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海のまちに暮らす vol.7|畑をはじめるかもしれない

〈前回までのあらすじ〉
休みの日。パン屋のある坂を下って、僕は海の神さまへ挨拶に行ったのだった。

 畑をやりたい。農作をしたい。と言っていたら、なんと、できることになってしまった。真鶴出版の裏手には畑がある。空き地のような場所だったのだが、今は共同農園として4、5人が畑をやっている。そのうちの一角は真鶴出版として借りているスペースらしい。僕はもともと真鶴に移住をしたら農作をやってみたいと思っていたので、興味本位で畑のことを訊いてみた。そしたら、「今誰も耕してないから、それならのもとくん使っていいよ」とカワグチさんが言ってくれたので、急遽、その畑をやってみることになった。嬉しい。「じゃあ明日の朝から畑見に行きます」と僕が言ったら笑っていた。これからは真鶴出版の畑担当(勝手に僕が命名した)として、少しずつ農作をはじめていこうと思う。

 ちなみにこの共同農園の土地は、今現在も不動産で売りに出されている。しかし、この土地は道路に面していないから新しく家が建てられないのだという。建築基準法でそう決まっているらしい。だからなかなか買い手も見つからない。かといって放置しておくと雑草も生えるし管理も大変だから、そのままにしておくよりは近所の人に畑でもやってもらうほうがいい、ということで、良心的な値段で近所の人に貸しているのだそうだ。基本的に畑の貸し借りは知り合い同士で行われているらしく、「畑ネットワーク」があるとカワグチさんは言っていた。ネットワーク、というのがキーワードらしい。

 真鶴にはいろんなネットワークがある。居酒屋や珈琲ショップ、特定の場所に集まる人同士で自然とグループが生まれるのだ。グループというと、中学校のクラスの派閥みたいなイメージになるけど、真鶴のネットワークはもっと柔らかな、住民同士のつながりでできている気がする。僕はまだここに住みはじめて間もないけれど、真鶴の町民たちは受け入れることに慣れている人々だなと感じる。それは初めて会って挨拶を交わした瞬間に、けっこうはっきりとわかる(新しく真鶴に来た僕に対して嫌悪感を示すのか、それとも歓迎を表しているのか、ということが)。実際のところ、そこまでわかりやすいリアクションが見えることはない。けれど、よそから来た者の存在をどのくらいはね返すのか、という反発係数みたいものはだいたい計れてしまう。その手の感覚に対して、僕自身が敏感だというのもあるのかもしれない。

 そういう意味で、真鶴の人たちは、まずファーストコンタクトで僕の存在を受け止めてくれているような気がした。ひとまずはしっかりと受け止めてくれているような感触があったのだ。よそ者に対してのクッション性みたいなものだ。どんなモノかわからないけれど、とりあえず包み込んで吸収しておく、みたいな寛容さ。そしてそれは、個人の差はあれど町全体に通ずる感覚だった。真鶴には海があるから、元から外の世界に開かれた意識のようなものがあるのかもしれない。よそからの訪問者との交流が必然的に町民の意識の中に刻まれているのかもしれない。真鶴の歴史にも触れてみたくなる。都心を離れた地方の土地は、どちらかというと閉鎖的で内向きな印象があったけれど、そういうイメージは真鶴に来た途端に覆されてしまった。

 そして、町民のネットワークでは基本的にアナログなコミュニケーションが主流みたいだ(そういえば、こっちに来てからLINEをあまり使っていない)。オフラインかつ対面、現場至上主義。農作をやるうえで、まず畑ネットワークにいかにして入っていくか。これが僕の真鶴生活における、興味深いテーマの1つだろうと思う。

 そんな話を聞いた後に、真鶴出版のスタッフみんなでお昼を食べにいくことになった。道路を渡ってすぐの〈あけび屋珈琲〉へ。ゾロゾロと店へ入ると、カウンター近くのテーブルに女の人が座っていて、こちらに向かって会釈をしてくる。誰かの知り合いかな、と思っていたら、「のもとくん、この人が畑メンバーのサムカワさんだよ」とカワグチさん。さっきまで話していた畑ネットワークの一員と、ちょうど喫茶店で会うなんて。真鶴はコンパクトな町だから、こんな風にすぐ誰かと遭遇する。ちょっと前まで話題にしていた人が、向かいの通りから歩いて来たりする。「はじめまして。のもとです。真鶴出版の畑をやることになりました」と畑メンバーのサムカワさんに挨拶をした。サムカワさんは「畑やるなら、うちにある道具も持っていっていいからね」と言って歓迎してくれた。「明日からもう来るの?」」と訊かれたので、「とりあえず長靴とか買ってきます」と答えた。畑ネットワークが少し動きはじめた気がする。

