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海のまちに暮らす vol.19|火か木、あるいは月

〈前回までのあらすじ〉
東京で仕事をし、電車に揉まれて平べったくなって家に帰る。夏までにあと何回か平べったくなる予定があるけれど、今のところは元気にやっている。

 穴があったら入りたいのと同じように、登りたいものだ。そう、そこに山があるならば。海の町で暮らしていれば、当然山のあるところへも行きたくなる。カレーライスにしたって、ひとたびルーを口に運べば、次はライスを同じ量だけいただくというのが順当なところだろう。ルー、ライス、ルー、ライス、海、山、海、山……

 動機はほとんど適当なのだが、箱根を目指してみることにした。山といえば箱根だろうという、なかなか安易でざっくりとしたイメージに基づく目標設定ではある。でも観光地や行楽の目的地って案外そんなものでしょう(砂丘が鳥取にあり、トヨタが愛知にあるように)。真鶴から小田原に出て箱根登山鉄道に乗り込み、宮ノ下という駅で降りる。お手隙の方はGoogleマップで小田原駅、真鶴駅、宮ノ下駅の3点を結んだ図形をご確認いただきたい。多少の歪みに目をつぶれば、それは真鶴駅を頂角に持つ二等辺三角形であるはずだから。底辺のわりに高さのある天地逆向きの二等辺三角形。そのうちの2辺に沿うようなかたちで、僕は山へとアプローチしていくことになる。

 小田原駅プラットフォームはザックを背負った人たちで結構混み合っていて、僕は今日が日曜であったことを思い出す。大学に通わなくなってから曜日に合わせて生活を送るということがなくなった(曜日のサイクルに即した唯一ともいえる営為である、この連載を除いては)。しかし今のところ世の中は7日間を1週とし、うち2日間を一般的な休日と定めたうえで運営がなされている。人々はその限定された48時間でありとあらゆるせわしのない移動手段を駆使してレジャースポットを巡り、積み上がったパンケーキの写真を撮影し、ホースで丹念に車を洗ったり、夜はどこかのレストランへ出かけて食事なんかをする。現在、僕はそのしきたりの及ばないところで暮らしているが、電車をはじめとする社会的移動装置というものは当然、社会的7日間(曜日)に基づいて運行している。だから僕は今日という日にどんな役名が与えられているのかを念頭に置いておかなくてはならない。火か木、あるいは月であるか、といった具合に。その調子でいくと今日は〈日〉らしい。したがって電車は相応に密度のある乗り物になった。まいったな。僕は満員電車というものが本当に苦手なのだ。あれほどふざけた乗り物はどうしてなかなかあるものではない。

 車窓越しに外の世界が流れていった(流されているのは僕たちのほうなのに)。目を射るように鮮やかな色彩が、デジタル・ディスプレイに映し出された映像のようにくっきりと滞りなく再生されていく。遠くの山肌には思い出したように点々と家が立ち並び、その稜線の手前から奥へとスリムな鉄塔が整列している。大地を割るように流れる川がたまに現れて、またすぐにみえなくなる。僕はそれらをじっと眺めている。特徴もなければ見どころもない、と言うこともできる漠とした視覚的情報の群れを網膜に投げかけつづけている。そういう匿名性のある風景に僕は不思議な好意を抱いている。それは向こうから勝手にやってきて、何の印象も残さないまま、また行ってしまう。気がつけば僕はそんな写真ばかり撮っている。一時的で希薄なもの、通り過ぎてしまうものたちを引き留めたい、と思ってしまう。どうしてかはよくわからない。

 匿名性とはいっても、もちろん1つ1つの家や山は具体的な特性を備えてはいる(家は赤い屋根をしている、山は背の高い広葉樹林に覆われている)。しかし、とりとめのない具体性は離れてみるとぼやけた風景になってしまう。僕はそのぼやけた風景から1つ1つ具体的なディティールを拾い上げていく。細々したどうでもよい情報を印象として記憶に留めておく。それらの具体的な細部を頭の引き出しにしまっておく。そういったものたちが基本的に何かの役に立つことはない。僕はそれを拾い上げて、ただそっと記憶の奥のほうにしまっておくのだ。そして、そのまま緩やかに忘れ去ってゆく。リスが自ら集めた木の実を木のうろにしまった後で、すっかり場所を忘れてしまうように。僕の中を風景が通過していく。

 あるいは僕は移動しつづけるべきなのかもしれない。特別な目的がある必要はない。移動によって僕は僕自身の内に、具体性の断片のようなものを集積させていくことができる。その断片こそが僕の創造性なのではないかと最近になって考えはじめている。何か自分の気分のようなものを表現として排出しようとする時、現にこうして文章を書いている時、きまって僕は頭の引き出しからその断片──、具体的で取るに足らないもののイメージをつまみ出そうとしているようなのだ。必要な時に必要なぶんだけ取り出して、自らの表現(表現と呼ぶのが適切なのかどうかわからない)に混ぜ合わせる。ただベーシックに肉を焼けば良いだけのところにわずかばかりの紹興酒を垂らすみたいに。その〈混ぜ合わせ〉によって、この表現的な何かはある種独特な香りと風味をまとうことになる。好むと好まざるとにかかわらず、僕はそういったプロセスを無意識のうちに通過させられている。それは一種の癖であり、傾向であり、欠点であり、不変的な独自性であるらしかった。そして総称すると、どうやらそれは僕の創造性のようなのだった。僕は僕の創造性のために移動をしつづける必要があるのかもしれない。

