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「本の読み方」 平野啓一郎



「ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。」

  

「本の読み方」 平野啓一郎



一貫して、この本に流れている平野啓一郎さんの読書の真髄が、スローリーディング(ゆっくり読む)なのであります。


そのために、速読と対比して遅読の効用が語られています。


僕は本を読むのが遅いせいか、速読に憧れていました。


そのために、速読を習得しようと考えて何冊もの速読本を買って速読にトライしてみました。


結果、本を読むのが速くなったのか?

否、まったくもって本を速く読むことができませんでした。


これだけ速読本を読んだのに、その効果はゼロ。


落ち込みました。なのに、本屋に行って「速読」の文字が目に入った途端、本棚に手が伸び、パラパラとページを捲っているではありませんか。あきらめられないのです。


しかし


平野さんのこの本を読んでいると、速く本を読むことに対しての憧れ・思い入れが吹き飛んでしまいました。


むしろ、ゆっくり本を味わって読むことがいかに重要で、幸福な読書をしているということに気持ちが高揚しました。


何度も何度も速読との対比で、スローリーディングの有効性を説かれています。平野啓一郎さんご自身が、本を読むのが遅いということを悩んでいたことがあったそうです。

「オレだけが、こんなに読むのが遅いんだろうか?」━ そう思い悩んだ(?)私は、ある日、恐る恐る、知り合いの作家たちにたずねてみたのだが、意外にも、「実は自分も本を読むのは遅い」という人がほとんどだった。



平野さんが言う、スローリーディングの定義とは

一冊の本にできるだけ時間をかけ、ゆっくりと読むことである。得をする読書、損をしない読書と言い換えてもいいかもしれない。


そうやって、ゆっくり時間をかけて熟読、精読することによって平野さんは「読書が面白い」と感じるようになったと言います。


そのひとつの読み方として、書き手の視点で読むということ。あるいは、書き手になったつもりで読むということ。


作家さんの多くは、この書き手の視点で読んでいるそうなんです。


それには、ゆっくり読むことが重要なんです。


『遅読』こそ『知読』なんだと。



小説家は考えながら読み、重要な一節に出くわすと本を置いて考える。


そして、また読み、また考えて、さらに読み、考えるというのをくり返すそうなんですね。


この本を読んでいくうちに、ゆっくり読むことは良かったんだと思われ(そうすることしかできなかったにしろ)、スローリーダーとしての興奮と喜びが湧き上がってきました。


ゆっくりと一冊の本を味わって読むこと。


それは

実は、一〇冊分、二〇冊分の本を読んだのと同じ手応えが得られる。これは、比喩でも何でもない。

実際に、その本が生まれるには、一〇冊分、二〇冊分の本の存在が欠かせなかったからであり、私たちは、スローリーディングを通じて、それらの存在へと開かれることとなるのである。



また、本を読む喜びが書かれていました。


本を読む喜びの一つは、他者と出会うことである。自分と異なる意見に耳を傾け、自分の考えをより柔軟にする。

言葉というものは、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点に光を当てたものが一冊の本という存在ではないかと思う。

一つの作品を支えているのは、それまでの文学や哲学、宗教、歴史などの膨大な言葉の積み重ねである。

そう考えるとき、私たちは、本を「先へ」と早足で読み進めていくというのではなく、「奥へ」とより深く読み込んでいくというふうに発想を転換できるのではないだろうか?

小説を読む理由は、単に教養のため、あるいは娯楽のためだけではない。人間が生きている間に経験できることは限られているし、極限的な状況を経験することは稀かもしれない。

小説は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第である。


結果的に僕はゆっくり本を読むことしかできなかったわけですが、一冊の本を味わって、わからない言葉や読めない言葉を調べたりしながら、何ページも戻って物語の筋を確認することによって、『遅読』が『知読』になっていたんじゃないかと振り返ることができました。


1冊の本を読むことで、何十冊分にも値する読書になっていることを、これからは意識しながら、本をゆっくり味わって読んでいきたいと思います。

ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。



【出典】

「本の読み方」 平野啓一郎  PHP文庫


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