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木村花夭折事件について(3)

     せんだってnoteで『木村花夭折事件について(1)』という記事をかいた。 これは、その夭折事件についておもったことをツイッターでたてつづけにさえずり、そのツイートどもを引用のかたちで順番どおりにならべて記事のほねぐみとしたものに、いくつかのことをかきくわえたものだ。
     いまこの記事で以下に引用のかたちでならべるツイートたちは、せんだってのその記事にならべた諸ツイートのあとにさえずったものなので、この記事はいうなればまえのその記事のつづきにあたるといえる。 かきくわえがあるのもまえとおなじだ。

     誤字・誤記がある。 まず「マスミコ」ではなくて「マスコミ」だ。 「コミ」でなければならぬはずが「ミコ」に。 また「あんじょぅ」というのは「の」のぬけたまちがいで「あんのじょぅ」がただしい、すなわちこれ脱字だ。 かきなおし・さえずりなおしができないのはツイッターのあきらかな欠点・短所だよね。

     スマイリーキクチや安田純平【やすだ・じゅんぺい】らのばあいと木村花【きむら・はな】のばあいとの2つをもしもならべて論じたければ、その2つのちがいをハッキリちがうとみとめた上ででなければなるまいよね。 でなければ読者をまちがいのおとし穴におちいらせることになる。 ひょっとして、そのおちいらせることこそがねらいでくだんの記事どもをつくってるのか? まさか? しかし、もしもそうだとすれば、もはや話にも何もならぬわけだが。 いずれにしろ、ちがうもの同士をいっしょくたにし、単に「ネットの誹謗中傷」というだけのズレた、しかし俗耳にはたいへんうけいれられやすいであろう1つのワクにことのすべてをおしこめて片づけてしまうあつかいは、その結果がどちらにころぶにしろ、「死者ぇの冒涜」にしかならぬよね。

     このさえずりの内容で気をつけるべきは、サルトルは『聖ジュネ』でジャン₌ジュネをいわばホメてることだ。 というか、ある種の最大級の肯定をもってサルトルはジュネを評した。 題に「聖」の字が「ジュネ」のまえについてるのからも、なんとなくはそれがわかるっぽいよね。 にもかかわらずジュネはその徹底的評論で一時的にだが断筆せざるをえなくなる。 これが、ジュネの〝空白状態におちいった〟などとされるできごとだが、そのへんのくわしいことはネットでたとえば「サルトル」「聖ジュネ」「ジャン・ジュネ」などの語句をキーワードにけんさくすれば関連情報にすぐにたどりつけます。 世界の文学史においてこのできごとはいまも有名だ。 サルトルの徹底的な分析・論評はジュネにふかくつきささり、一時的にせよジュネの創作する力を完全に殺いでしまった。 すなわちあいてを最大限にほめる内容でも、まじもんの分析・論評というものは、そのマトにされたひとの力をおおきくうしなわせてしまうことがあるってことのこれは証拠としてのできごとでもある。
     木村花の身のうえにおきたこととそれとが本質的におなじだというのは、木村になげつけられた誹謗中傷・罵詈雑言に、当のマトにされた本人もが「ただしい」とみとめざるをえぬ成分がふくまれていて、この成分が故人をふかくつきさしたのがジュネとおなじだったってはなしだ。 故人がかきのこした文言から、それらが「ただしい」成分ぶくみだったことがハッキリよみとれる。 ただジュネのばあいは創作をつかさどる内的・部分的な1つの別人格だけが〝一時的にころされた〟にすぎぬのに対して、木村のばあいは心身ともの全人格が〝すっかりころされちまった〟というのが両者のおおきくちがうところなのだといえよう。
