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伐られてしまった実家のケヤキ | More-Than-Human Stories

先週末、実家のそばに生えているケヤキの大木が、伐られた。

それを知ったのは、母から届いたLINEを読んだときだった。

その土曜はやることが色々あったのだけど、僕はほとんどなににも着手することができず、結局一日中ボーッとしながら、時に流れ落ちる涙がセーターを濡らしていく様子を眺めているだけだった。

僕が育ったのは、茨城県のつくば市という人口20万人ほどの町である。

筑波山と筑波大学で知られるこの町は、20世紀後半から研究学園都市として開発され、1985年には科学万博も開催された。

おそらくそれが理由で、こんにち市の中心部といえば、国際会議場やら大学の研究施設やらが多い。

さらにはここ数十年の都市化と首都圏の拡大の影響か、つくばは明らかにベッドタウン化していて、つくばエクスプレス(通称TX)で東京へと通勤する中〜上位所得階級層のためのマンションが雨後の筍のように増えている。

そんな町の中心部から徒歩40〜50分、花室川を越えた先の小高い一画にあるのが、上の室(うえのむろ)である。

僕の母は和歌山出身で、父は福岡・神奈川出身だが、二人はつくばで出逢い、次男である僕が産まれる前後(詳しくは忘れた)に、この上の室に越してきた。

上の室といえば、「なにもない」。

土地はそこそこ広いくせに、あるものといえばパチンコ屋(もう潰れた)、保育所(下手すると潰れそう)、小学校(三浦春馬が通っていた)、そして辛うじて県道沿いに立つことで客を呼び込んでいるファミマくらい。

バリバリ茨城弁のおじいちゃん・おばあちゃんが多い割に、僕の両親のように研究学園都市開発の流れで移住してきた外部の人間もそこそこいるため、近所の付き合いも浅いか派閥化しているかで、回覧板を回すときやゴミ捨て場で鉢合わせてしまわない限り、接点もない。

接点どころか、真隣に住む家庭の男性に対して、子どもながら恐怖心を抱いていたようにも記憶している。

そんな上の室で、僕ら三人兄妹は育った。

冬の間は、たいていどこかのおじいちゃんがツンと澄み切った田舎の空気の向こうで畑や田んぼの要らない草を燃やしていて、その匂いが北風に乗って運ばれてくる。

しばらくして、椿の花びらがアスファルトの路面に落ち切ってしまう頃には、あたりの野原で新芽が顔を出し始める。

夏になると、虫とりの季節がやってくる。

あらゆる種類のカマキリやバッタはもちろん、近所の「カブトの森」(命名は兄)に毎日のように出かけ、カブトムシやクワガタ、カナブンやトンボを捕獲。虫カゴに入らないときは、リュックに直接入れておく。

セミを捕まえたいときは、カブトの森への道中に生えているケヤキの大木がもってこい。アブラゼミからミンミンゼミ、ツクツクボウシからヒグラシまで嫌というほどとまっている。

虫とりに飽きれば、兄やその友達と一緒に、ケヤキの木々のあいだに秘密基地を作る。

妹と兄と僕が幼少・青年期を過ごした部屋の窓からは、真っ先にそのケヤキたちが目に入ってくる。

箒をダイナミックに広げたような樹影は、朝も晩も、夏も冬も、暴風雨にさらされても、息を飲むような秋の夕陽に照らされても、来る日も来る日も変わることなく、静かに葉をたくわえ、落とし、そこに立ち続ける。

撮影は母。

16歳の夏、香港の高校に転校することに決めた僕は、実家を後にした。

その後、結局シンガポールとオランダへも進学することになり、しばらく遠い地で暮らしていた僕は、大学の学部を終えたタイミングで6年ぶりに実家に戻ることにした。

時間を持て余していたその頃の僕の日課といえば、朝ご飯の後にコーヒーを淹れ、本を一冊抱えて庭に出、日光を浴びながら適当に活字を追いかけて午前を過ごすことだった。

その頃から気になり始めたのが、鳥たちの存在だった。

上の室には、無数の鳥が集まる。

特にこれといって特別な鳥がいるわけではない(と思う)が、とにかく多い。

気になったものはしょうがない、父が昔使っていた双眼鏡を引っ張り出してきてホコリを払い、それを覗き込んでは名前も知らない鳥たちを観察する日が増えた。

そうしているうちに気づいたことがある。

夕方になると、多くの鳥たちがあのケヤキの木々に集まるのである。

*朝から夕方までずっとバードウォッチングしていたわけではない。

上の室自体が小高い丘のようになっているせいか、薄明の沈みゆく夕陽が大地を覆うマジックアワーのあいだ、壮大に広がるケヤキの枝葉が真紅に燃え上がる瞬間がある。

その枝葉のあいだから聞こえてくる鳥たちのポリフォニーは、また今日という一日が終わろうとしていることを告げるのである。

撮影は母。

ケヤキ(Zelkova serrata)はニレ科の樹木で、東アジアに広く分布する広葉樹である。

日本を代表する樹木の一つであるケヤキは、材質が硬く、摩擦にも強いため、強靭な材として、古くから寺社建築などに使われてきた。

巨木になるため、御神木として崇められ、日本各地で俗信や言い伝えの対象ともなってきたという。

日本一の大樹は、山形にある「東根の大ケヤキ」で、直径5メートル、樹齢は1500年以上といわれている。

1500年ってつまり、この一本の木は古墳時代から全く同じ場所に居座り続けてきたのである。

永い永い年月を経て、地形が変化し、生物種によっては絶滅して、人間たちが繁栄と紛争を繰り返す横で、ずっと静かに佇んできたのである。

これまでにどれほどの生き物たちの生を宿してきたのだろう。

地中では、どれほどの植物や菌類と根っこで絡み合っているのだろう。

どれほど人々の悲しみや怒り、嘆きや喜びを目にしてきたのだろう。

ケヤキという名は、「けやけき木」に由来し、際立って目立つという意味なのだという。

ひときわ目立つ美しい巨木として、ケヤキは人々の心の拠り所となりながら、同時に人間のタイムスケールよりはるかに大規模な世界で、あらゆる生と絡まり合って共生成し続けているのである。

