心が大事だって?
私が育った劇団の俳優は、等身大の役をただ演じることにも、自分と違う人物をただ演じることにも、興味がありませんでした。彼らはね、自分より大きな役を演じたがったのよ。(中略)オイディプス王を演じるためには、偉大な俳優でなければならない。そう要求された時代がありました。三十年か四十年前まではハムレットであれウィリー・ローマンであれ、役の世界に見合う力量、度量、世界観――今後それらを総称して「サイズ」と呼びます――が必要とされました。サイズが足りない俳優はダメなの。
「作品を演じている最中でも、自分の内側から感情を引き出せ」という演技法が流行した時代がありました。これによってアメリカの俳優は大きなダメージを負ったんです。俳優自身の体験は、ハムレットが体験したことと同じではないのに。あなたもハムレットと同じく、デンマークの王子だと言うなら話は別よ。ハムレットのリアリティは、あなたという個人の中には存在しません。まず彼は王子だという状況があって、その中にハムレットの真実が存在する。彼は、生きるか死ぬかを決めようとします。彼の決断には王子という立場にふさわしい重みがあるべき。あなたが前に「誰をダンスに誘おうか、迷った」なんて優柔不断になった体験は、作品の規模に合いません。
これはステラ・アドラーの言葉です。『魂の演技レッスン22』という本に書いてある。
誰か他人の心を想像するとき、つい、自分だったらこうだろうと考えてしまうことがありますが、俳優はそれじゃダメなんだとアドラー先生は説きます。そりゃそうか。他人の心が自分の想像通りなら、世の中にいる人はみんな自分と同じになってしまう。世界すら、自分の想像の中にすっぽり入ってしまう。これはなかなか怖いことです。たいていのことを高をくくってしまうようになる。深い穴に落ちているのに、そのことに気づかないような恐ろしさがあります。
映画「Wの悲劇」で三田佳子が高木美保に「あなたね、なんであんなに毎回泣けるの」と言って、高木美保が「猫が死んだときのことを思い出すと泣けるんです」と答える。すると三田佳子が「そんなの芝居と関係ないじゃない」とばっさり切り捨てるシーンがあるんだけど、これはステラ・アドラーの言葉を短く的確に表現できてますね。最初に見たときは気づかなかったんですが、ステラ・アドラーの本を読んでから見ると、このシーンで何を言っているのかが理解できるようになった。
演劇の世界でどんなことが言われているのか、最初はわかんなかったんですよね。知識がなかったから。知識を得て、状況をぼんやりとですが想像できるようになって、それで初めて何気ないシーンに込められた意味に気づくことが可能になった。少しだけ大げさにいえば、知識を得たことで世界が広がった。前よりも作品が大きくなった。
作り手の心を感じて、より深い理解ができるようになった。
心は大事だ。それは誰でも知っている。ですけど、ではどうすれば心を理解できるのか。
演劇繋がりで続けると、その鍵は「二人の王女」にあるのです。
ガラスの仮面で演じられる作中劇では「二人の王女」は五本の指に入るくらい好きなエピなんですが、あれが面白いのは心を理解するためのステップがあちこちに散りばめられているから。
役をつかむために、姫川亜弓と北島マヤは生活を取り替えます。お嬢さまとして暮らすのがどんなものかをマヤは学び、亜弓は貧しい暮らしがどんなものかを学ぶ。状況をそれぞれが理解していく。月影先生が二人を冷凍庫に閉じこめてしまうシークエンスも状況を理解するためのものです。寒さがどう精神に影響を与えるのかを二人は知る。マヤは外に出たときの気持ちがどんなものかを知り、それを春の日差しと結びつける。姫川亜弓も寒さを孤独と結びつけて台詞に乗せる。自分の心を探るのではなく、状況を知ることによって誰かの心がわかるようになる。丁寧なステップを踏んで、段階を経て、自分とは別の存在である、アルディスやオリゲルドという他人の心を理解する。
台詞だけを読んで、自分だったらこういうことを言うときは、こう感じるのだろうなと安易に考え、分析したつもりになったりはしないのですね。
当たり前ですが、心は、内面は、誰であっても大事なので、理解にはそれ相応の誠実な態度が必要となるだろう。
「キャンセルカルチャー」という言葉を使う人たちは、それをやる人が「楽しんでいる」と簡単に決めつけます。
村上茉愛選手が「見返したい。思い知ったか」という言葉を発した心は、こんな気持ちがあったんだろうと簡単に決めつけてしまう人もいました。
そういうのって、単なる悪口でしかないとぼくは思いますね。悪口を言ってる自覚がないのは怖いことだと思います。深い穴に落ちているのに、そのことに気づかないようなものだから。
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