     いくら強烈・激甚の誹謗中傷・罵詈雑言でも、そのマトにされた本人に〝ささる〟成分がもしも1コもなければ、木村花もきずつきはしなかっただろうし、したがって死にもしなかっただろう。 だからこの件で問題なのは、いわゆる誹謗中傷や罵詈雑言などの、非常識な用語・発言内容などでは本質的にはない。 だれの目にも誹謗中傷や罵詈雑言ではない語句・表現だけでかいてある文章で、かつ、その内容が正確で妥協のない批判だったら、そのマトにされた本人にふかくつきささり、その本人を自死させるばあいはありうるってはなしをしている。 この論点をこの件の議論にふくめなければ、議論はただの中身スカスカのばかばかしいものにしかなりえぬであろう。 そしてそれでは故人にむくいることにもならない。 問題は「誹謗中傷かどうか」「罵詈雑言かどうか」ではないので、ただ1つ「番組制作責任者・テレビ局は出演者に対する必要なめんどう見をしたか否か」だけだとおれがいうわけも、このこととつよくむすびついている。
     それとも何だろうか? 誹謗中傷や罵詈雑言の語句・表現にこころをさされてだれかが自死においこまれた事件はいまわしくてかなしいが、誹謗中傷や罵詈雑言の1つもない語句・表現にこころをさされてだれかが自死においこまれた事件は、〝正確で徹底的な分析・論評〟のかがやける勝利であり、称揚・賛美されるべき偉業であり、さされた死者など1介の敗残者にすぎぬので、ただの〝しんでよかったやつ〟でしかないってことなのだろうか? ちがうだろ。 だが問題を誹謗中傷・罵詈雑言だとするかんがえ方は、けっきょくはそれでしかなかろう。
     このあたりのことをかんがえているときおれのあたまにおもいうかぶ1つは、いきなりとっぴな話題になって気がひけるが、あの『羊たちの沈黙』の主役である大量殺人犯で天才的精神医学者のハンニバル₌レクター医学博士のことだ。 自分がころしたあいての人体を高級料理の材料にしてむさぼる世界的に有名なあの社会病質者の架空キャラ。 レクター博士は『羊たちの沈黙』のなかで最初のうちはUSA国 ボルチモア州立精神病囚人更生施設の地下牢に収監されている。 ある日そこへ、FBI訓練生のクラリス₌スターリングという名のわかいおんなが特別任務をさずけられてたずねてくる。 このとき、レクター受刑者のすぐとなりの独房に収監されているミッグスという受刑者が、C₌スターリングのかえりぎわに房内から彼女へとんでもない非礼をはたらく。 そこでレクター受刑者はミッグス受刑者に罰をあたえる。 その罰とはすなわち、房をくぎる壁ごしにひと晩じゅう何ごとかをミッグス受刑者にささやきつづけることで、レクター受刑者はミッグス受刑者を自殺においこんだのだ。 ミッグス受刑者は舌をかみきった。 レクター受刑者はきわめて知的であり、そして品位と礼節を最大限におもんじるから、ミッグス受刑者へのささやきでも、誹謗中傷や罵詈雑言をなげつけはしなかったであろう。 あくまであいてが理解できる、そして理路整然としたことばでの〝説得〟によって、おおきな1つの〝納得〟を、レクター受刑者はミッグス受刑者にもたらしたのにちがいない。 このやりかたでひとを自殺においこむのはレクター博士には朝めしまえなのだそうだ。 架空キャラとはいえ、おそろしいことだ。 誹謗中傷や罵詈雑言などの語句・表現がいっさいないことばのつらなりだけであいてを自死においこむというばあいのことを前記したが、このばあいをおれは脳内で「レクター型」などとおもっていたりする。 余談だが、レクター受刑者とミッグス受刑者とのあいだにおきた架空のできごとは、ひょっとすると前記のジャン₌ジュネとサルトル『聖ジュネ』とのあいだにおきた現実のできごとにもとづいて小説家が空想のつばさをおもいっきりひろげてつくりあげたことだったりするのだろうかなどという想像もあたまにうかぶが、そこまではさすがにうがちすぎであろうか。