12歳の時、私立の中高一貫校に入学した僕は、父と兄の影響もあって卓球部に入部した。

同期の男子は、僕以外にもう一人いただけだった。

けやき君である。

小学校以来根っからのスポーツ男子だった僕は、そのやんちゃでプライドの高い性格と、私立校の部活という新たな秩序が相まって、狂ったように卓球にのめり込み、その上達という単純明快な目標を達成することだけに日々の大半を費やした。

そんな僕の相手をしてくれたけやき君は、あらゆる意味で僕とは反対の性格をしていた。

練習が上手くいかないとき、僕の沸点は極端に下がり、沸き起こるイライラと闘っては上達するまで頑固に練習し続ける。

でもけやき君は、どこかひょうひょうとしていて、いつも冷静に自分の欠点を探すか、不可能なことは潔く「これは無理」と切り捨てて、練習に臨んでいたのだ。

そんな彼に僕は不思議な魅力を感じるようになった。

自分の能力や価値を他人との比較ではなく、自分の内側に宿している気がしたのである。

それ以上に、どこかその大樹のように両腕で受けとめてくれる寛容でやさしい佇まいに惹かれていたのかもしれない。

高校に上がったばかりの頃、学校の交換留学プログラムの一環で、ニュージーランドから留学生が数人やってきた。

彼らと彼らを受け入れているホストファミリーのメンバーで全員集まることになったのだが、それをけやき君の家が主催することになった。

ホストだった僕も加わり、日中は流しそうめんなどでどんちゃん騒ぎをしたのだが、暗くなるとなぜかみんな外に体育座り。

怪談話である。

怪談のレパートリーを備えている強者が何人かいて、その話を聴いては「キャー!」とか「怖えー!」とか叫んでは、また聴き入る。

なぜ怖いだけなのに、人は怪談を求めるのだろう。

それは怪談には人智に理解できない謎めいた世界に住まうものの声や影があり、そうした他者の世界の入り口へと誘(いざな)ってくれるからなのではないかと僕は思う。

自分には理解できない世界があることに気づき、それを受け入れ、適度な距離や畏怖の念を忘れずに歩み寄っていこうとする。

差異や境界ばかりが強調されるこの世界で、他の存在と共に在ろうとするとは、そういうことなのかもしれない。

母からLINEが届き、実家のそばのケヤキの木が伐られるという知らせを聞いた僕は、あらゆる複雑な感情を経験した。

伐採の引き金となったのは、「落ち葉の苦情」らしい。

落ち葉とは、現役を引退し、次世代を養うべく子守りをおこなう植物界のおじいちゃん・おばあちゃんのような存在である気がする。

植物という生き物は、動物なんかよりもはるか昔にこの地球での進化に成功したが、その生存に不可欠だったのは葉っぱが果たしてきた役割だろう。

日中、葉っぱたちは光合成の材料となる二酸化炭素をせっせと取り込み、さらに太陽の光と根から吸い上げられた水を原料として、養分を作る。

シーズンを終え、役割をまっとうした葉っぱは地上へと落ち、地中のあらゆる微生物たちに分解してもらうことで、長い年月をかけて元の木々の養分となっていくのだ。

こうした生命の循環の中にある落ち葉も、人が築いた町やコミュニティで生きていく限り、その家や道路や公共の場へと散っていく。

そして目的や規則、景観の美的基準を定められた空間にあっては、次世代のための養分となれずに一生を終えるだけでなく、その空間を所有・管理する人にとってはただの邪魔物でしかなくなるのである。

人間が、人間の世界へと閉じこもっていく。

上の室という田舎の地で起きた小さな出来事は、同時に、めまぐるしく変わりゆく僕らの社会全体の縮図でもあるだろう。

今はマンションやモールが並んでいるつくばの中心部にも、きっと昔は多くの思い出や憩いの場があったはずだ。

そして今日もアスファルトに散りゆく落ち葉や花びらのなかには、目には見えないつながりあいの歴史が宿っているのだろう。

撮影は母。

チェーンソーの音に驚いた母が伐採現場に急ぐと、一人のおばあちゃんが立っていたという。

94歳のそのおばあちゃんは、なんと70年前にケヤキを植えたという方であった。

母とおばあちゃんは、伐り倒されるケヤキを前に、泣いた。

あのケヤキたちがそのまま育っていれば、いったいあと何年生き続けたのだろう。

あのケヤキたちがただそこにいるだけで、いったいどれほど多くの虫や鳥やその他の命を支えていたのだろう。

秋の夕陽や冬の雪に覆われて佇むその華麗でたくましい姿に、どれほどの人が息を飲んでいたのだろう。

複数の種が絡まり合う物語を紡いできたケヤキたちは、もうそこにはいない。

何十年と立ち続けたその場所には、もう立っていない。

ただ、失われると同時に、それらが僕ら家族や他の人、生き物にとってどれほど大切な存在であったか気づかせてくれたのも事実である。

喪失は、残されたものたちのあいだに、より深い連帯を生む。

そしてまた、限りあるこの世界の中で、新たな生命が芽を吹き、互いを支えあいながら育っていくのであろう。


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