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村の陰陽師さんのあれこれ 東村山教育委員会『指田日記』


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江戸時代末期の天保5年から明治4年までの38年間にわたり、村の陰陽師「指田摂津正藤詮(さしだせっつのかみふじあきら)」によって記された日々の記録。
当時の風習や祭礼、幕末の状況を反映するものなどが淡々と書かれている。

陰陽師といえば、僕の世代では『孔雀王』とかなんとか、平安時代の超能力者みたいなイメージだけれど、そもそも「陰陽道」とは何か。この本には以下のような説明がある。

"古代中国の陰陽説・五行説などが易の思想と結びついて成立した信仰であり、日月星辰の運行や方位から吉凶禍福を占ったり、除災の呪いを行う特殊な方術をいう。日本古来の卜占とも結びつき、律令制下では朝廷に陰陽寮が設置され、陰陽師・陰陽博士・天文博士・歴博士などを擁して、卜占・天文・歴・時刻のことなどを司った。中世以降には民間にも広まって、陰陽師が各地に成立し活躍した。近世初頭に豊臣政権に弾圧されたものの、一層民間に普及し、近世には土御門家が全国の陰陽師を支配し、免許状を発行していた。"

ふむふむ、陰陽師って、近世には一般庶民に馴染みのある存在だったのか。

この指田さん、元々は農民だったけれど、この陰陽道を学んで、占いや祈祷などを行い、近隣からの依頼も多く繁盛していたみたいだ。後に、全国の陰陽師を仕切っていた土御門家から「摂津」を名乗ることが許されたと。神職も兼ねていたようだ。


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指田さんのところには、様々なバリエーションの呪術や御守・御札があったとある。一覧をみると、まあ色々ある。中には、しゃっくりを止めるとか、寝汗を止める、モグラを撃退する、噂をやめさせるとか、何というか、、親近感湧くものばかり。


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さて、この日記。読んでみると、今日は雪が降ったとか、所沢に行ったなどの日々のことの中に、籠り(泊まり込みで祈祷すること)や、講に招かれたり天神像を彫ったりなどが差し込まれている。
ペリー来航についても記述があったりと、当時の事件などに関連する内容もある。

"天保七年三月三日、中藤入り七平娘疱瘡湯流し(疱瘡の痘を湯で清める祈祷法)。万吉入門。久米三郎・忠藏・半蔵・政五郎・多田兵衛きて金毘羅宮の坂を修す。昼九ツ時より雨。"

これを読んでると、陰陽師って、町医者とか、悩み相談とか、おまじないとか知恵袋とか、そんな役割を担う、とても便利な人という印象だ。寺子屋も開いていたみたい。


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実際に指田さんが住んでいたところを調べて行ってみると、立派な門構えに、奥には「指田」の表石が。指田さんのご子孫が住まわれているみたいだ。指田さんの息子指田鴻斎さんは医者になり、地域の天然痘の予防治療に大きな貢献をしたとある。鴻斎さんはよくお父さんの仕事を手伝っていたと日記にも書かれている。

今も東村山には指田医院がある。陰陽師と医者、そんなに遠いものではなかったのだろうな。

それにしても、陰陽師、150年前に実際にあった職業なんだなぁ。
まあでも、それに似たような職業は現在でもあるかも知れない。人の願いや欲望が同じであれば。

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