 2日後の休日。国府津にいく用事があったので、ついでに近くのショッピングモールで買い物をすることにした。服を買おう。思えば僕は全然服を持っていなかった。東京に住んでいるあいだ、ほとんど黒い服しか着ていなかったし、形も全部同じものだった。何しろ服装について考えるのが得意ではなかったから、あまり考える必要のないシンプルな黒い服ばかり着ていた。黒いジーンズに黒いトレーナー、黒いシャツ、黒いソックス、黒い靴。これは自分の体型の変化や、体の調子をはかるうえでは都合の良いファッションだったし、都会の風景にはそれなりに馴染んでいたと思う。というのはタテマエで、実際は服を買う機会をほとんど設けなかったせいで、黒い服しか手元になかった。だから、わずかばかりの黒い服を抱えて真鶴に移住した。けれど、真鶴に来てみるとどうだろう、あれほど着回していた黒い服たちがなんだかしっくりこないのだ。真鶴の海や空、道路や街並みにちっとも馴染まない。黒い服を着ていることがなんだかひどく不自然なことのように思えてきたのだ(もちろん黒い服に罪はないし、どんな場所であれ黒い服を着こなす人はいるのだけれど)。どうやら僕が以前と同じように黒だらけの服を見に纏って真鶴で暮らすのは、何か道理に反する、間違ったことのように思えてきたのだ。だから僕は、新しい場所で身につけるべきいくらかの衣服を手に入れることにした。

 ひとまず黒い服はこれ以上増やさないことにして、春用の長袖の服と、畑仕事にも使える上下の服(これは丈夫で軽い素材のものを選んだ)、それから夏に着るためのシャツなどを選んだ。こんなに服を買ったのは久しぶりだと思う。普通の人ならもう少しコンスタントにするはずの買い物を、ひとまとめにして僕は済ませた。新しく買ったシャツを合わせてみると、それは僕の体にぴったりと合った。不思議なのは、今回選んだ服はどれも、それまでの僕が1ミリたりとも着ようとは思わなかった色、素材、形のものだったということだ。真鶴を歩く自分の姿をイメージしながら選んだら、自然とそういう服が集まったのだ。そして、今の僕はその服をとても着心地が良いと感じている。ノモトシュウヘイという1人の人間が、真鶴に合わせて変化しはじめているのだと思う。そのままの足でワークマンに行き、畑用の長靴も入手した。これで畑の土を踏むことができる。僕は真鶴という土地で、新しい外殻を手に入れはじめている。

 店を出るタイミングでカワグチさんから連絡があった。聞くと、ナオユキさんという、真鶴在住の映像作家の人が真鶴半島の方で畑をやっているらしい。カワグチさんが向こうに僕の連絡先をつなげてくれたらしく、すぐにナオユキさんからメッセージが来た。
「畑に興味あれば、ぜひ遊びにお越しください」とお誘いをいただいたので、即行で返事をして行かせてもらうことになった。展開が早すぎる。しかも、ナオユキさん家の畑は「微生物ネットワーク」という菌類を活用した農法をやっているらしい。ここでもネットワークという言葉が出てきた。僕は農業に関しては初心者なのだけれど、土と人間がどうやって一緒に生きていくか、ということに前から興味があったから、興奮を抑えられなかった。ついこのあいだ、ワシントン大学のD・モントゴメリー教授が書いた『土・牛・微生物』(築地書館)という本を読んだばかりで、その本には微生物をどのように働かせて土を良くするかという話がたくさん書いてあった。本を読んだだけでは難しくて全部理解できなかったけれど、ナオユキさん家の畑に行けばなにかヒントがあるかもしれない。どのように農業を始めたらいいかも教わりたい。

 畑用の長靴を買った途端に、農業の先輩からお誘いが来るなんて、ちょっと話の流れができすぎている。話が進むのも早い。こういう時は迷わず流れに乗ること。流れが来たらすぐに飛び乗る、というのが、真鶴に来てから僕のなかで最重要テーマになっている。これからどんな人と出会うのだろう。僕の畑はどんな風になっていくのだろう。点と点が結ばれて、線になって、それまで予想もしなかった方向へ伸びていくのを感じている。僕はどこへ行くのだろう。僕は何者になっていくのだろう。

 真鶴という町のなかで、僕という線が長い1本の物語をかたちづくっていく。物語。僕という小さな生身の人間が、小さな町で暮らしていく小説のようなものだ。今のところ結末はわからない。確かなのは、無数の伏線と数え切れない選択のなかで生きているということだけだ。そしてそれをどのくらい楽しむことができるか、ということが、大切なのかもしれない。この移住生活の本当の目的は、実はとても深いところにあるのではないかと僕は思いはじめている。その目的の全貌すら、自分ではわからない。誰も目にしたことのない、地中奥深いところにある大木の根っこのようなものだ。だけど、こうして生活を続けていくうちに、それは少しずつ明らかになっていくような気がする。僕はこの移住生活の本当の目的を自分自身の手で掘り起こして発見しなければならないのだと思う。もしくはそれを自分自身の手で作り上げる必要があるのだと思う。長い時間をかけて。この連載はきっとそのうち、思いもよらない場所へ僕自身を運んでいくことになると思う。この連載を読んでいる皆さんも一緒に連れて。新しい場所へ繋がっていくような予感がする。どこへいくかはわからない。とにかく今は書き続けてみる。


vol.8につづく

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