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私の絵から、私たちの絵へ 津奈木美術館 大平由香里『海鳴り』

熊本県南部にある『津奈木美術館』で、画家の大平由香里さんの個展が開催されている(2/11まで)。
入り口から、鮮やかで力強い山々の絵が目に入る。その後、不知火の海を描いたもの、おそらく新境地となる、セラミックの彫刻などもある。

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目を見張るのが一階奥にある超巨大な絵画。壁一面、天井ギリギリまで覆われている、圧巻の大作だ。よく見ると子供の絵などが貼り付けられている。二階には、海をかたどったようなジオラマ風の絵画が。ここにも、ちぎり絵などがちりばめられている。それは、彼女がワークショップを開催した際に、地元の人たちに作ってもらった絵やオブジェだった。

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それらは、彼女一人で作り出したであろう絵画と比べても異質なものであった。筆のタッチからマチエール、雰囲気も彼女のものとは違っている。大平さんはどうして、自分の絵に他者の絵やオブジェを取り込んでいくのだろう。

大平さんは東北芸術工科大学で日本画を専攻し、そこで三瀬夏之介さんらが立ち上げたグループ『東北画は可能か?』に参加するところからキャリアをスタートさせている。
『東北画~』の作品の特徴の一つに、巨大な絵画を複数人で描くというものがある。
自分の絵でありながら、誰かの絵でもあり、その土地の絵でもあるような、そんな絵画。大平さんはそこで活動しながら、自身の作品のスタイルを練り上げていった。画家としてのスタートから、他者との協働がプリセットされていたといえる。

大平さんが修了制作展で発表したのは、巨大な山脈が描かれた屏風絵だ。荒々しい筆致に、どぎついピンク、縞々、モデリング、コラージュ、金箔といった、バラバラな色や形を一つの空間にねじ込んだような力強い作品だ。

作者はもちろん1人だ。しかし、絵肌はどれも均質にはならず、時にハレーションを起こすような色や形を隣り合わせていく。まるで彼女の中に、バラバラな個性があり、それらが同時に絵画上にひしめき合い、それを、うおっしゃーっ!!と圧縮して一つの画面に押し込めるような(語彙が)。この傾向は、それからの絵画作品へ引き継がれていく。

それは、彼女の主要なモチーフにある「山」自体の本質的な姿とも重なる。
山は、あたりまえだが山だけではない。山には、土が盛り上がり、その上に木々が生い茂り、動物が生息し、その死骸がまた土となる。それだけではなく、季節によってもドラスティックに生と死が繰り返されている。
さらにその下には圧倒的な熱量のマグマがうごめいており、いつそれが地表に出てくるとも限らない。その様子は、調和というにはあまりにアグレッシブな緊張感を含んだ、せめぎあいの世界。大平さんのアプローチは、そのまま山の存在に迫るために要請されたものなのだ。


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そんな大平さんが今回向き合ったのは、津奈木の街と、この不知火の海だ。
内海で穏やかな有明海は、古代より豊穣の海として人の生活を支え信仰の対象にもなってきた。津奈木の人たちにとっての暮らしは海とともにあった。しかし、近代化が進む中で、プラスチックの原料を生み出す工場が流した水銀によって、ここら一帯の海は汚されてしまう。

水俣に隣接している津奈木もその被害を免れることは出来なかった。その怒りと悲しみの歴史は、今もこの地に刻まれている。同時に、半世紀近くの歳月をかけて、ここをまた豊穣の海へと戻していく揺るぎない努力がなされた。その主体は、不知火の海と私たち人間だ。

大平さんは、海を描くことにした。
海だけではない。山もあり、川もあり、建物があり、そして人もいる。これまでの大平さんの絵画には、海が描かれることは少なかった。そして、人間が描かれることはほぼないといっていい。
今回の絵画にも、厳密には人の姿は描かれていない。しかし、大平さん以外の「ヒトが手を加えた造形」が大きく入り込んでいる。それは、呑気で牧歌的な子どもの造形でもあり、お年寄りの手芸的なものもある。しかし、すぐ隣には、自然そのものをかたどったような物質的なマチエールの岩、幾つもの層をもつ山、ググと湾曲して取り囲む海、それらをつなぐ橋が遠慮なく描かれる。
緊張感をたもったまま胎動する姿が、しかし、その状態こそ当たり前と言わんばかりにただ淡々と存在している。

大平さんは、この絵にさまざまなものを共存させる。
日常の風景から、自然の激しい循環までを並列させる。もちろん、自然というものの中には、当然ヒトも含まれる。そして毒も。
ヒトは人として、実存を抱え、仕事を営み、子どもをそだて、共同体をはぐくむ。
私たちはそれらを、自然界とは次元を異にするものとして捉えがちだが、しかし、これは多様性という言葉では収まらない、この世界そのものものの姿なのだ。

大平さんは「私の絵から、私たちの絵にしたい」と語る。それは、私、他者、共同体、ヒト、そして自然をつなげ、それらを溶解させないまま世界に存在する「私たち」を目指す意志であるというのは、果たして言い過ぎだろうか。そもそも、そんなことが画家に、絵画に可能なのだろうか。

中にはハレーションが過剰な箇所もある。しかし、大平さんは、それでも諦めず、のたうちまわりながら、絵に、世界に向き合っている。
その大いなる挑戦に対し、僕は最大限の敬意を払わずにはいられないし、沢山の勇気を受け取ったように感じた。

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