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自分語り

最近はもう完全に興味が教育にシフトしている。というか多くの人間がたどり着く場所なのかもしれない。

アメリカに留学していたときに持て余した時間で自分の留学体験をシェアするTwitterアカウントを作ったことがきっかけで、2019年の夏はThink Flat Camp、HLAB、その他のセミナーなど、多くの活動に手を出した。そのほかにもほぼ毎日「誰か」に話を聞きにいくことを目標に9月くらいまで積極的に都内を飛び回った。気づけばその中で出会ったHLABの友人の高校生団体創設に乗っかり、BE Frontierとしての活動も始めていたのである。

その中で今、自分の中での課外活動の美学というのを見出しつつあるということに気がついた。そもそもなぜ高校生が学校の外で活動をすることに意味があるのだろうか。若さゆえのクリエイティブさで社会をリードしていくことが目的なのであろうか?僕は課外活動の本質はむしろ生徒自身の成長につながるメソッドの一つとしての役割が強いと感じている。

そもそも、課外活動とはなんなのだろうか?コトバンクによると

学校の教科学習以外の、児童・生徒が行う活動。

つまり、なんでも学校の授業以外で行う活動は"課外活動"に分類することができると言える。つまり僕が今SFC中高で行っているプロジェクトも"課外活動"と言える。

以前のnoteでも触れたが、そのプロジェクトの第一の目標は学校全体のレベルの底上げである。というのも、情報社会における意識レベルの格差の拡大という問題意識をもとにLocalなアクションを起こしていくことを目的に行っている。そこで今僕が最も大事にしているのは、「敷居の高さ」である。

いわゆる「敷居」の高さは、新たなモノへ挑戦するときに多くの人の柵となる。「敷居」が高いと「どうせ自分のレベルには合わないや」と言った自己の過小評価や「いきなり話せって言われても話せない」と言った緊張など、本当にリーチアウトしたいターゲット層(いわゆる"意識の高く"ない人)に参加してもらえない。では、むやみやたらに「敷居」を下げることが正解なんだろうか?僕はそうは思わない。なぜなら課外活動やその他の新しいチャレンジ、そして決断を行うときに大事なのは「自発的に行動すること」である。そこに精神的な自立や主体性が伴うことで、より自分の人生に対して主体的に捉え、自分の思いや価値観に気づくことができるのである。それにはある一定の「敷居の高さ」は欠かせない。

つまり、僕は今「学部選択セミナー」の開催をしているが、ポイントは「何についてのセミナーか」ということではなく、生徒が自分のコンフォートゾーンから抜け出して、自発的に行動すること(イベントに参加すること)である。そしてそこで重要なのが、多少の手間をかけてもらうこと。例えばインスタグラムなどで手軽にリーチできるものよりは、Zoomなどのプラットフォームで開催することで、「ちゃんとやってる感」「自分は新しいことに挑戦したんだ感」が出るのである。

つまり、「敷居を高くしすぎない」(=本当にリーチしたいターゲットが参加に躊躇わない)と同時に「敷居を低くしすぎない」(=その人にとって"挑戦"となり得る)ことが大事であり、そのさじ加減が難しい。

人間は「人前で話す」が主旨のイベントより「聞くだけ」という前提の方がよっぽど気楽に参加できる。それは自分が運営している高校生団体のイベント開催でも感じたことである。そのため、今現在の段階では卒業生のお話を聞くだけのセミナー形式のイベントでSFCの中高生に「自分の進路・将来について考える」ということを習慣づけさせ、だんだんとレベルアップしていき、将来的にはディスカッションのような「人前で話す」形式のイベントへとレベルアップしていけたらいいと思う。

長々と書いてしまったが、今自分が行っている活動にはそんなロジックがある。決して「学部選択」や「課外活動」をやることの本質はそれ自身にあるのではない。それに本気で向き合い、自分の人生の「決断」の一つとして自分自身について真剣にかんがえることで、自ずと自分のやりたいこと、目指すものなどが見えてくるのであろう。

FBでも様々な高校生を見かけるが、一度自分が課外活動というものを経験して自分自身の軸が決まったら、今度はそれをギブする側になるのが私たちの使命なのではないか。Carry it forwardではないが、同じ高校生として他の高校生の自分探しの手助けをしてあげることは将来共に社会を創っていく仲間として、当然のことである。今まで自分は校外に向けて「どうしたら高校生のレベルを上げられるか」ということばかり考えていたが、まずは身近な学校からだ。手の届く範囲から、少しづつ変えていくのである。



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