     木村花の事件について、ことを誹謗中傷・罵詈雑言だけにしぼってさわぐのは、レクター型の憎悪人間から被害者をまもることにはつながらない。 もしも誹謗中傷・罵詈雑言への取り締まりをひたすら強化するだけなら、ぎゃくにレクター型の憎悪人間を〝そだてる〟結果にさえおちいるおそれがあろう。 というのはつまり誹謗中傷・罵詈雑言の語句・表現をぜんぜんつかわずに有名芸能人のだれそれをネットのかきこみだけで自死にまでおいつめてのけるという、まさにレクター医博のような悪魔的天才のネットの名なしがやがてあらわれてくるんじゃないかと想像するからだ。 誹謗中傷・罵詈雑言が違法にされてダメだとなれば、それにはけっしてあてはまらぬ語句・表現ばかりをもちいてことを仕とげてやろうという〝悪魔のくふう〟をかんがえはじめるやつが当然あらわれるだろうからだ。 しかしそんなのがあらわれたとしても、もとよりそいつはそいつなりの〝分析・論評〟をネットでかきこんでるだけだということになるので、とりしまることはできない、とりしまる理由がない。 したがって、そうなれば、そのような悪魔的天才があるときだれかを〝みごとにしとめて〟自死においこむことに〝成功〟したりすると、ネット民の1部がそいつのことを1種の〝英雄〟として大々的にもてはやし、称揚・賛美のことばのどしゃぶり雨をふらしまくってネットの〝まつり〟がおきたりもするのだろう。 そんな炎上さわぎのなりたつ未来がおれにはおもいうかびもするが、はたしてこれは空想次元ですむだろうか? すめばよいのにと心底からおもうのだが。
     だがいかに悪魔天才的なレクター型の攻撃があっても、もしも番組制作責任者・テレビ局による出演者への責任あるきちんとしたこまやかなめんどう見がぬかりなくしっかりおこなわれてさえいれば、ただそれだけで、どの出演者をまもることも、まずふつうにできるであろう。 もちろん誹謗中傷・罵詈雑言をもちいた攻撃からもそれで出演者をまもることができる。 つまりどちらの型の攻撃に対してもそれは絶大に有効であろう。 そしてひとのことばにもろに影響をうけやすい木村花型のキャラであればあるほど、むしろそれゆえにこそ、そのまもりは絶大に有効となるだろう。 当然のことだ。
     この件の問題の核芯は誹謗中傷・罵詈雑言にではなく、番組制作がわによる出演者へのめんどう見の有無ないし適否だとおれがいうわけの1つは以上のようなことでもある。

     テレビ放送による言論・表現の自由がわが朝にあったことは歴史上まだ1どもない。 キリスト暦1953年にテレビ放送がわが朝ではじまって以来これまでにただの1秒間も、その自由がわが朝にあったためしはない。 テレビ放送による言論・表現の自由は東京政権の国家権力によっていまもまだほぼ全面的に弾圧されっぱなしのままなのがわが朝の現状だ。 いったい、この先いつになったらその自由が わが朝に実現するだろうか? ひょっとすると何百年もさきになるのではないか? それともけっきょくその自由は1ども実現せぬままに、激動する国際関係のあらなみのなかで、いずれかの超大国にでも徹底的に侵略されるなどしていまの国家そのものが滅亡・全壊して一切がついえさるなどの〝しめくくり〟になるのだろうか。
     それはともかく、いまのわが朝では、テレビ放送による言論・表現の自由は、ほんのひとにぎりもいない、ごくわずかな、きわめてまれな〝えらばれた〟れんちゅうだけが、それを享受するたちばにありつける。 すなわちいちじるしく極度の独占・寡占の状態に、その自由はおかれている。 すぐうえに引用したさえずりの「番組制作責任者・テレビ局」は、その自由にたまたまぐうぜんありつくことができたれんちゅうのそのまたさらに1部だ。 東京政権の政策としてあえて意図的につくりだされているにすぎぬ独占・寡占された自由を享受できる身になりあがれただけなのだから、そういう特別のたちばにふさわしい人間としての実力などはそもそもひとカケラもあるわけがないのにかかわらず、身のほどしらずのカンチガイを俗物・小人につねのこととしておこしているために、鼻もちならぬ傲慢な生活態度が骨がらみになってしまっているのであろう。
