幽霊の視点

「死にたみ温泉」の感想を書きます。読んでないかたは読んでからお願いします。

希死念慮について否定しないので、苦手なかたは回れ右。


さて、書きます。


弟が死んだ現場に行ったことが一度ある。
十五階から下を眺めると、眩暈がした。こんなところから、と思うような高さからアスファルトの駐車場をのぞきこんで、記憶に焼きつけた。
寝る前にはそこから飛び降りたらどんな気持ちになるのか想像した。弟の気持ちを知りたかった。眠りに落ちる寸前、成功しそうなこともあったが、夢の中でさえ、地面に激突するときには自分の視点ではなく、ドラマで見たような横から見た映像に切り替わってしまった。後年、明晰夢の本を読んでいたら、夢の中では自殺できず、途中で自分の視点ではなく誰かが自殺を見ている視点に切り替わるのだ、と説明されているのを見たとき、ああやっぱりそういうものなんだと思った。
ぼくはいつまでも弟がどうして死んでしまったのかわからなくて、そのせいか自殺を描いている作品を読むといつもいらいらした。
申し訳ないんだけど、ぼくが求めているものではないんだ、という考えがつきまとって集中できなかった。
それなのに、というか、だからなのか、「死にたみ温泉」はまったくそういう苛立ちはなく、読了後には作品を好きになっていた。
それで、ようやくぼくは自分自身の求めていたのが何だったのかを理解したんだけど、ぼくは自殺した人を見たという外側からの作品を読みたかったのではなく、内側からの作品を求めていたのだ。自分の好みがわかってなかったから、注文したのに料理に文句をつけるような感じになってしまっていたんだな、と過去に読んだ自殺を扱った作品について申し訳なく思いました。ほんとうにごめんなさい。
そうか、おれは、自殺した幽霊の一人称による語りが読みたかったのか。
「死にたみ温泉」はユーモアのある語りに、まず引きこまれてしまう。九月の空気を美しく描写した後に、作者はこんなことを続ける。
〈もうすぐ冬だ。生き返ろう〉
〈私は幽霊だ。冬に死んだので、冬にしか化けて出られない〉
ここで、大抵の読者はつかまってしまう。おれはつかまってしまった。最初に無理筋な話をユーモアでくるんで差し出されたら、受け取らないわけにはいかないという人間の習性をよく利用しているなと思いました。
この幽霊、人助けをしているようにも見えたはずなのに、人の死を望んでいるようにも見える。最初はね、なんなんだろうと思いました。理屈を超えているような気がしたんですよ。
でも、二度、三度と再読するうちにわかったのは、この語り手は幽霊だったんだという気づきを得ました。
いやそんなもん最初からわかってるだろうと怒られそうですが、でもねえ、幽霊が氷結500ml缶を飲んでいるとか、ストロングゼロを飲んでいる幽霊もいるけれど、アルコール分に差があって健康に気をつけているから7パーセントを選ぶとか言われているうちに、幽霊が幽霊だと思えなくなっているんですよ。人間みたいに感じちゃってる。
人間はね、自殺しちゃだめだって言います。当然です。それが人間界のルールだ。
でも幽霊は違う。生きててもいいし、死んでてもいいと思ってしまう。だってもう死んでいるのだから、生きていることにだけ特別な価値は見出さない。死んでもそんなに悪くないもんだよとも思っていそうだ。
「その人」が男なのか女なのかわからないのも、幽霊にとっては性別だってどうでもいいんだろう。だって生死だってどうでもいいんだから。
で、自殺したい人って、自殺しちゃだめって人とはあまり話したくないだろうと思うんですよ。全否定されちゃうから。でも、どんな人も、どんな物語も、大抵は自殺を完全に否定する。だから、自殺したい人はそういうものを避けてしまう。
結果的に、希死念慮が強いと、対人関係を避けてしまい、寄り添う人がいなくなってしまう。
死んでもいいし、生きてもいいなんて、そうそう言える台詞ではない。
でも、そうか、なるほど、幽霊だったら言えるんだよね、というのは、ぼくのなかではすごい発見でした。よくぞ教えてくださった、ありがとうございますと言いたくなってしまう。
というかお礼をいうべきだ。
ありがとうございます、津早原晶子さん。ぼくはあなたの作品を読んで、少しだけ心が軽くなりました。

弟の遺書には謝る言葉ばかりが書いてあって、どうして死ぬときにまでごめんと言わなきゃいけなかったのか、と苦しくなったんだけど、この作品でも「その人」はごめんごめんといいながら死んでいく。そこにすごくリアリティを感じてしまった。〈なんとなく飛び降りてしまった〉という文章の、〈なんとなく〉という言葉にも、リアルさと共に、優しさのようなものを感じてしまう。たぶんそれは弟のことをぼくが知りたいからであって、そうでない人にとっては怖く感じるのかもしれないなとも思う。そこは分岐点になり得るなと。
ぼくにとっては一貫して、これは怖い話だとは感じなかった。一ミリも怖くなかった。

自殺した親族の会というのがあって、その会の主催者はお子さんが自殺して、誰かに話を聞いてほしいんだけど誰も聞いてくれないんだと言っていた。最初は聞いてくれる、でもだんだんと聞いてくれなくなって、あなたは生きているんだから前を向かなきゃとか言われるのだと。会を作ったのは話を聞いてくれる人が欲しかったからだとおっしゃっていた。
統計的に自殺者の親族が自殺する割合は高いと何かで見たんだけど、その理由のひとつには、話を聞いてもらえない、孤立という面もあるのかもと思った。あと、自殺した父や母、息子や娘、兄や姉、妹や弟、が何を考えていたのかどうしても知りたいと願って近づきすぎたのかもしれない。なんとなくだけど、そういう一生引きずり続けるような死を経験した人にも、あの温泉は優しそうで、そういうところが好きな理由なのかもしれない。

いくら考えても前向きにはなれない辛さというのは世の中にあって、せめて少しの間だけでも楽になれればそれでいいという望みしか持てないときに、いくらでも入っていられる温泉があったら、それはいいなと思うんだよね。

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