。
高校を卒業し、養護施設を出たあと働き、恋人ができて一緒に暮らしますが、ここでも消えない烙印が彼女を苦しめ続けます。
恋人の優しさの根源には誘拐事件のかわいそうな被害者という意識があり、
男は過剰になるのでした。
やさしいけど、文とは違い自分を締めつける恋人。
更紗の心の奥底で求めていたのは、いつも文なのでした。
その願いが叶います。
仕事の同僚たちと行ったカフェに、求め続けた文がいたのです。
更紗は動揺します。
想いを止めることができません。
恋人に隠れて、文がひとりで経営するカフェに通います。
それに気づいた恋人は豹変しました。
彼女に暴力を振るい、週刊誌に彼女の過去をリークしました。
彼女はDVとデジタルタトゥーと世間の偏見に翻弄されます。苦しめられます。それは文の身の回りにも及びます。
何も悪いことはしていないのに、どんなに正直に語っても世間の固定観念は彼らを追い込むのです。
しかし
2人の絆は強かった。
孤独を覚悟した絆とはこれほど強いものなのか。
事実と真実は違う。
世界にたった一人だけでも信じてくれる人がいる。これが真実の幸せなのだと。
わかってくれる人は必ずいる。絶対にいる。
救いは、彼らのすぐ近くにいた小さな理解者でした。
最後のページにある、更紗が問いかける言葉、文が応える言葉に胸が詰まりました。
「この物語を読めて良かった!」
そう実感できる作品でした。
闇を照らす月明かりは、2人がどこへ行こうとも、たとえどんなに遠くの国に行こうとも、いつも一緒に、どんな時も一緒に、永遠に2人の歩いてゆく足元を照らし続けるのでしょう。
2020年 本屋大賞
【出典】
「流浪の月」 凪良ゆう 東京創元社