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鎌倉殿と山名義範

吉永哲郎先生の「おはなし高崎人物伝」(1997年 高崎市出版)、高崎市に所縁のある人物を興味深くまとめている。この本の一番初めに出て来る人物は誰か? 我が祖であり約850年前に山名八幡宮を創建した 山名義範 であるのだが、この人物をご存知であろうか?

「鎌倉殿の13人」その原作である吾妻鏡には28か所にその名が記されている。「おはなし高崎人物伝」によると、まず治承4年(1180年)の頼朝挙兵に応じて、その後も木曽義仲討伐、一ノ谷の戦い搦手の大将・源義経の配下として(鵯越)、伊豆守従五位下に叙され、更に奥州藤原泰衡討伐、三代将軍実朝の後見役として、曽我五郎の尋問を行うなど大河ドラマに役がないのが不自然なくらいだ三谷幸喜さんガッカリですw

山名義範は、新田義重の庶子(諸説あり)、として山名郷を与えられ「山名義範」と名乗り山名一族の祖となり安元年中(1175~1180)に宇佐八幡宮を勧請して山名八幡宮を創建している。

頼朝挙兵の際は、日和見をして中々従わなかった父・義重と違い、一早く馳せ参じてその後も御家人として活躍をし優遇される。(上記載)、山名家は御家人として西国を中心に広く所領を与えられ、山名郷は嫡男義国の長男重村が継承している。(ここから山名高井家が続いていて私が27代目・高井家は江戸中期に進雄神社より婿が来るまで山名姓であった)

そして、八代目が応仁の乱西軍総大将の山名宗全(持豊)であり、宗全をはじめ山名宗家と山名郷・山名八幡宮とのやり取りが「山名八幡宮文書(蜷川文書)」の中にみられる。
創建八百年祭を行った1975年は私の生まれた年で、その時に山名一族から山名八幡宮に奉納された神馬像は西国へ向いている。


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