見出し画像

海のまちに暮らす vol.11|今回は餃子の話しかしていない

〈前回までのあらすじ〉
図書館の窓からは家々の屋根の重なりが一望できた。その景観のいちばん奥に、どこまでも広い海が真っ直ぐに青い線を引いていた。

「きゃべつにらながねぎ、きゃべつにらながねぎ」

 図書館からの帰り道。呪文のように唱えながら坂をくだる。今夜は餃子をつくるのだ。

 思えば東京で1人暮らしをしていた時から、これまで餃子というものを自分でつくった試しがなかった。都内のワンルーム・キッチンの狭さでは、野菜を刻んだり大皿を何枚も並べておくだけの面積的な余裕がなかったというのもある。あるいはたまたま、僕がそのあいだ餃子という名の料理をことごとく思い出すことができなかっただけかもしれない。おそらくは記憶の世界の暗がりみたいな場所に入り込んでしまったのだろう。自動販売機の下に転がり込んでしまった50円玉のように。

 いずれにしても僕は今、餃子が無性に食べたいのだ。その暴力的ともいえる食欲は、乾いた土地に到達するにわか雨のようなスピードで前触れもなく発生し、僕はそれを押しとどめておくことができない。突然の食欲。それも極めて限定された対象に関する食欲だ。そういう特定の食べ物に対する食欲はたいていの場合、どこからともなく湧いて出て、テロリストが町中のディスプレイを電波ジャックするみたいに速やかに僕の通信回線を麻痺させる。そうなるといよいよ僕は餃子のことしか考えられなくなる(それはある時はカレーライス、またある時は杏仁豆腐であったりした)。抵抗は全くもって無駄なのだ。だから気がついた時、僕は買い物カゴを持ってオダヒャク(スーパーマーケット)の野菜売り場にいる。

「きゃべつにらながねぎ、きゃべつにらながねぎ」

 リズミカルにカゴに放り込んでゆく。自前のリュックサックは、餃子を生み出すための食材でいっぱいになる。長ネギとニラはファスナーの隙間から大きく飛び出して、僕は村々を渡り歩く行商人のような装いになる。入りきらないものはトートバッグに入れ、左手に下げる。

 空を見上げると、遠くの山々(たぶん北西の方角だ)にずいぶん大きな雲がかかっていた。あそこはきっと箱根のあたりだと思う。濃密な白さをもった霧が、山頂付近にだけ、風通しの悪い部屋で焚く線香みたいに滞留している。ひんやりとした灰色の大気が鼻の穴から侵入し、喉の奥に湿っぽい何かを残してゆく。駅前には普段より多くの車が停まっていた。おそらくこの後雨が降るのだろう。

 地理的にいえば、オダヒャク(スーパーマーケット)は町内でいうと海寄りの谷底に位置している。対して僕の家は駅を挟んで山側の高台だ。だから買い出しへ行くには坂を下り、谷の底へと降りていく必要がある。そして帰りは反対に斜面を登っていく。その往復は、比較的ライトな登山と呼ぶことができるかもしれない。真鶴は坂が多い町なのだ。

 家に帰るとさすがにほっとする。僕は根本的に家が好きなのだと思う。外から帰ってきて自宅にあがる瞬間の〈緩み〉みたいなものが好きだ。体じゅうの関節が、ふっと緩んで、その隙間という隙間が温かい溶液でゆっくりと満たされていくような、脱力的な安心感が心地よいのだ。外出していると、やっぱり無意識のうちに自分の守りを固めてしまっている時がある。それは生物が野生で生きていくためには必要とされる本能的な緊張感なのかもしれないけれど、その張力を保つためには少なからずエネルギーを消費する(ゴムでできた平紐だって、ピンと張っておくためには両腕の力が必要だ)。

 そして、あらゆる物事には緩急が肝心だ。ぎゅっと握りしめた後には、ふわりとした脱力をもってくる必要がある。ピアノの演奏だって、フォルテ[forte]の後にはピアニッシモ[pianissimo]が来る。決められた周期で潮が満ち、引いてゆく。それらはそういう摂理のものであり、そうでなければ必ずどこかの段階で物事の均衡を損なうことになる。例えば、美しい音楽家や一流のアスリートの動きには必ずといっていいほど緩急があり、一連の動作のつながりのなかで、彼らは力を抜くべき箇所(脱力すべきポイント)を正しく見極め、実践している。その浮き沈みから繰り出される洗練されたパフォーマンスに、我々は感嘆することになる。一方、緩急の素人である僕は、おそらく生活のなかでそういう〈緩み〉を必要としているのだと思う。力を入れることにばかり意識が向いていて、心身を和らげて深く呼吸するということを忘れてしまっているのかもしれない。だから家は、そういった無意の緊張が解かれるための空間なのだと思う。

 米を研いでからキャベツをみじん切りにする。ボウルに入れ、塩をして絞る。力いっぱい水気を絞る。細かくした肉と野菜を手で混ぜる。ごま油を入れるといくらか混ぜやすくなる。このような工程を経て、ボウルいっぱいの餃子のタネ(中身の具)ができる。平皿には餃子の皮が束になって重ねられている。その光景を前にすると、こんなにたくさんの量の餃子を今から包むのか、と冷静になる。100段以上ある長い石の階段を下から見上げているような気持ちだ。先を考えすぎると足が止まるから、1段ずつ足を置いて登っていく。どうやら僕は階段の登り方を餃子作りに応用しようとしているみたいだ。慎重に1個ずつ皮に包んでいく。