     いまのわが朝における「有名人」はひとりのこらず〝テレビ出演者〟であり、そしてすべての有名人に対して世にひろくふかく黝々とわだかまっている激烈な憎悪の根源こそ、このテレビ放送による言論・表現の自由が独占・寡占されている事実そのものだ。 この独占・寡占が全面的にとりけされ・うちけされて完全な自由が実現するまで、有名人たちに対するその激烈な憎悪が世のなかからきえさることはないであろう。 どのようにことばをあやつってひとびとをごまかそうとも、その激烈な憎悪が人民のこころのおくそこの根っこの部分からきえてなくなることはないであろう、独占・寡占をすっかりやめて真の民主化・自由化が世におこなわれてそれがあたりまえでふつうのことになるまでは。 なぜならそのような基本的で単純きわまることがらについて人民のこころのおくそこまでもだましとおすことなど、だれにもできるものではないからだ。 ひとをばかにするんじゃねぇってはなしだ。
     こんなことは初歩の初歩、イロハのイにあたる事実にすぎぬのだが、木村花の件に関してこれを指摘するいわゆるご意見番はいまのところひとりもいない。 ただのひとりも、だ。 なげかわしいにもほどがあろうとはこのことで、まことに絶望をあらたにさせられるばかりだが、そうしたご意見番どものざまが故人のたましいにむくいることができてねぇばかりか、それをうらぎってさえいることは1つハッキリここでいっておく。 あのれんちゅうはひとりのこらずうらぎり者である。 もっといえば「故人の」をこえて「人民全体の」うらぎり者だ。 これもハッキリいっておく。
     やれやれ。 あと何人しねば、この独占・寡占の非民主的な野蛮を「あの」ご意見番どもがおおっぴらに攻撃しだすであろうか? それともそんな日は永久にこぬであろうか、あと何人が死のうとどうしようと? まぁでもたいがいはそうなのであろう、ああいうご意見番なんていういまどき恥しいやつらはね。

     誤字・誤記がある。 「業績をのダシに」の「を」はいらない。 けしわすれだ。 かきなおし・さえずりなおしができぬのはツイッターのあきらかな短所・欠点だよね。
     このさえずりで気をつけねばならぬ1つは「憎しみの」であって「憎悪の」ではないことだ。 「憎悪」と「憎しみ【にくしみ・ニクシミ】」との2つをハッキリわけておれはあらわしている、かんがえている。 「憎悪」とはニクシミとワルギ【悪気=悪意】とがわかちがたくとけあい・まじりあっているものであろう。 算数の式をつかえば
憎悪【ぞうお】=にくしみ【憎しみ】+わるぎ【悪気】
ワルギのまじらぬただのニクシミが憎悪とは相いれぬものだというのは、愛というものが何らかのかたちでどこかしらにニクシミをかならずともなっているのでなければなりたたぬのだと説明することもできよう。 「ひとを愛する」をより正確にいいなおせば「ひとを愛憎する」ことだというのは、愛をしるだれもがためらいなくうなずく真理であろう。 愛とニクシミはウラかオモテかの関係にあるにすぎず、両者はじつはおなじものだ。 だがこれが憎悪となるとひたすら愛を破壊する作用にしかならぬので、いかなる意味でも愛と憎悪とがくっついていることはできぬ、これもまた愛をしるだれもがうなずくところであろう。 それぐらいに憎悪とニクシミとはたがいに相いれぬ。 愛というものに真に対立・矛盾するのはニクシミではなくてじつはワルギのほうなのではないか、いやきっとそうにちがいないぞ。 わるぎ、悪意。 「わるぎはなかった」などというばあいのあのワルギ。
     世に近年さわがれているところのヘイト₌スピーチとかヘイト犯罪などの「ヘイト」とはほかならぬこの憎悪のことであり、ニクシミとはちがうのだと、ただしくとらえておかねばなるまい。