 宮ノ下駅で下車すると、開け放した冷蔵庫の前で裸になったような心地がした。下界よりもうんと涼しい。ここは山の麓へ続く上り坂の途中みたいな地形をしていて、どこまで行ってもずっと坂のようだ。その細い坂に沿って3棟ほどの民家が寄り合い、足湯付きのカフェとして賑わっていた。目線を少し上げれば萌えるような山肌が飛び込んでくる。ここでは山を視界に入れるなというほうが難しい。そういえば山に行きたくてここまで来たのだった

 線路脇にひっそりとしたプロムナードがみえたので、歩いてみる。それは一般的な散歩道と比べると、ごく控えめに「もしよければ、どうぞ」といった態度で奥へつづいていたから、次第に道らしい印象は薄れ、下草のある茂みの中を進んでいるようになった。どのあたりで引き返そうか考えながら歩く道すがら、普段はまず目にかかることのできない珍しい草花の姿を認めることができる。標高が高く気温が低いからなのだと思う。低地の野草に対して、彼らはいくぶんエッジの効いた見た目をしている(東京でいうなら赤羽と豪徳寺ぐらい違っている)。ここでもまた写真を何枚か撮る。そういえば、夏頃に植物に関する小冊子をつくりたいのだった。ヤマブキの茂みの後ろの立派なコナラの木があるあたりで踵を返す。駅周辺はなんだか盛り上がっている。日曜ともなると山中でも人が多いですね。

 出発時はここらで昼食にしようなどと計画していたものの、いざ来てみるとまだそういう気分ではないようで、あたりをぶらぶらとする。カフェに隣接したギャラリーには絵や雑貨が飾られていて、惹かれるものがあれば買って持ち帰ることができるらしい。陶土を練って焼かれた湯呑みが置いてある。そのうちの1つに僕はなんだか強く惹かれてしまい、結局我が家に迎え入れることにした。縁は歪で有機的な曲線を描いていて、手に取ると太った小鳥くらいの重量がある。特筆すべきはその色合いだ。青なのか緑なのか、そのどちらでもないのかはわからないが、淡い焼き色が絶妙な温度を醸している。その捉えがたい色彩は阿蘇のカルデラ、火口付近に湧き出る湖の色を僕に想わせた。その湯呑みを正式に購入することによって、僕の旅は具体的な色彩と質量を有した形ある記憶となってリュックサックへしまわれた。昼食は帰りに小田原で食べればいい。箱根登山鉄道は再び山の斜面を下界へと下っていく。ゆったりとした一定の速度での運行が順守されている。次の目的地へと急いでいる人も、大して慌てる必要のない人(たとえば僕のような)も、均一な所要時間をかけて小田原へ運んでいく52分間の公共交通サービスである。

 小田原駅に着き、少し歩いたところにある定食屋でメンチカツ定食を食べた。これがすこぶる気前の良いメンチカツで、父親のゲンコツくらいはある衣に包まれた元気なやつが5個大皿に盛られて出てきたから驚いてしまう。店にはスポニチを片手に昼間からビールを飲んでいるお客が1人、あとはテレビが薄い音で流れているくらいだった。食べ終わって皿をカウンタへ戻しにいくと、奥で皿を洗っていた女将さんが出てきて、「あんた持ってきちゃイヤだよ、あたしがやるんだから。お仕事お休みなんでしょう。ゆっくりしていきなさい」と親切にも畳みかけられてしまう。おまけにお茶が入ったから飲みなさい、と熱い緑茶をいただき、そのまま午後3時過ぎまで本を読んでいた。

 また来ますと帰り際に礼を言って駅まで向かう途中、そういえばあの店の名前はなんだったっけな、と思い返すが思い出せない。たまたま目についた店でもあったし、名前をろくに見ずに入ったものだから、店に関する記憶というものはほとんど胃袋のほうにしかおさまっていない。僕はおおかたそういうざっくりとした視界で生活を送っているらしいので、いつもぼんやりとした記憶のなかで何かに感動したり人と会話したりしている。家へ帰ってからこの原稿を書くのだけれど、自分がいかに偏った記憶と印象をもとに過去の出来事を振り返っているのかがよくわかる。だいたいきまって肝心なことを覚えていないし、色鮮やかな記憶として保存されているのは笑ってしまうくらい些細でどうしようもないことばかりだったりする。そういう調子の悪いMacBookみたいな僕の心象を、なるべく鮮度の落ちないようスケッチをするみたいに書き記しているのがこの原稿だから、あまりそう真剣に読まれると困ります。最近はあちらこちらに身ひとつで移動することが増えて、ぶんぶんふらふら飛び回るクマバチみたいな気分です。


vol.20につづく





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