 はじめは慣れなくて、不格好な餃子がたくさん生まれた。ぎゅうぎゅうに詰めすぎて、皮から具がはみ出しているやつ。包む時、ひだの数が多すぎてステゴサウルスみたいな形になっているやつ。平たくつぶれすぎているやつ。破けているやつ。個性豊かなキャラクターが次々に登場する。餃子にキャラクターとしてのバリエーションは必要ないはずなのだけれど。

 そもそも僕は手先が器用ではない。大学に入る前、美術予備校にいた時は「水張り」という作業が下手で、よく同級生に笑われた。これは水彩画を描く時に紙が反り返ってしまわないように、一度濡らした紙をパネルに貼り付ける作業なのだけれど、僕はしょっちゅう失敗して紙がよれたり、ズレたりした。あろうことか最初の1年間くらいはずっと、紙のオモテウラを逆にして水張りをして絵を描いていた(周りの人も誰もそのことに気がつかなかったし、僕は僕でこれが正しいのだと思い込んでいた)。絵を描く以前に準備の段階から1人でまごまごしていたので、みんな準備が終わって描きはじめているのに、自分だけまだ水張りをしているなんてこともあった。ただ自分の特性として、最初のコツを覚えるまでに他人より時間を要するものの、しばらくつづけて慣れてくると、かなり丁寧な仕事ができるようになる。黙々と何かをやり続けるのが好きなので、時間をかければけっこう上手になるのだ。でも、そんなこと(長くつづければ上達すること)は大抵の人に当てはまる特性だと思うので、こんなことを書いている自分が恥ずかしい。少なくとも現在は水張りの腕前がいくぶんかマシになったものの、潜在的な鈍臭さみたいなものは変わることなく発揮されている。

 はじめは本当に50個も餃子を包めるのかと心配していたのだけれど、目の前の1個を包むことに集中していたら、あっという間に全体の半分を包み終え、残るは皮3枚ぶんというところまできた。慣れてくると皮にタネをのせる量の加減や、効率の良い包み方が自然とわかってくる。慣れるってすごい。「慣れる」というのは人間の持つ素晴らしい特性だなと思う。慣れて上達していくこと、慣れない領域に足を踏み込んでいくこと。この2つを健康的に繰り返していけたら(ときどき休息はしっかり取りながら)、長いこと飽きずに生きていけるかもしれない。

 皮にその身を包まれた、総勢50名の餃子が平皿いっぱいに揃う。皿の面積に対して餃子の数が多すぎるみたいだ。餃子の上に餃子を積み重ね、なんとか皿1枚におさまっているものの、少しでも動かしたらこぼれ落ちてしまうだろう。昔どこかの写真で見た、屋根の上まで乗客が鈴なりになったムンバイの満員電車を思い出す。包んだ餃子をフライパンに並べ、水をかけて蒸し焼きにする。じゅう、という威勢のいい音。僕の胃もそれに応えるかのように、ぐう、とガチョウのいびきみたいな音をたてる。調理も終盤にさしかかり、フライパンをひっくり返す。焼きあがった餃子を平皿に移すところはこの日いちばんの緊張感があった。すべてを床にぶちまけて台無しにしまいそうで。幸いそんなヘマもせず、パリッとした羽つきの焼き餃子が食卓に並んだ。申し分のない焼き色。

 餃子に失礼のないようにあらかじめビールとキムチを買っておいたので、一緒にいただく。食べるというより餃子とキムチと白米を、ぜんぶまとめてビールで流し込む。行儀悪くてすみません。でもこれ、最高なんです。個人的に食を楽しもうとする時、往々にして「おいしい」ものごとの代償として、「行儀が悪い」アクションがあるような気がする。「見栄えはあまりよろしくないけれど、こっちのほうがおいしいよね」という誘惑のようなものがこちらをうかがっている。こちらが品位を差し出して捨てる代わりに、とっておきの味覚的悦楽を授けてくれるのだ。その誘惑はカップラーメンの残り汁に白米を沈めようとする時、あるいは小腹の空いた深夜に冷蔵庫を開けようと手をかける時、僕の頭のすみを小人のように駆けてゆく。つまりなんというか、人間としてのあり方がそこで問われている気がする。でも僕はついやってしまう(家で1人で食べている時に限るけれど)。

 350mlの缶ビールが、僕の顔を赤く変えてしまった。少しフラフラとする。僕はアルコールに弱いからこれ以上は飲めない。けれど、料理に合わせてたまに飲むのはわりに楽しい(お酒自体は好きなのだ)。それからやっぱり料理はいい。試行錯誤しながら手を動かして、最後には胃袋におさめることができるのだから、こんなにワリのいい遊びはない。当然、僕は手先が器用でもなく、特に味覚の才に優れているわけでもないのだけれど、それは大した問題ではない。うまくいくかどうかではなく、今までできなかった物事が自分のなかを通過していくことに興味がある。幸い、僕自身が生まれつき器用な人間ではないおかげで、さまざまな興味や関心の垣根を跨いで、身軽にひょいひょいと移動していくことができる。できれば、つくったことがない料理もこつこつやっていけたらと思う。自分で育てた野菜もいずれは使ってみたい。今回は餃子の話しかしていない。餃子以外に語ることがいくらかあったような気がするけれど、食欲が満たされた今は何も考えることができない。ひとまずは、ごちそうさまでした。


vol.12につづく










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?