     「罪をにくんでひとをにくまず」といういいならわしも、おなじことをあらわす気のきいたいいまわしなのではないかとおもえる。 「気のきいた」というのは、そもそもこれが詭弁になってるからだ。 だってそうでしょう。 罪をおかしたその罪人と、その罪そのものとをきりはなし、べつべつにあつかうなんてことは、現実にはできるわけがない。 そんなことがもしもできるなら、じゃぁひとをにくまぬのだから当の罪人には罰をいっさいあたえず、その罪人とはきりはなされてべつべつであるところのその罪それ自体にだけ罰をあたえればよいのだというはなしになるのだろうか? だとすればこれはつまり囚人とか刑務所を根本的に全否定するかんがえ方だ。 ばかばかしい。 しかも「罪それ自体にだけ罰を」うんぬんとは現実にはどういうことなのか、ふつうに意味がぜんぜんわからぬのだが。 だから杓子定規に理屈をげんみつにあてはめるならば、上記のいいならわしは非現実的なオカルトあたまによる産物というようなものであろう。 だがもちろんこれはそんなオカルトとは無縁なので、気をきかせてあえてオカルトで詭弁のいいまわしをもちいてあらわしたにすぎず、その真意はつぎのとおり、その罪人を単にニクム・ニクシムだけにただしくとどめて、けっしてワルギまじりの憎悪にまではとどかぬようにいましめましょうってことであろう。
     くだんの夭折事件における「番組制作責任者・テレビ局」を「正当きわまる憎しみのぶつけどころ」だとさえずったその「正当きわまる憎しみ」も上にかいた意味なので、憎悪ではない。 こういうことをわざわざいうのは、いまのわが朝では大のおとなどもが「正当な憎しみ」と「憎悪」とをただしく分別してかんがえることがもはやできなくなっているのがつねのざまらしく、正当なニクシミのぶつけどころに正当にニクシミをきちんとぶつけて不足なくじゅうぶんにしっかりと責任をとらせてことにケリをつけてこますことが、どうもまったくできなくなっちゃってるっぽいからだ。 「正当きわまる憎しみのぶつけどころ」を「おもてにひきずりだして、よってたかってやりだまにあげる」というあたりまえのことですら、なにかしらこれを〝ヘイトの応酬〟だなどとうすらバカなみのおろかなカンチガイをしてとらえ、そこから身をとおざけて、さけてとおりたがってるっぽいのだ。 マスゴミどもや世のご意見番どもの言動にそのてのうすらバカの気配をとりわけ色こくかんじる。 しかしそんなことでは世のなかをまともになりたたせておくための土台としてのきわめておおきな1つであるところの秩序回復の機能が完全にできそこなっちゃってるという、きわめてよくない重大な現象がおきてることだとおもうのだが、いまのわが朝のありのままの現実なのだからそういうよりほかないし、1介のネットの名なしにすぎぬおれがこんなことをいくらネットのこんなところでほざこうとも現状の是正になどつながるはずもない。 けっきょくはこの件もやがてはウヤムヤにされて、責任ある〝罪人〟どもはまんまと〝うまく〟にげきって、いずれそのうちほとぼりがさめるにつれて以前とかわらぬゲスい稼業を〝えらそーに正々堂々と〟平気でつづけるようになり、そしてただそれだけでおわるのであろう。 なんというくされはてた世のなかであろうか、わが朝というのは。 まことに、自死した者の霊をおもうとひたすら無念がつのるばかりとはこのことだ。

     この事件についてこまかくあれこれかんがえだすと、いろんなことがみえてきて、あれも論じるべき、これも論じるべきと、たくさんおもいついてしまう。 きりがないとまでいうつもりはないが、たくさんだ、すくなくない。 だからこのnoteでの記事の題にも(1)とか(2)をつけてつづきものみたいにした。 題をこうしとけば、あとで記事がいくらふえても題をつけるのにこまらぬ。 それに、ただのネットの名なしがたれながしてるだけの記事にすぎぬのだから、たとえ(1)だけでおわって尻きれになっても、そんなことはハナから想定の範囲内であり、さしつかえない。 いずれにしろ問題ないのだ。
     これまでおもいついてたことをおぼえがき的にいくつか以下にならべておこう。
     と、そうおもってここからあれやこれやをかきはじめたのだが、いかんせんそれが長くなりすぎて、もはやキリもハテシもないようなざまにおちいりはじめた。 られつする事項も10コかそれ以上にもなってくいきおいだった。 そのラレツだけで1コの独立した記事になるぐらいだとおもい、方針をかえてこの記事はここでうちきる。

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