2019/11/8 想像力と泥臭さが必要

今日は一つ、印象的なことがあった。


簡単にいうと、後輩との関わり方についてと肩書き・経験について。


まずは後輩との関わり方。

自分は良かれと思って後輩に対しできることをしていたが、ある人にとってはそれが後輩のプライドを傷つけているのではとか、後輩の頑張るべき機会を奪っているのではとか、要は老害なのではないか、というように映っていたそう。

確かにわかる。自分もスポ根なので、「困難こそ自分の力で乗り越えないと成長はない」とも思うし、「失敗も成長のうち、たくさん失敗させよ」という話もわかる。

何が本当の意味で後輩のためになるのか、それを今の今まで考えていた。

自分が前線に立って頑張っていた時を振り返ると、ぶっちゃけ本当にしんどくて、助けの手があるならわらにもすがりたい思いだった。でもその助けの手を求めることにも一種の勇気が必要だったり、プライドを捨てる苦しみがあると思っている。


何が正解かはわからない。結構1日考えたけどわからない。

でも、自分の中の結論としては、目の前に困っている後輩がいてそれを見過ごすことはできないし、先輩後輩の関係がそこでより強くなることが悪いことだとは思わない。後輩たちの成長は常に考えつつ、時に仁義や筋を教えることがあっても、この助け合いのサイクルは止めたくない。だって、自分も後輩からたくさんのものをもらっているから。


今後も悩む課題だと思うけど、悩み続けるべき課題なのかな。



もう一つ、肩書きや経験について。

自分は承認欲求の塊である。認められること、褒められることを生きがいに生きています。

なんてことは今になってやっと言えるようになったのだけど、だからこそ肩書きにすがりがちな人間でもある。

過去のことは過去のこと。今を保証してはくれない。

そんなことを久しぶりに言われて、ハッとした。

自分も肩書きや経験にこだわるのはダサいと思っているし、それらは役割でしかないけれど、これまでの自分の経験にすがって今を生きていることは否定はできない。それらにすがらないと今を語る自信がないことを裏付けている。そんな自分のコンプレックスをぐっさり刺された感覚。

だが、それもまた捉え方なのかなとも思ったり。経験は今を保証してくれない、とは言っても、それはれっきとした「経験」であり、そこから生まれるきっかけや話は数多くある。自分が打ち込んできたものを、どうして胸を張って話してはいけないのか。それはいささか疑問に残る。

もちろん、過去に囚われっぱなしはいけない。今や未来のことを考えて進むべきなのは重々承知であるが、自分の過去の頑張りも大切にしておきたい。当時の自分と、当時お世話になった人たちとの温度感はそのまま取っておきたい。そしてそれを糧に日々生きるのは別に悪いことではないのでは。真摯に誠実に、そしてその過去の自分に恥じないように今を生きるのが、過去の経験に対する尊敬の念を表す。過去の肩書きに恥じないように日々前に進んで、残した結果で過去の自分に恩返しができれば良い。そんな風に考えています。



なんだかまとまりはないけど、要はこの二つの話から、「もっと想像力豊かにならねば」ということと「もっと泥臭くやらねば」ということ、そしてちょっぴり寂しくなってしまったということが言いたかったです。

まぁ、何を言われても自分のこだわりに沿って自分で決めて、自分で結果出すしかないので、好きにやります。この週末はたくさんの人と会う予定。

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