振り上げた拳

はじめて二郎系ラーメンに行った。
電車を乗り継いで店に着いたのは20時ごろ。その日は生憎の雨。傘を差した人間がギリギリ二人歩けるくらいの歩道に長蛇の列ができていた。やっぱり待つのか・・・たしかにグーグルレビュー好評だったけど、日曜日の夜でもこんなに多いとは思ってなかった。
妻が言った。
「このラーメン屋、食べたらすぐ出るルールがなくて回転が悪いって評判」
そうなんだ。まあそれは仕方ないか。店がそう決めてるんだから。
行列の8割は若者だった。お世辞にもマナーがいいとは言えなかった。歩道に唾を吐き、側溝に吸い殻を落とす奴。二列で並ぶよう注意されても聞かない奴。傘をガンガンぶつけて雨粒を飛ばしてくる奴。この町には住みたくないなって話していると、カップルが私たちの前に割り込んだ。振り返った妻と目を合わせた。割り込んだのはカップルの女の方。男は離れた場所で煙草を吸い始めた。
妻が口パクで「わりこみ?」と言った。僕は首を傾げた。妻が女に聞こえるように「なんなんこいつ」と言った。女はスマホを見たまま動かない。隣国の治安を思わせる、あまりにスマートな割り込みに言葉が出ない。

やがて男が戻ってきた。男は平気で女の横について会話を始めた。振り返った妻と目を合わせた。妻の目が暗い傘の中で血走っている。やばい。妻の殺意が限界を迎えようとしている。俺が言うべきか。うん言おう。どうやって言おう、どんな言い方がいいか、シミュレーションした。
「あの、すいません。僕たち先に並んでたんですけど」「あの、すいません。僕たち先に並んでて…」すいませんって。なんで割り込みした奴に謝ってんだ。「あのう。僕たち先に並んでたんですよ」ちょっと強いか。最初のでいこう。でもなんて言うんだろうこの人たち。割り込んだ側の言い分。いくら考えても正当な理由が見つからない。逆上される?やだよトラブル。シミュレーションして相手の返答が想定できないとき僕は動き出せない。やっぱり店員に言って対応してもらうのがいいか。と、そこに店員がやってきた。店員は僕たちに言った。「お待たせしております。先に中で食券を買っていただけますか?」
そういうことかいな。ややこしい。
僕たちはカップルが食券を買っているときに列に並んだ。当然食券を買う流れや順番を知らない。つまり、既に食券を買っている客、いま店内で食券を買っている客、まだ食券を買っていない客が同じ列をつくっている。前後の流れを知らないと困惑するし、トラブルを招きかねない。幸い僕たちが食券を買いに行くときは既に後ろに客がいて、前後の文脈を見てくれていた。

とはいえ一度芽生えたカップルへの殺意。水に流す訳にはいかない。じゃあもし僕たちがカップルの立場だったらどうする。うん。普通に説明する。客同士で説明し合うシステムもいかがなものかとは思うけど、でもトラブル回避のためにはそうするしかない。なんであのカップルはそれをしなかったか。こっちが聞いたら言ったんだろうけど、明らかに困惑してたの分かるやん。「すみません。僕たち先に並んでまして、食券を買う順番になったので列を離れてたんです」でいいやん。店のシステムだるいけど、説明はできるやん。はあ。

向こうに落ち度があったことで、僕たちは振り上げた拳をそのままにできた。

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